王宮の『窓際倉庫』、今日も今日とて定時退社を目指す
「――おい、アルト。そのボロい古文書の山、今日中に全部整理しとけよ。終わるまで帰れると思うなよ」
王宮の地下四階。
カビと埃の匂いが充満する薄暗い『記録管理局・第十三倉庫』に、嫌味な上司の声が響き渡った。
バタン、と重い鉄の扉が閉まる音を確認してから、俺――アルト・シュタイン(20)は、山のように積み上げられた黄ばんだ書類の山を見上げて、深く、深いため息をついた。
「……まったく、人の嫌がる仕事を押し付けて、あのハゲ上司め」
俺の本来の部署は、王宮の端っこにある小さな事務方だった。
しかし、上司の不正(予算の横領)をうっかり「事務手続き上のミス」として正論で指摘したところ、見事にこの「誰も行きたがらない王宮の最果て」へと左遷されたというわけだ。
ここ『第十三倉庫』に置かれているのは、王国建国以前から放置されている誰も読めない古文書、魔王軍との過去の和平協定(破棄済み)、さらには「神々の契約書」と書かれたガラクタの山。誰も中身など見ていないし、見ようともしない文字通りの「王宮のゴミ溜め」である。
普通の人なら絶望して腐り果てるところだろう。
――だが、俺の心はむしろ晴れやかだった。
「……ふっ、むしろ最高じゃないか」
誰にも邪魔されない。上司のくだらない小言もない。
ここにあるのは無数の古文書と、俺の愛用するインクペン、そして正確無比な業務用のハンコだけ。
俺の固有スキルは『完全事務処理』。
あらゆる文章の矛盾を見抜き、適正な手続きに直し、ファイリングする――前世の社畜としての記憶とスキルが、このファンタジー世界でなぜか「あらゆる現象を事務手続き的に解決するチート能力」として昇華されたものだ。
俺自身はこれを「地味なデスクワークを爆速で片付けるための生活スキル」だと思い込んでいる。
「よし、ちゃっちゃと終わらせて、今日は定時で帰るぞ」
俺は袖をまくり上げると、目の前にあった一番分厚い、黒い革表紙の古い台帳を引き寄せた。
表紙には、金文字でこう刻まれていた。
『――【神魔不可侵条約・第一種機密指定】』
おいおい、また大層な名前のイタズラ書きだな。
どうせ数百年前の暇な王族が、中二病全開で書いたファンタジー小説の原稿でも押し付けられたのだろう。
俺は呆れつつも、ページをめくった。
そこには、難解な古代文字で「人間界と魔界、そして天界の不可侵条約。破られし時、世界は滅亡の炎に包まれる」などと物騒なことがびっしり書き連ねられており、その下の「備考欄」にはこう付け加えられていた。
『――なお、本条約の更新手続きが100年間行われなかった場合、自動的に魔王軍の総攻撃および天界からの天罰が執行されるものとする。現在の経過年数:99年364日(※明日が期限)』
「……は?」
俺の手がピタリと止まる。
明日が期限? 更新手続きがされてないと、世界が滅亡する?
「いやいや、バカな」
俺は思わずツッコミを入れた。
「こんな何百年も前の、しかも誰も管理してない倉庫の奥底にある埃まみれの書類が、明日の期限切れで世界滅亡のトリガーになるわけないだろ。第一、これ、最後のページに『更新承認印』の欄が空いてるじゃないか」
見れば、本当に「神界代表・最高神」と「魔界代表・魔王」のサイン欄はあるが、その下の「最終受付・担当者確認印」の枠が、綺麗に真っ白のまま放置されていた。
「……まったく。これだからお役所仕事は困るんだ。記入漏れがあるからいつまで経っても書類の審査が通らないんだよ」
前世のブラック企業で散々「書類の不備は悪」と叩き込まれてきた俺の社畜魂が、妙なところで疼いた。
例えイタズラ書きや過去のゴミ文書だとしても、目の前に「未処理の不備書類」があるのが、事務員としてどうしても許せない。
「よし、めんどくさいけど、形式上の処理をしておこう」
俺はデスクの引き出しから、一番朱肉の乗った「承認済み」のハンコを取り出した。
そして、その「神魔不可侵条約」の最終ページ、担当者確認印の枠めがけて――迷うことなく、コンッ、と力強くハンコを押した。
同時に、備考欄の「更新期限:明日」のところに、サラサラとペンで『更新手続き完了。今後100年間、平和裏に継続する』と書き加え、ファイリングの箱にポイと放り込んだ。
「ふう、これでよし。未処理案件を一つクリアしたぞ」
俺が伸びをした、その瞬間だった。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!
「……おや?」
王宮の地下三階、いや、王都全体、さらには全大陸を揺るがすような、凄まじい地鳴りが響き渡った。
「な、なんだ……地震か!?」
慌てた俺が立ち上がると同時に、倉庫の空間そのものが黄金色と神聖な青い光に包み込まれた。
開け放たれた窓の外――遥か遠くの魔界の境界線上空で、まさに今まさに人間界へと侵攻しようと集結していた数百万の魔王軍の軍勢が、「……え? え?」と戸惑う暇もなく、全員ピタリと動きを止め、なぜか綺麗に整列して直立不動の敬礼(または土下座)の姿勢を取り始めた。
さらに、天界の雲の切れ間から降り注ぎかけていた「世界滅亡の天罰の雷」が、まるで事務連絡の通達を見たかのようにピタッと消滅し、代わりに「【システム:契約更新が正常に受理されました。世界平和ボーナスを付与します】」という幻の声が全大陸の人々の脳内に響き渡ったのである。
「…………は?」
あまりの出来事に、俺はぽかんと口を開けたまま、手に持っていたハンコを見つめた。
「いや、待て待て待て。俺、さっきただの古文書にハンコ押しただけだぞ……? なんだこのエフェクトは……!」
その時、ガチャリ、と倉庫の扉が勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、国家の最高機密を管理するはずの「最高神殿の聖女」にして、なぜか最近この倉庫に左遷(あるいは監視)としてやってきた銀髪の美女――セレスティアだった。
彼女は顔面蒼白で、両目を見開き、ガタガタと全身を震わせながら俺の作業台にすがりついてきた。
「あ、アルト様……っ!! い、今……っ! 天界の神殿と魔王城から同時に緊急通信が入りまして……っ!」
「お、おう。どうしたんだそんなに慌てて」
「な、なんと……『100年間放置され、明日にも世界が滅びるはずだった絶対不可侵の神魔条約』が、たった今、何者かの手によって完璧な手続きで更新され、さらに今後100年の世界平和が強制的に法制化されたと……っ!! 一体、どこのどなたが、そんな神をも超越する『究極の事務処理』を行われたのですか……っ!?」
「…………」
俺は手に持ったハンコをそっと引き出しの中にしまい込み、じっと天井を見上げた。
(……いや、犯人俺だけどさ。絶対に言えないな、こんなの……)
窓際部署の平社員・アルト。
本人は「定時で帰りたいだけの凡人事務員」のつもりなのに、今日も今日とて、その圧倒的な事務処理能力によって、世界は勝手に救われ、そして最高峰の神々と魔王たちが震え上がり始めていたのだった。
――続く。




