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名前を貸した夜  作者: 寝不足魔王


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7/10

第7話:裏切りと救済

 由希が消えて三日が過ぎた。

 四十二階の密室は、もはや豪華な邸宅ではなく、巨大な空洞へと変貌していた。理久はソファの隅で、電源の切れたスマートフォンの画面を指でなぞり続けている。


「……書かなきゃ。書かないと、全部消える」


 彼は独り言を呟き、何度もデスクへ向かう。だが、キーボードを叩こうとすると、指先が痺れ、呼吸が浅くなる。目の前のディスプレイは、何も映し出さない。由希という「中身」を失った器は、一文字の物語も生成できないただのガラクタであることを、刻一刻と突きつけられていた。


 そこへ、瀬尾からの着信音が響いた。

 理久は怯えたように肩を震わせ、数回のコールの後、ようやく通話ボタンを押した。


「……はい、九条です」


『先生、例のエッセイの続編ですが、まだ届いていません。何かトラブルでも?』


 瀬尾の声は、以前のような心酔したトーンではなく、どこか冷徹な「査定」の色を帯びていた。理久の心臓が激しく脈打つ。


「あ、ああ、……すみません。少し、体調を崩していまして。事務の佐伯がいなくなったので、身の回りのことが滞っているんです」


『佐伯さんが? ……ああ、あの女。先生、以前から思っていましたが、彼女はあなたの才能を独占しようとする、独占欲の強いタイプだ。彼女がいなくなって困るというのなら、それはあなたが「飼い慣らされていた」証拠ですよ』


 瀬尾の嘲笑を含んだ言葉に、理久の脳裏で何かが弾けた。

 そうだ。僕は飼い慣らされていた。彼女の才能に、彼女の言葉に。

 でも、彼女がいなければ、僕は三冠作家として生き残れない。


「瀬尾さん……助けてください。彼女が、僕の未発表の原稿と、プロットのすべてを持って逃げたんです」


 理久の口から、澱みなく「嘘」が溢れ出した。由希が教えていなかった、彼自身の生存本能が紡ぎ出した醜悪な言葉。


「彼女は……僕の才能に嫉妬していた。僕を陥れるために、僕の作品を盗んだんです。彼女を野放しにしておくと、大変なことになります」


『……なるほど。先生を裏切った、というわけですか。それは許されませんね』


 瀬尾の声に、冷酷な光が宿った。

『分かりました。修英館の法務部と、私の人脈をフルに使って対処しましょう。彼女がこの業界で二度と活動できないように。……そして、先生。あなたが彼女に「救いを求める」以外の選択肢がないように、こちらで包囲網を敷きます』


「……お願いします。彼女を……僕の元に、連れ戻してほしい」


 通話を終えた理久は、暗闇の中でうっとりと微笑んだ。

 愛しているから連れ戻すのではない。

 自分という「王座」を維持するために、唯一の歯車である彼女を、物理的に屈服させる。

 理久の瞳には、かつて由希が「美しい」と評した光は消え、どす黒い執着の泥だけが澱んでいた。


 三年前まで住んでいた、築三十年の安アパート。

 由希は湿った畳の匂いに包まれながら、リュックから取り出した古いノートを開いた。理久に奪われ、汚された母との記憶。それを、自分の手で「本当の言葉」に書き直そうとしたのだ。


 だが、ペンを握る由希のスマートフォンが、けたたましく震え始めた。

 画面には、かつての大学の友人からの着信が表示されている。


「もしもし、由希? ……あんた、今どこにいるのよ!」


 受話器越しに、怒鳴りつけるような声が響いた。

「……久しぶり。どうしたの、急に」


「どうしたのも何もないわよ! 今、ネットで大変なことになってるの知らないの? 九条理久の事務所が『元スタッフの女による、未発表原稿の窃盗と嫌がらせについて』って公式声明を出したのよ。実名は伏せられてるけど、あんなの、あんたのことに決まってるじゃない!」


 由希の頭が、殴られたように真っ白になった。


「窃盗……? 私が、彼の原稿を?」


「あんた、あんな綺麗な顔の天才作家を妬んで、原稿を奪って逃げたんですって? もう出版業界の知り合いもみんな言ってるわよ。『佐伯由希とは関わるな』って。あんた、何したのよ! 恥ずかしくないの!?」


「待って、違うの、私は――」


 説明しようとしたが、ツーツーという無機質な切断音が響いた。

 信じていた繋がりが、一瞬で断ち切られた。


 それだけではなかった。数時間後、アパートのドアを激しく叩く音がした。

 郵便受けに無理やりねじ込まれたのは、理久が雇った弁護士からの受任通知書だ。

『守秘義務違反による巨額の損害賠償請求』。そして、身に覚えのない『借用書』の写し。


「……はは、あははは!」


 由希は乾いた笑い声を上げた。

 理久は、あるいは彼の後ろにいる瀬尾は、由希が「自分なしでは生きていけない」ように、彼女の周囲の土壌をすべて毒で汚したのだ。

 友人、仕事のツテ、社会的な信用。すべてが「九条理久の敵」というレッテルを貼られ、焼き尽くされていく。


 窓の外、雨が降り始めた。

 かつて自分が彼を創り上げるために使った「言葉」という名の武器が、今、巨大な鎌となって自分の首元に突き立てられている。


「理久……。あなたは、本当に私を殺すつもりなのね」


 暗い部屋、電気が止められた薄闇の中で、由希は震える膝を抱えた。

 逃げ場はない。社会という大きな網が、ゆっくりと、確実に彼女を追い詰めていた。


 修英館の応接室。瀬尾は、理久が持参した「捏造された被害報告書」を指先で弾き、満足げに背もたれに体を預けた。


「……見事な手際ですよ、九条先生。彼女が持ち出したとされる『未発表原稿リスト』、実にそれらしい。これなら法務部も、そして世論も、一気に彼女を『希代の天才を蝕む寄生虫』として認識するでしょう」


 理久は、瀬尾の冷徹な称賛に居心地の悪さを感じながらも、必死に「被害者」の顔を演じ続けた。


「瀬尾さん……彼女を、本当に追い詰められるんですか? 彼女はプライドが高い。もし、すべてを暴露すると言い出したら……」


「暴露? 誰が彼女の言葉を信じるんですか」

 瀬尾は眼鏡を拭き直し、残酷な笑みを浮かべた。

「彼女には実績がない。職歴もない。あるのは、あなたに寄生していたという汚名だけだ。負け犬の遠吠えと、三冠作家の悲痛な告白。世間がどちらを真実とするかは火を見るより明らかです。……それに、彼女が住んでいるアパートのオーナーにも、当社の関係者から『不審な人物が潜伏している』と伝えておきました」


 理久の心臓が、恐怖と高揚で跳ねた。自分が一文字も書けないという弱みを握られている瀬尾と、こうして「共謀」しているという事実。それは救いであると同時に、首を絞められる縄でもあった。


「いいですか、先生。彼女の逃げ道をすべて塞ぐんです。光も、食糧も、繋がりも。すべてを失い、真っ暗な穴の底で絶望した時……最後に差し伸べられるあなたの手だけが、彼女にとっての『神の救い』に見えるようになる。……支配とは、暴力ではなく、選択肢を奪うことなんですよ」


「選択肢を……奪う」


「ええ。彼女は、あなたの元に戻るしかない。そして、死ぬまであなたのための『ペン』として生きる。それが、彼女が犯した『自立』という名の罪に対する報いです」


 瀬尾の言葉は、まるで由希を調教するためのマニュアルのように理久の脳内にインストールされていった。

 理久は、自分が瀬尾という巨大な怪物の一部になったような感覚を覚えた。

 由希を愛しているからではない。

 自分という「空箱」を維持するために、彼女という「中身」を、二度と逃げ出せない強固な檻に閉じ込める。

 

「……やってください。彼女が、僕なしでは息もできないように」


 理久の声は、もはや人間の体温を失っていた。

 窓の外、出版社が立ち並ぶ街の明かりが、獲物を包囲する網のように静かに光っていた。


 安アパートの室内は、外界よりも数度低いのではないかと思えるほど冷え切っていた。

 電気が止まり、唯一の光源であるスマートフォンのバッテリーも残りわずかだ。由希はコートを着たまま畳の上に座り込み、闇の中で液晶画面を見つめていた。


 そこには、理久からのメッセージが、まるで粘りつく泥のように連投されている。


『由希、大丈夫? 大家さんから聞いたよ。家賃を滞納して、追い出されそうなんだってね。君、そんなに困ってたなら、どうして僕に言ってくれなかったんだ。水くさいよ』


「……誰のせいだと思ってるのよ」


 由希の乾いた声が、何もない部屋に響く。

 理久からのメッセージは、分刻みで届き続けていた。


『弁護士からの書類、届いたよね。あれ、瀬尾さんが勝手にやったことなんだ。僕は止めたんだけど、出版社側は「先生の権利を守る」って聞かなくてさ……。このままだと、君、本当に巨額の賠償金を背負わされることになるよ。逃げても無駄なんだ、彼らは日本中の銀行口座を凍結させる力があるんだから』


 画面が再び光る。


『……でも、安心して。僕が君を助けてあげる。君が僕のところに戻ってきて、「盗んだ」と言われている原稿を返したという形にすれば、僕が瀬尾さんを説得して訴えを取り下げさせてあげる。君を責める人は、僕が全部黙らせるから。ねえ、由希。君を理解できるのは、世界中で僕だけなんだよ』


 由希はスマートフォンの電源を落とし、壁に頭を預けた。

 理久の言葉は、一見すれば救いの手のように見える。だが、その裏側にあるのは「お前はもう詰んでいる」という残酷な宣告だ。


 突然、玄関のドアが激しく叩かれた。


「おい、佐伯さん! いるんだろ! 警察から連絡があったんだ。あんた、九条先生のところから何か盗んだって? 近所の目もあるんだ、今日中に荷物まとめて出て行ってくれ!」


 大家の罵声がドア越しに突き刺さる。由希は息を潜め、暗闇の中で身を縮めた。


「……私の場所なんて、もうどこにもない」


 友人たちは電話に出ず、SNSでは「三冠作家を裏切った女」として名前の特定が始まっている。理久が敷いた包囲網は、彼女の呼吸さえも奪い始めていた。


 その時、再びスマートフォンの電源を入れると、一通の短いメールが届いていた。

 それは、以前由希を評価してくれた小さな出版社の編集者からだった。


『佐伯さん。九条先生の件、本当ですか? もし本当なら、うちではもう、あなたのペンネームでも仕事は振れません。……残念です。あなたの才能は、本物だと思っていたのに』


 由希の目から、初めて一筋の涙が零れた。

 理久は彼女の生活を奪っただけではない。彼女の唯一の拠り所であった「作家としての尊厳」を、最も残酷な形で踏みにじり、土足で汚したのだ。


「……あは、あははは! すごいわ、理久。あなたは、本当に完璧な『九条理久』になったのね」


 由希は暗闇の中で笑い続けた。

 愛などという言葉では説明できない、逃げ場のない執着。

 理久が用意した「救済」という名の檻が、今、由希の目の前で大きく口を開けて待っていた。


 降りしきる雨は、由希の体温を容赦なく奪い去っていった。

 リュック一つを背負い、アパートを追い出された彼女は、行くあてもなく夜の街を彷徨っていた。

 かつて自分が「九条理久」のために選んだ美しい街路樹が、今は刃の列のように自分を拒絶している。


 ふと、目の前の路肩に一台の高級セダンが音もなく滑り込んできた。

 後部座席の窓がゆっくりと開き、中から暖かな空気と、あの日と同じ、少し冷たい香水の匂いが漂ってくる。


「……おいで、由希。風邪をひいてしまうよ」


 傘も差さずに車から降りてきた理久は、濡れ鼠のようになった由希に、カシミアのストールを優しく掛けた。その手つきは、どこまでも献身的で、慈愛に満ちている。


「……私の居場所、全部壊したくせに。よくそんな顔ができるわね」


 由希の声は、凍りついたように震えていた。

 理久は悲しげに目を伏せ、由希の濡れた頬をそっとなぞる。


「壊したんじゃない。君が、外の世界に馴染めないことを僕が証明してあげただけだよ。……見てごらん、誰も君を助けに来ない。誰も君の言葉を聞こうとしない。この広い世界で、君という存在を受け入れる場所は、僕の隣しかないんだ」


「……警察まで使って、泥棒扱いして。それが、あなたの言う『隣』なの?」


「瀬尾さんが少しやりすぎたんだ。でも、それも君を取り戻したい一心だったから。……由希、怒らないで。僕はただ、君という命が僕の外側で消えてしまうのが怖かったんだ。僕がいなきゃ、君はただの無力な女だ。でも、僕の隣にいれば、君は世界で一番の『作家』でいられる」


 理久は由希の腰を引き寄せ、逃げられないように抱きしめた。

 その胸の鼓動は、勝利を確信したかのように力強く、一定のリズムを刻んでいる。


「……助けてあげるよ。賠償金も、住む場所も、社会的な汚名も、僕が全部解決してあげる。君はただ、あの部屋に戻って、僕のために一行、また一行と、美しい夢を綴っていればいい。……ねえ、由希。これが僕たちの、本当の救済だと思わないかい?」


 理久の声が、雨音に混じって甘く脳を溶かしていく。

 由希は自分の力が抜けていくのを感じた。

 抵抗する場所がない。頼る人間もいない。自分の言葉を信じてくれる世界も、もう存在しない。


「……私は、一生、あなたのゴーストでいろっていうのね」


「違うよ。君は僕の魂だ。僕が九条理久として生きるための、唯一のガソリンだよ。……さあ、帰ろう。温かいお風呂と、新しいキーボードが君を待っている。……もう、二度とあんな汚い部屋には帰さなくていいように、君の鍵、僕が捨てておいたから」


 理久の腕の中で、由希は絶望という名の安息を感じていた。

 拉致されるように車に押し込まれる瞬間、彼女は自分がもう、人間としての尊厳を二度と取り戻せない場所へ連れ去られることを確信した。


 走り出した車。

 窓の外を流れる雨の景色を見ながら、理久は由希の手を、骨が鳴るほど強く握りしめ続けていた。


 数日前まで脱出を夢見たはずのタワーマンション。その四十二階に戻った瞬間、電子ロックがガチリと重厚な音を立てて施錠された。その音は、由希の人生に下された終身刑の宣告のように響いた。


「……これ、どういう意味?」


 由希は玄関に立ち尽くし、壁に新設されたスマートロックのパネルを見つめた。そこには理久の指紋認証と、顔認証のセンサーが青白く光っている。


「セキュリティを強化したんだ。瀬尾さんが、君みたいな『不審者』に原稿を盗まれないようにってね。これからは僕の許可がないと、ドア一枚開かないよ」


 理久は上着を脱ぎ捨て、優雅な手つきでタブレットを操作した。

 瞬時に、リビングの窓を覆う遮光カーテンが自動で閉じられ、外界の景色が遮断される。


「スマホも、新しいのを用意した。……前のやつは、瀬尾さんが『証拠品』として没収したから。これ、僕のアカウントと同期してあるんだ。君が変なところに連絡して、またトラブルに巻き込まれないようにね」


「……通信制限までかけるの。本当に、私を飼い殺しにするつもりね」


 由希は理久から手渡された真っ白なスマートフォンを、汚れ物のように見つめた。

 電話帳は空。ネットの閲覧履歴も、理久のデバイスからすべて監視される仕様。外界との接点を完全に断たれた、デジタルの牢獄だ。


「心外だな、由希。僕は君を守っているんだよ。外は君の敵だらけだ。でも、この部屋の中だけは安全だよ。君が僕のために文字を書き、僕がそれを世界に届ける。……それ以外に、君に何が必要なんだい?」


 理久は由希の背後に回り、その首筋を愛おしげに撫でた。

 だが、その指先は獲物の脈拍を確かめる捕食者のように冷徹だった。


「……書斎に、新しいキーボードとデスクを新調しておいたよ。前よりも静音性が高いやつだ。君が夜通し僕の言葉を紡いでも、僕の眠りを妨げないようにね。……さあ、由希。再会を祝して、まずは一本、エッセイを書こうか。テーマは『帰郷』がいいな。……戻る場所があることの幸福について、君の残酷なまでの筆致で綴ってほしいんだ」


 理久の声には、もはや甘えはない。

 由希を人間として求めているのではない。自分の生命維持装置を修理し、確実に稼働させるためのメンテナンス。

 由希は、自分の足元が底なしの泥沼に深く沈み込んでいくのを感じながら、一歩一歩、死神に導かれるように書斎へと歩みを進めた。


 書斎のデスクには、一通の書類が置かれていた。

 それはかつて二人が交わした「名前を貸す」という口約束とは似ても似つかない、修英館の法務部が作成した厳格な『業務委託契約書』だった。


「……何よ、これ。まだ私を縛るものが足りないっていうの?」


 由希が書類を指先ではじくと、理久は背後のドアにもたれかかり、冷めた目で彼女を見つめた。


「瀬尾さんからの条件だよ。君を法的に許す代わりに、君の『才能』を当面の間、九条理久の独占管理下に置く。……君は今後、九条理久名義以外のいかなる執筆活動も禁止される。そして、この部屋から許可なく外出することも、外部と接触することも、すべて契約違反として巨額の違約金が発生する」


「……奴隷契約ね」


「救済と言ってほしいな。君はここで、衣食住のすべてを保証され、ただ書くことに専念できる。……ほら、ここに署名して、由希。そうすれば、君を追い詰めているあの賠償金も、泥棒という汚名も、すべて僕が魔法みたいに消してあげる」


 理久は万年筆を差し出した。

 かつて由希が、彼に「作家」の格を与えるために買い与えた、あの一本だ。

 由希は震える手でそれを受け取った。重い。ペンの重みが、自分の自由を絞め殺す縄の重さに感じられた。


「……あなたは、私を愛しているから連れ戻したんじゃない。自分の『商品価値』が壊れるのが怖かっただけ。そうでしょう?」


「愛? そんな不確かなものより、この紙切れ一枚の方がよっぽど信じられるよ。……君は僕の才能。僕は君の看板。……愛なんていう安っぽい感情で繋がっていた頃より、ずっと純粋な関係になれると思わないかい?」


 理久の瞳には、もはや由希をひとりの女として見つめる情熱は欠片もなかった。そこにあるのは、高性能な機械を手に入れた職人のような、冷徹な満足感だけだった。


「……分かったわ。署名してあげる。……でも、忘れないで、理久。このペンが綴るのは、もうあなたの夢じゃない。あなたを、そして私を、一歩ずつ地獄へ運ぶための『遺言』よ」


 由希は殴り書きのような筆跡で、自分の名前をサインした。

 佐伯由希。

 その名が書面に刻まれた瞬間、彼女の人間としての権利は、九条理久という巨大な虚像の中に完全に埋没した。


「ありがとう、由希。……さあ、契約は成立だ。今夜から早速、仕事に戻ってもらうよ」


 理久は契約書を大切そうに抱え、満足げに微笑んだ。

 二人の間にあった歪な「恋」は死に、残ったのは、互いの破滅を前提とした、氷のように冷たい『事務的な契約』だけだった。


 青白いディスプレイの光だけが、書斎の空気を凍らせていた。

 由希は新調された高価なキーボードに指を置いている。かつてはこの指先から物語が溢れ出すたび、世界を裏側から操るような全能感に酔いしれたものだ。だが、今の彼女を支配しているのは、ただの「部品」としての虚無感だけだった。


「……書かなきゃ。書かないと、外へは出られない」


 独り言が、乾いた唇から零れる。

 由希が今綴っているのは、九条理久の新作中編『偽りの安息』。皮肉にも、理久に監禁された自分自身の現状を、理久の繊細な文体に変換して書き進めるという、倒錯した作業だった。


 かつての執筆は、魂の対話だった。

 今の執筆は、延命のための労働だ。

 一文字打つごとに、理久という怪物の寿命が一日延び、自分の自由が一日遠のく。


「進捗はどうだい、由希」


 音もなく背後に立った理久が、由希の肩に手を置いた。その手つきは優しく、しかし確実に彼女を椅子の背もたれに押し付けていた。


「……まだ、三千文字よ。これ以上は、今日は無理」


「無理じゃないよ。君ならできる。瀬尾さんが言っていたよ、君の言葉は追い詰められた時こそ輝きを増すって。……ほら、もっと『監禁された女の悲鳴』をリアルに書いてごらんよ。君なら、その痛みが手に取るように分かるだろう?」


 理久の声には、かつての「申し訳なさ」の欠片もなかった。彼は今、由希の苦痛を、最高の原稿を絞り出すための「燃料」として、極めて事務的に査定している。


「……あなたは、本当に私を壊すつもりなのね」


「壊さないよ。大切に、丁寧に、搾り取るだけだ。……さあ、続けて。君が書かないと、僕の『真実』が途切れてしまう。九条理久は、常に孤独で、常に絶望していなきゃいけないんだから」


 由希は鏡のように磨き上げられた窓ガラスに映る自分を見た。

 そこには、かつて「名前を貸した夜」に抱いていた野心も、理久への歪んだ愛情も、何一つ残っていない。ただ、主人の命令に従って言葉を吐き出す、青白い幽霊のような女がいるだけだった。


 由希は再び、キーボードを叩き始めた。

 カチ、カチ、カチ……。

 その音は、自分という存在を少しずつ削り、理久という虚像に捧げるための、冷たいカウントダウンのようだった。


 ダイニングテーブルに並んでいるのは、理久がデリバリーで注文した無機質なプラスチック容器の詰め合わせだった。かつての「偽りの成功」を祝う豪華な晩餐の面影は、どこにもない。

 照明の下、二人は向かい合って座っているが、視線が交わることは一度もなかった。


 カチ、カチ。

 プラスチックのフォークが容器に当たる音だけが、広すぎるリビングに虚しく響く。

 

「……十五章の修正、終わったよ。確認して」


 由希は食事を半分も残したまま、脂のついた指をナプキンで拭い、一束のプリントをテーブルに滑らせた。それはもはや恋人へ差し出す手紙ではなく、上司に提出する報告書のようだった。


 理久は無言でそれを受け取り、サラダを口に運びながら、事務的な手つきで赤字を追っていく。

「……ここの形容詞、もう少し『九条理久』っぽくできない? 以前の作品に比べて、少し攻撃的すぎる。読者は、もっと上品な絶望を求めているんだ」


「攻撃的なのが今の私の本音よ。……修正が必要なら、あなたが自分で直せばいいじゃない」


「できないから君をここに置いているんだ。……明日までに直しておいて。それと、瀬尾さんが言っていたインタビュー用のコメント案、まだ?」


 理久の声には感情の起伏がない。彼は食事を「栄養補給」として、由希を「執筆機能」として、淡々と処理している。由希もまた、彼を「生命維持のためのパトロン」としてしか見ていなかった。


「……夜通しやれば、明日の朝にはできるわ。それで満足?」


「満足だよ。君が機能している限り、僕たちの生活は守られるんだから」


 会話はそこで途絶えた。

 二人の間にあるのは、共有する夢でも、隠し持つ秘密でもない。ただの、滞りない「納品」の確認作業だ。

 食事は、味を確かめるためのものではなく、次の作業に必要なカロリーを摂取するための義務的な儀式に成り下がっていた。


 由希は空になったコップの水を一気に飲み干した。

 喉を通る冷たい感触が、自分の心が死んでいく感覚と同期する。

 かつて愛した男と、かつて愛した物語。その両方に裏切られ、縛り付けられたこの食卓こそが、今の彼女に与えられた唯一の「救済」という名の地獄だった。


 理久は原稿を鞄に詰めると、一度も由希を顧みることなく席を立った。

 残された由希は、汚れたテーブルの上で、次の「嘘」を構成するためのメモを、機械的に書き始めた。


 夜明け前の四十二階。窓の外では、朝の光が空を白濁させていくが、遮光カーテンに閉ざされた室内は依然として淀んだ闇の底に沈んでいた。


 由希は、デスクの前の椅子に縛り付けられたまま、最後の一行を打ち終えた。

 指先は感覚を失い、腱鞘炎の鈍い痛みが肩まで這い上がっている。だが、その苦痛さえも、今の彼女にはどこか他人事のように感じられた。


「……終わったわ。九条先生」


 背後のベッドから身を起こした理久に、由希は掠れた声を投げた。

 理久は欠伸をしながら、裸足で床を鳴らして近づいてくる。彼は由希の肩越しに、完成したばかりの原稿を画面越しに眺めた。


「完璧だ。……やっぱり、この部屋の空気じゃないと、君の才能は鮮やかに燃え上がらないんだね。あのアパートで腐っていた君は、僕が見ても惨めだったよ」


「惨めにしたのはあなたよ。……でも、もういいわ。怒るのも、憎むのも、疲れ果てたもの」


 由希は椅子をゆっくりと回転させ、理久を見上げた。

 かつてその瞳に宿っていた、彼への歪な愛情も、裏切られた際の猛烈な憎悪も、今はもうどこにもなかった。

 彼女の瞳に映っているのは、もはや愛する男でも憎い敵でもない。ただの、自分の言葉を社会へと流し込むための「排泄口」としての男だ。


「……私たちは、本当の意味で『死んだ』のね」


「死んだ? 何を言ってるんだい。僕たちは今、世界で最も輝かしい成功の中にいるじゃないか。今日だって、瀬尾さんがこの原稿を受け取って、また増刷が決まる。僕たちは生きているよ。この、永遠に続く嘘の中で」


「いいえ。あなたは、自分の命を繋ぐために私の『文字』を飼っているだけ。……私は、自分の存在を証明するために、あなたの『名前』を維持しているだけ。……ここにあるのは、人間の心じゃない。ただの、機能と契約の残骸よ」


 由希は立ち上がり、理久の頬に自分の冷え切った指を添えた。

 理久はそれを「慈しみ」だと勘違いしたのか、うっとりと目を細める。だが、由希の指が探っていたのは、彼の鼓動でも体温でもなく、自分の言葉を語る「喉」の感触だけだった。


「……あなたが私の言葉を吐き出し、私があなたの時間を削る。……私たちは、もう二度と、ただの男と女には戻れない」


「それでいい。僕は、君というペンを一生手放さない。君が壊れるまで、僕の物語を書き続けてもらうよ。……それが、僕が君を『救った』ことの、唯一の対価だ」


 理久は由希の手を握りしめ、自分の方へ引き寄せた。

 二人の影が、朝日の届かない壁に巨大なひとつの異形となって重なる。

 そこには救いも裏切りもない。ただ、互いの破滅を前提とした、氷のように冷たい共生関係だけが、夜明けの沈黙の中に完成していた。


 由希は理久の腕の中で、自分の心が完全に「文字」へと成り果てたことを悟り、静かに目を閉じた。

 二人の本当の物語は、ここから、さらに暗い深淵へと向かって走り始めていた。


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