第1話 浮足立つ欠落令嬢
晩餐会は貴族たちの社交の場。
情報交換、人脈作り、未来の配偶者候補を見定める――目的は三者三様なれど、社交の裏には値踏みと計略が潜んでいる。
そんな華やかな戦場の隅で、一人の小さな令嬢が縮こまっていた。
彼女の名はエルネスタ。今年で十二歳になる公爵令嬢である。
(……あのテーブルにある、鶏肉美味しそう)
藍色に光るエルネスタの瞳が、目の前にある豪華なチキンの丸焼きに釘付けになった。小さなお腹がぐうと鳴る。
エルネスタは、一歩ずつテーブルへと近づいた。
だが、父の言葉が蘇る。
『エルよ、出された食事に直ぐに手をつけてはいけない。毒が入っているかもしれん』
エルネスタはピタリと手を止めた。
(毒入ってたら……いやだ……)
さらに母の言葉が蘇る。
『いい? 社交界の場では、一人でも多くの人と挨拶をして顔を売るのよ』
エルネスタは、きょろきょろと辺りを見渡した。
誰とも視線が合わない。
いきなり、誰かに話しかける勇気が湧かない。
(……どうしよう)
お腹がまた鳴る。
やだやだ。帰りたい。
早く家に帰って、愛犬のドミトリと遊びたい。
そのときだった。
かちゃん、と音がした。
銀のスプーンが、ふわりと宙に浮く。
はっとしたエルネスタは、感情を落ち着かせようとする。
(深呼吸……しなきゃ)
息を大きく吸った瞬間。
ぐうううう――。
エルネスタの小さなお腹から、すさまじい音が鳴った。
その音に気付いた周囲の貴族たちが数人、怪訝な顔でエルネスタを見た。
かあっとエルネスタの身体が熱くなる。
がちゃん。
がちゃん。
がちゃん――。
勢いよく連射されるような音と共に、テーブルの上に置かれた食器が次から次へ、宙へと浮き上がった。
「きゃあっ」
「なんだ!?」
ティーカップやスプーンが宙に浮くという異様な光景に、あちこちから驚嘆の声が上がる。
(抑えなきゃ……!)
エルネスタは小さい手を握りしめる。
「おい……」
「食器が、エルネスタ令嬢の周りで浮いてる……?」
エルネスタの顔が真っ青になった。
なんとかしなきゃと思えば思うほど、鼓動は早くなり、食器は次々と浮き上がる。
「気持ち悪い」
そんな言葉が聞こえた瞬間、エルネスタの目に涙が浮かんだ。
「ふぇ……」
だから来たくなかったのに。
ああ、もう帰りたい帰りたい、ドミトリのふわふわの毛に顔を埋めて、暖炉の前で眠るの、毒なんて絶対に入っていないお家のご飯食べるの、気心の知れたメイドたちとトランプして遊ぶの。
がちゃん。
がちゃん。
がちゃん――。
食器がどんどん浮き上がる。
「ひっ……! 肉が……!」
ついには、チキンの丸焼きまで浮き出す始末だった。
そのとき――。
「エルネスタ様」
よく通る、落ち着いた声が社交界に響いた。
皆が一斉にそちらを見る。
公爵息女セレスティーヌ――エルネスタより六歳年上の、美しい令嬢。
「エルネスタ様。どうぞ落ち着いて」
エルネスタの従姉妹にあたるセレスティーヌは、静かに言った。
「ふぇっ……。セレスティーヌ様」
見知った顔に、落ち着いた声。
エルネスタの感情が、少しずつ落ち着いていく。
「あらあら、またやってしまったのね。わたくしがついていながら……」
セレスティーヌが慈愛に満ちた笑みでエルネスタの肩をそっと抱く。
その瞬間、浮力は解除され、浮いていた食器がけたたましい音を立てて、床へと落下した。
エルネスタの肩がびくりと動く。
セレスティーヌの細い指が、浮いた肩を押し込むように抑える。指先が冷たい。
「やっぱり、あの家の子は」
「欠陥品ね」
セレスティーヌの背後で大人たちが、ひそひそと陰口を叩き始めた。
お腹の虫さえ引っ込み、項垂れるエルネスタの耳元で、セレスティーヌが告げる。
「さあ、気を取り直して。向こうで一緒に食事をしましょう」
エルネスタは小さく頷く。
(……帰りたい)
そう思った矢先――。
背後から、人がざわつく気配がした。
エルネスタは振り返る。
そこには、黒い外套を羽織った、長身の銀髪の青年が一人佇んでいた。その姿を見た瞬間、エルネスタの凍った心がじわりと溶ける。
「ギル……!」
笑顔で近寄るエルネスタ。
だが一方で、その場に居た貴族たちは息を呑んで、後退りをした。
青年が貴族でないどころか、腰に銃を携えていたからだ――。
「不敬な。何用ですか。ここは貴族たちの社交場ですよ」
先ほどと一変して、セレスティーヌが鋭い声を上げる。
青年は無表情のまま、割れていない食器を淡々と拾った。そして、静かに口を開く。
「エル様を迎えに来ました」
セレスティーヌは眉をひそめる。
「晩餐会はまだ途中ですわ。ねえ、エルネスタ様」
エルネスタは視線を泳がせる。
黒いドレスの裾をぎゅっと握ってから、小さな声で呟いた。
「セレスティーヌ様。ごめんなさい……今日は帰らせて頂きますわ」
「……」
じっとりとした冷たい空気が、エルネスタの頬を掠めた。
無表情だった青年の顔が少しだけ、強張る。
「気にかけてくださって嬉しかったです。では、ごきげんよう」
エルネスタはスカートの裾をちょんと持ち上げ、くるりと踵を返した。
青年はエルネスタの背を守るように、静かにその後をついていく。
扉がガチャリと締まり、二人の姿が消えたあと、セレスティーヌの友人である伯爵子息が、彼女に尋ねる。
「先ほどの物騒な男は一体……。エルネスタ令嬢の執事、には見えませんでしたが」
セレスティーヌは形の良い唇を噛みしめる。そして、重々しく口を開いた。
「ギルベルト。エルネスタ嬢の飼い犬ですわ」
「飼い犬?」
「ええ。元々は農夫の出身ですが、戦で功績を上げて、エルネスタ嬢の御父上に、その腕を買われたのです」
「では、護衛のような?」
「そんなにいいものではありませんわ」
セレスティーヌは苦虫を嚙み潰したように、その美しい顔を歪める。
「この前の隣国との戦争で、一人で何十人と殺してきた男ですわ。表情にも乏しく、何を考えているのか分からない。でもまあ――」
ふっと、口角を歪める。
「ふぇ……って言いながら、物を浮かせる欠落令嬢と、血生臭い不気味な野良犬。薄気味悪い者同士、お似合いですわね」
◇
「ねえ、ギル」
エルネスタは背後にいる、ギルベルトに声をかける。
「少し遠いですわよ」
彼との距離は三メートルほど開いていた。
「近距離は得意ではありません」
「わたくしの近くがですか?」
「視界の話です」
「視界?」
「エル様に近いほど、外敵への反応が遅くなる」
「……なるほどですわ」
しばらく無言で廊下を歩く。
ふとエルネスタは立ち止まった。
考えるように、ぼんやりと宙を見る。
「ギルは隣の建物の屋根にいたのでは――」
「はい。屋根の上から、エル様が物を浮かせたのが見えたのです」
「それで、迎えに来てくれたのですか?」
「そろそろ嫌になる頃だろう、と」
白いスズランの花が咲いたように、エルネスタの顔がぱっと明るくなった。
先ほどまで青白く怯えていた表情とは別人のように。
二人は城の外へと出た。
夜の帳の中で、微かに白い雪が舞うように降っている。
「どうぞ」
ギルベルトは包み込むように、自身の外套の中に、エルネスタを招きいれた。
その中にすっぽりと姿を隠したエルネスタが、ボタンとボタンの間からひょっこりと顔を出す。
「馬車はこちらに」
ギルベルトがゆっくりと歩きだす。エルネスタも一緒に。
きし、きしと雪を踏むふたつの音が、闇の中へと溶けていく。
エルネスタはこの音がなにより好きだった。不思議と、揺りかごにゆられているかのように安心する。
二人は馬車に乗った。
馬がゆっくりと走り出す。
「ああ。早く温かいアッサムティーが飲みたいですわ。ドミトリを抱きしめたい」
エルネスタはふふ、と細かく息を吐くように笑いながら、ギルベルトにもたれかかった。
「帰れると思ったら、眠くなってきましたわ」
小さくあくびをする。
ギルベルトは言葉を発しなかったが、まどろむエルネスタを見て小さく微笑んだ。
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