第6話:盗まれた言葉
タワーマンションの書斎には、由希が肌身離さず持っていた一冊の古いノートがあった。
革の表紙は擦り切れ、ページは湿気でわずかに波打っている。そこには由希が中学生の時、癌で余命幾ばくもなかった母と過ごした、最後の数ヶ月の記憶が綴られていた。
それは小説の素材でも、誰かに見せるための文章でもない。佐伯由希という人間をこの世に繋ぎ止めるための、たった一つの祈りのような記録だった。
「……由希、これ、何?」
理久が、興味本位でそのノートに手を伸ばした。
由希は弾かれたようにそれを奪い取り、背後に隠した。その瞳には、かつてないほどの鋭い警戒心が宿っていた。
「見ないで。これは、あなたには関係のないものよ」
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか。僕たちの間に、もう秘密なんてないだろ? 君の過去は僕の過去で、僕の顔は君の顔なんだから」
「これだけは違う。……これは『九条理久』に貸すためのものじゃない。私の、私だけの神様との対話なの。触らないで、二度と」
由希の拒絶は、悲鳴にも似た重さを持っていた。
理久は肩をすくめ、その場では素直に引き下がった。だが、その瞳の奥には、自分には一生手に入らない「本物の温度」への、歪んだ羨望が火を灯していた。
数日後、理久は瀬尾から「エッセイ集」の企画を突きつけられていた。
「先生、あなたの新作は素晴らしい。ですが、読者は今、あなたの『素顔』を求めています。フィクションではない、あなた自身の生の体験を綴ったエッセイを一本、書いていただけませんか」
瀬尾の言葉に、理久は喉が引き攣るのを感じた。
生の体験。自分自身の言葉。
そんなものはどこにもない。自分の中にあるのは、由希が注ぎ込んだインクの池と、鏡を見て作った表情だけだ。
「……少し、時間をください」
理久は逃げるように書斎に篭った。
デスクの上には、由希が席を外した隙に残された、あの古いノートがあった。
彼は吸い寄せられるように、禁じられたそのページをめくった。
そこには、由希が幼い頃、母と一緒に折った歪な千羽鶴の話や、病室の窓から見た夕焼けの色の描写が、宝石のように美しい、しかし痛切な言葉で綴られていた。
理久はその一文字一文字を、乾いた砂が水を吸い込むように読み耽った。
(……これだ。これなら、瀬尾さんも、読者も、納得する。僕の中に『血』が流れていると信じてくれる)
理久は、由希のノートを自身のパソコンの横に開き、無機質な打鍵音を立て始めた。
由希が泣きながら綴った「母への想い」を、彼は自分の「母との思い出」として書き写していく。
言葉の持ち主をすり替え、性別を、情景を、わずかに改変する。
それは、由希という人間の魂を、一片ずつ剥いで自分の皮膚に貼り付けていくような、冒涜的な作業だった。
「ごめんね、由希。でも、君の思い出はこんなに美しいんだ。眠らせておくなんて、もったいないよ」
理久は恍惚とした笑みを浮かべ、エンターキーを叩いた。
彼の中にあった空洞が、由希の最も純粋な記憶で満たされていく。
それが、彼女の心を殺すことになると知りながら、理久は止まることができなかった。
彼は、自らが作り上げられた虚像を維持するためなら、愛する者の聖域さえも「商品」として消費する、本物の怪物へと成り果てようとしていた。
数日後、理久は由希が外出している隙を狙い、書き上げたエッセイのファイルを瀬尾へと送信した。
タイトルは『千羽の欠片』。
送信ボタンを押す指は、かつてないほど軽やかだった。それは自ら一文字も生み出せなかった男が、初めて「自分の判断」で世界に言葉を放ったという、倒錯した達成感だった。
一時間もしないうちに、瀬尾から着信が入った。
『――九条先生。驚きました。不意打ちですよ、これは』
受話器から漏れる瀬尾の声は、微かに震えていた。これまでの疑念に満ちた鋭さは消え、そこには純粋な感銘と、恐れに近い敬意が宿っていた。
『これほどまでに美しく、そして残酷な母への追憶を、あなたは今まで隠していたんですね。……あなたが「泥の王」を書けた理由が、この数千文字ですべて理解できました。これは文学ではありません、一人の人間の祈りそのものだ』
「……ありがとうございます。自分でも、この記憶を言葉にするのは、身を削るような思いでした」
理久は、由希から教わった「作家らしい」受け答えを流暢にこなした。
瀬尾の称賛が、理久の耳に甘い毒のように染み渡る。瀬尾という鋭い審美眼を持つ男を、自分の手で——厳密には、盗んだ言葉で——完全に騙しきった。その全能感が、彼の倫理観を麻痺させていく。
『次号の文芸誌の巻頭に据えます。特集を組みましょう。先生、あなたはこれで、単なる「天才」から「救済者」へと昇格する。……先生、この原稿、佐伯さんはもうご覧に?』
「……いえ。彼女には、まだ見せていません。あまりにもプライベートな内容なので」
『正解です。編集者と作者だけの秘密にしましょう。……いや、本当に素晴らしい。これこそ、私が求めていた「血の匂い」だ』
通話を終えた理久は、窓ガラスに映る自分を見つめ、陶酔したように微笑んだ。
瀬尾は「血の匂い」だと言った。だが、その血は理久のものではない。由希という名の犠牲者から、生きたまま抜き取った鮮血だ。
「……ねえ、由希。君は僕に感謝すべきだよ」
理久は、デスクの上に置かれた由希の古いノートを愛おしげに撫でた。
「君が誰にも見せず、一人で泣きながら抱えていた記憶を、僕が世界で一番美しい物語にしてあげたんだ。これで、君の母さんも、僕の母さんとして永遠に生き続ける。……僕たちは、本当にひとつになったんだ」
理久の声には、一寸の悪びれもなかった。
自分の空虚さを埋めるために、他人の最も聖なる傷跡を「商品」として差し出す。
その行為が、取り返しのつかない破滅への扉を開けたことに、彼はまだ気づいていなかった。
校正刷りが届くまでの数日間、理久は異様な高揚感の中にいた。
彼はリビングのソファに深く腰掛け、由希のノートから書き写したエッセイの写しを、何度も、何度も読み返していた。
「……雪の日の、病院の廊下の匂い。冷たいリノリウムの感触。母さんの細くなった指先」
理久は、あたかもそれが自分自身の記憶であるかのように、目を閉じてその情景を脳内に反芻する。由希が書いた「事実」に、自分なりの脚色を加え、記憶の隙間を埋めていく。
かつて自分が捨てられた過去や、孤独だったモデル時代の記憶を、由希の美しい追憶で上書きしていく作業。それは彼にとって、自分という空っぽの人間を、価値のある「過去」でデコレーションする至福の時間だった。
「理久、何を見ているの?」
背後から由希が声をかける。彼女は新作の執筆に疲れ、コーヒーを淹れにキッチンへ向かおうとしていた。理久は慌てて書類を伏せ、無理に作った笑顔で答えた。
「ああ、何でもないよ。瀬尾さんに頼まれたエッセイの構想を練っていただけだ。君が言っていた通り、自分の過去を振り返るのは、なかなか骨が折れるね」
「……そう。あなたが自分の過去に向き合うなんて、珍しいこともあるものね。私のノート、勝手に見たりしていないでしょうね?」
由希の鋭い視線が理久を射抜く。理久は心臓が跳ねるのを感じたが、演技の才能だけは本物だった。
「まさか。あんなに厳しく言われたじゃないか。君の聖域を侵すような真似はしないよ。……ただ、君の言葉をずっと聞いてきたせいかな。僕自身の思い出も、なんだか君の小説みたいに綺麗に整理されてきた気がするんだ」
「……ならいいけど」
由希は訝しげに理久を見つめたが、それ以上は追及せずにキッチンへと消えた。
理久は彼女の背中を見送りながら、背筋に走るゾクゾクとするような快感を味わっていた。
世界で一番の審美眼を持つ瀬尾を騙し、産みの親である由希までも欺いている。
この「偽物のノスタルジー」が誌面に載ったとき、由希は一体どんな顔をするだろう。
「……楽しみだな。僕たちの秘密が、また一つ増えるんだ」
理久は、由希がかつて母に贈ったという「歪な千羽鶴」の描写をなぞり、自分の指をゆっくりと折ってみせた。
もはや彼にとって、真実と虚偽の境界線は完全に消滅していた。
由希の心の一部を盗み取ったという罪悪感は、彼女と「記憶を共有している」という歪んだ一体感へとすり替わっていた。
数日後、由希は新作のプロットを理久のノートパソコンに転送しようとして、彼が席を外した隙にその画面を開いた。
理久はいつも、自分が一文字も書いていないことへの後ろめたさから、パソコンにロックをかけることさえ忘れていた。
「……何、これ」
デスクトップの隅に置かれた、見慣れないファイル名。
『千羽の欠片』。
由希の指が、吸い寄せられるようにマウスをクリックした。
画面に現れたのは、理久名義で書かれたエッセイの原稿だった。
一読しただけで、由希の全身の血が逆流した。
『母が病室で最後に折った鶴は、翼が少しだけ歪んでいた。僕の震える指先を、母は冷たくなった手で包み込み……』
由希は自分の喉元を掻きむしりたくなった。
それは、彼女が理久にさえ決して見せなかった、あの古いノートの中にある言葉そのものだった。由希が母を看取った夜、独りきりの病室で、心臓を引き裂かれるような思いで書き留めた、世界で最も大切な「祈り」だ。
「……う、あ……」
声にならない叫びが漏れる。
理久はそれを「盗んだ」だけではない。彼は自分の名前をその上に冠し、あたかも自分がその悲しみを背負った当事者であるかのように、厚顔無恥にも脚色を加えていた。
由希の母は、今や「九条理久を慈しむ、悲劇の母」として、公衆の面前に晒されるための商品に成り下がっていた。
「……何を見ているの?」
背後から、理久の声が響いた。
由希が振り返ると、そこにはシャワーを浴び終えたばかりの理久が、濡れた髪を拭きながら立っていた。その瞳には、一寸の罪悪感もなく、むしろ誇らしげな輝きさえ宿っていた。
「これ、何。……これ、私のノートでしょう。私の、お母さんとの記憶でしょう!」
由希は絶叫し、理久に掴みかかった。ノートパソコンがデスクの上でガタリと揺れる。
「やめてよ、由希。壊れるじゃないか」
「壊れる!? 壊したのはあなたよ! 私の心を、私の一番汚されたくない場所を、よくもこんな……こんな薄汚い偽物に書き換えてくれたわね!」
「偽物なんて、失礼だな。僕は君の記憶を救い出したんだよ。君が誰にも言えずに抱えていたから、僕が世界中に届けてあげたんじゃないか。……瀬尾さんも絶賛していたよ。これこそが、九条理久の『真実』だって」
理久は、狂ったような笑みを浮かべて由希の両手を掴んだ。
「君はいつも言っていたよね、言葉は世界と繋がるための手段だって。僕たちがひとつになるには、記憶だって共有すべきなんだ。……君の母さんは、今日から僕の母さんだ。それでいいじゃないか」
由希は目の前の男が、理解できない異物に思えた。
彼はもう、ただの操り人形ではない。
自分の空虚さを埋めるために、他人の魂を捕食し、それを自分の血肉だと信じ込む、真性の怪物だ。
由希の心の中で、何かが音を立てて完全に崩壊した。
数日後の朝。マンションのポストに届けられた文芸誌の表紙には、金文字で『特別寄稿・九条理久:千羽の欠片』という見出しが躍っていた。
由希はその雑誌をリビングのテーブルに広げ、震える指でページをめくった。
そこには、昨夜パソコンの画面で見た以上の、残酷なまでの「美談」が完成していた。
プロの編集者である瀬尾の手が加わり、由希の生々しい記憶は、より洗練された、より大衆に刺さる「美しい物語」へと磨き上げられていた。
「……私の言葉が、死んでる」
一文字一文字が、理久の美貌を飾るための装飾品に成り下がっている。
由希がかつて、母の冷たくなった手を感じながら綴った絶望。それを今、何万、何十万という見知らぬ人々が、コーヒーを片手に「感動した」と消費している。
スマートフォンの通知が止まらない。SNSは、理久の「隠された過去」への賞賛で溢れかえっていた。
『九条先生の繊細さは、お母様譲りだったんですね』
『涙が止まりません。先生の言葉には、嘘がないと確信しました』
「嘘がない……? はは、ははは……!」
由希は狂ったように笑い出した。
嘘しかない。この数千文字の中に、九条理久の真実なんて一滴も混じっていない。
「おはよう、由希。……ああ、もう読んでくれたんだね」
理久が、寝巻きのまま上機嫌で現れた。彼はテーブルの雑誌を手に取り、自分の名が刻まれたページを満足げに眺める。
「すごい反響だよ。瀬尾さんからもさっきメールが来た。増刷が決まったって。……君の思い出は、やっぱり力があるね。僕が形を変えて世に出してあげて、本当によかった」
理久は、本当に自分が善行を施したかのような、清々しい顔をしていた。
彼には、由希の魂を蹂躙したという自覚が、細胞のひとつも存在しなかった。
「……理久。あなたは、私の神様を殺したのよ」
由希の声は、地の底から響くように低かった。
理久は不思議そうに首を傾げた。
「殺した? 逆だよ。君が一人で抱えていたら、いつか忘れ去られていた記憶だ。それを僕が、不滅の文学にしてあげたんだよ。感謝してほしいくらいだ」
その瞬間、由希の中で張り詰めていた最後の糸が、音を立てて断ち切れた。
この男は、もう救えない。
そして、この男を創り上げてしまった自分も、もう救われない。
窓の外から差し込む朝日は、あまりにも無慈悲に、奪われた言葉の残骸を照らし出していた。
「感謝……? どの口がそんなことを言うの……!」
由希は椅子を蹴り飛ばすように立ち上がった。テーブルの上の雑誌を掴み、理久の足元へ叩きつける。
「あれは、私が独りぼっちで母を看取った、あの地獄のような夜の記憶よ! あなたにとってはただの『美味しい素材』かもしれないけど、私にとっては、それだけが私が私であるための最後の欠片だったの! それをあなたは……自分の見栄のために、泥足で踏みにじったのよ!」
「踏みにじったなんて、心外だな」
理久は動じず、床に落ちた雑誌をゆっくりと拾い上げた。その顔には、名声という毒に侵された者特有の、傲慢な哀れみが浮かんでいる。
「由希、君は作家だろう? 作家なら、私生活のすべてを切り売りして物語に変えるのは当然じゃないか。君ができないことを、僕がやってあげたんだ。君の母さんは、今や日本中で一番愛されている母親になったんだよ。それは素晴らしいことじゃないか」
「ふざけないで!!」
由希の絶叫がリビングの窓を震わせた。彼女は理久の胸ぐらを掴み、その整った顔を至近距離で睨みつける。
「私の母さんは、あなたの道具じゃない! あなたの嘘を補強するための死体じゃないわ! 誰が、私の思い出をあなたに捧げるって言った? 誰が、私の心を勝手に商品にしていいって言ったのよ!」
「君が言ったんだよ、由希。三年前のあの夜にね」
理久は、自分を掴む由希の手を、冷徹な力で振り払った。
「『私の代わりになれ』と言ったのは君だ。『二人でひとつの作家になろう』と言ったのも君だ。……君のものは僕のもの、僕のものは君のもの。それが僕たちの契約だろう? いまさら、ここは私の聖域だから入るななんて、そんな子供じみた言い訳が通ると思っているのかい?」
由希は言葉を失った。理久の瞳には、かつての卑屈な面影は微塵もなく、由希の才能を「当然の権利」として要求する、捕食者の確信だけが宿っていた。
「……あなたは、壊れているわ」
「壊したのは君だよ、由希。君が僕を空っぽにして、君の言葉で満たし続けたから、僕は君の記憶を自分のものだと錯覚するようになった。……これは、君が生み出した副作用だ。責任を取ってよ、僕の『ゴースト』さん」
理久はそう言って、由希の頬を冷たく撫でた。
かつて自分が「創った」と思っていた男に、自分の最も深い場所を蹂躙され、それを自分のせいだと言い放たれる。
由希は、自分が育てた怪物の牙が、ついに自分の心臓に届いたことを悟った。
エッセイの反響は、由希の予想を遥かに超える規模で膨れ上がっていた。
テレビのワイドショーでは、有名コメンテーターが「九条先生の繊細な文体の源流は、亡き母との絆にあったのですね」と、嘘にまみれた物語を涙ながらに解説している。
「……気持ち悪い」
由希はスマートフォンの画面をスクロールする。
『九条先生が折った歪な鶴の話、自分の家族と重ねて号泣しました』
『聖母のようなお母様だったんですね。先生の孤独が少し分かった気がします』
画面を埋め尽くす「感動」という名の洪水。
それは由希にとって、自分の母親の遺体を広場に引きずり出され、見知らぬ群衆に寄ってたかって撫で回されているような、凄まじい凌辱感だった。
「由希、これを見て。増刷だけじゃなくて、映画化の打診まで来てるんだ。僕の……いや、君の母さんの話が、日本中を感動させてるんだよ!」
理久は上機嫌で、瀬尾から送られてきた実績データのグラフを提示した。
彼は由希の顔色など見ていない。ただ、自分の「虚像」が「実話」という最強の盾を得て、誰にも壊せない神殿になったことに酔いしれていた。
「……私の母さんは、あなたに『お母様』なんて呼ばれる筋合いはないわ」
「そんなに固いこと言うなよ。瀬尾さんも言ってた。これで九条理久は『本物』になったって。嘘をつき通せば、それはいつか真実を追い越すんだ」
理久が語る「真実」という言葉。それは、由希がこれまで守り抜いてきた唯一の信念を、ドブに突き落とすような響きを持っていた。
自分が信じていた言葉の力、物語の尊厳。
それらはすべて、理久の美貌と「実話」という看板の前では、安っぽいアクセサリーに過ぎなかった。
「……搾取されているのは、私の言葉だけじゃないのね。私の記憶も、私の愛も、私の親への想いも……。あなたは、私の人生そのものを食い潰して、輝いているのね」
「何を悲劇のヒロインぶってるんだ。君の人生は、僕が買い取ったんだよ。あの雨の日にね。……さあ、次のエッセイのネタを考えよう。母さんの次は、父さんのことかな? 君の父さんは、どんな風に死んだんだい?」
理久が無邪気に、次の獲物を定めるような目で問いかけてくる。
由希は自分の全身が、急速に冷え切っていくのを感じた。
この男の隣にいたら、いつか自分の「心」の最後の一欠片まで、綺麗に剥ぎ取られて、ショーケースの中に並べられてしまう。
由希は、一度も理久と目を合わせることなく、静かに部屋の隅にある自分のデスクに向かった。
だが、その指先は、もはや一行も綴ることを拒否するように、石のように固まっていた。
リビングの空気は、今までにないほど静まり返っていた。
理久は上機嫌で、瀬尾から届いた次の締め切りスケジュールを由希のデスクに置いた。
「由希、エッセイの続編、来週の月曜までに三千文字お願い。瀬尾さんが『お父様との確執』について書いてほしいって。読者はもう、君の……いや、僕の家族の話に夢中なんだ」
由希は、真っ白なままのディスプレイを見つめていた。
彼女の指は、キーボードのホームポジションに置かれたまま、微動だにしない。
「……聞いてる? 月曜だよ。時間はたっぷりあるよね」
理久が肩を叩こうとした瞬間、由希はその手を静かに、しかし断固とした拒絶を持って払いのけた。
「……書かないわ」
「え?」
「もう、一文字も書かない。……私の言葉は、死んだの。あなたが、私の母さんを、私の記憶を、汚い金に変えた瞬間にね」
理久は戸惑ったように笑った。まだ冗談だと思っているのだ。
「何を言ってるんだよ。君が書かなければ、僕たちのこの生活はどうなる? 三冠作家・九条理久の『真実』を待っている人たちは?」
「そんなもの、どこにもない。……あるのは、あなたが私の魂を盗んで作った、不気味な継ぎ接ぎの死体だけよ。……理久、あなたは言ったわよね。自分も『本物』になったって。だったら、自分で書きなさいよ。あなたの『血の匂い』を、その真っ白な原稿用紙にぶちまければいいじゃない」
由希は立ち上がり、デスクの上のノートパソコンを閉じた。
カチャリ、という小さな音が、二人の関係の終わりを告げる断頭台の音のように響く。
「無理だよ……君が知ってるだろ。僕は一行だって書けない。僕は、君というペンがなければ、ただの……」
「ただの、美しい空箱。……そうよ。空箱なら、そのまま飾られていればいい。私はもう、その中に詰め込むための心を持っていないの。……全部、あなたが使い切ったのよ」
理久の顔から血の気が引いていく。
彼は、由希の瞳の中に、これまで自分を支えていた執着も、愛情も、憎しみさえも消え失せていることに気づいた。そこにあるのは、ただの絶対的な「無」だった。
「待ってくれ、由希! 悪かったよ、エッセイの件は謝る。だから……!」
「謝って済む話じゃない。あなたは、私の神様を殺したの。……私はもう、あなたのゴーストでいることを、今日この瞬間をもって辞めるわ」
由希はそれだけを言い残すと、寝室へと向かった。
独り残された理久は、テーブルの上に置かれたスケジュール表を、震える手で握りしめた。
彼を支配していた全能感は、一瞬にして、底知れぬ「書くことへの恐怖」へと反転していた。
深夜二時。由希は、自分のわずかな衣類と、あの古いノートだけをリュックに詰め込んだ。この広すぎるマンションの中で、自分の「本当の所有物」は、それだけだった。
玄関に向かおうとした時、暗い廊下に理久が立ち塞がった。
「……本当に行くのか? こんな夜中に。君、お金だって持っていないだろう」
理久の声は震え、卑屈な響きを帯びていた。かつての美しい「天才」の面影はなく、ただ依存先を失うことを恐れる、哀れな寄生虫の姿だった。
「名前も、家も、全部あなたに貸してあげたもの。……私は、元々何も持っていなかった。それを、あのアパートに戻って思い出すだけよ」
「待ってくれよ、由希! 君がいないと、僕は明日からどうすればいいんだ! 瀬尾さんには、読者には、なんて言えばいい!? 僕の……僕の『九条理久』は、君がいないと動かないんだ!」
理久は由希の手首を強く掴み、必死に引き止めた。だが、由希はその掌から、何の熱も感じなかった。
「……あなたが自分で言ったことよ。あなたはもう『本物』になったんでしょう? だったら、自分一人で息をしてみなさいよ。それとも、私の記憶を盗んだだけじゃ足りなくて、今度は私の肉体まで監禁するつもり?」
「違う……僕はただ、君を愛して……」
「嘘をつかないで」
由希は冷徹な瞳で、理久の言葉を遮った。
「あなたは私を愛しているんじゃない。私の指が叩き出す『商品価値』に執着しているだけ。……あなたが愛しているのは、鏡に映っている、私が作り上げた偽物の自分自身よ」
由希は、理久の指を一本ずつ剥がしていった。その手つきは、絡まった糸を解くように静かで、残酷だった。
「さようなら、理久。……もう、私の言葉をあなたの口から聞くのは、これでおしまい」
由希は一度も振り返ることなく、重厚な玄関のドアを開けた。
カチリ、というロックの音が背後で響く。
外の空気は冷たかったが、あの窓の開かない密室にいた時よりも、ずっと深く呼吸ができる気がした。
エレベーターが下へ向かう振動を感じながら、由希はリュックの中のノートを強く抱きしめた。
言葉を奪われ、思い出を汚されても、まだ自分の中に残っている「何か」を確かめるように。
静まり返ったリビング。玄関のドアが閉まった残響だけが、耳の奥にこびりついて離れない。
理久は、暗闇の中で立ち尽くしていた。
由希がいない。たったそれだけの事実が、この四十二階の広大な空間を、呼吸もできないほどの真空へと変えていた。
「……なんだよ。あんな汚い女、いなくなって清々した」
理久は強がりの言葉を吐き捨て、ふらふらと書斎のデスクに向かった。
椅子に深く腰掛け、最新型のノートパソコンを開く。画面が青白く輝き、真っ白な新規ドキュメントが表示された。
由希がいなくても、自分は三冠作家の九条理久だ。世間が、瀬尾が、あんなに僕を絶賛したじゃないか。僕には、彼女の記憶を『本物』にする力があるんだ。
理久は、由希の癖を真似て、キーボードのホームポジションに指を置いた。
「……書ける。僕にだって、一文字くらい……」
指先を動かそうとする。
だが、指は鉛のように重く、キーを叩くことができない。
頭の中を覗き込む。そこには、さっきまで由希が語っていたような、美しい雪景色も、母の体温も、絶望の震えも、何一つとして存在しなかった。
あるのは、自分が鏡を見て作った「作家らしい表情」の残像と、空っぽの、どこまでも乾いた空洞だけだった。
「……あ、……ぁ……」
喉から掠れた声が漏れる。
理久は必死に、由希が書いた過去の作品のフレーズを思い出そうとした。だが、彼女の言葉は、彼女が去ると同時に、魔法が解けたように理久の脳内から霧散していた。
真っ白な画面。
そこには、ただ一文字も綴られないまま、一定の間隔で明滅を繰り返すカーソルだけがある。
チカ、チカ、チカ。
それは、理久に残されたわずかな時間の寿命を刻む音のようだった。
「……助けて。由希、助けてよ……!」
理久はキーボードを叩き、デタラメな文字の羅列を打ち込んだ。
『あいうえおかきくけこ……』
画面を埋める、意味をなさない記号の群れ。
それが、九条理久という人間の本当の「中身」だった。
彼は、自分が作り上げられた精巧な、しかし中身の入っていない「美しい空箱」であることを、痛いほどに理解した。
由希がいなければ、自分は一歩も歩けず、一言も語れず、ただ腐っていくだけのガラクタだ。
理久は、真っ白な画面に顔を押し当てて、獣のような声を上げて泣いた。
窓の外、夜明けが近い。
しかし、理久を照らすはずの太陽は、彼が失った「言葉」という名の命を、二度と呼び戻してはくれない。




