後編
お待たせしました。
おおっぴらに惚気たとたん、マティスはテレッと笑み崩れた。エジェリーの頭のてっぺんに口付けを落とし、すりすりと頬ずりをする。
人前ではなんとか体裁を取り繕っていたマティスは、貴族の余計な一言で吹っ切れてしまったらしい。もはや|家の中と同じ状態である。
大広間に沈黙が落ちた。
空気がいたたまれない。
羞恥で泣きそうになっていたエジェリーは、想像通りになってしまった展開に気絶したくなった。
愛情表現は嬉しい、嬉しいが、大勢の前でマティスに直接こう宣言されるよりは、若い娘たちに嫌味を言われている方がマシだった。ある意味。
「な、……どういう……」
真っ先に我に返ったのは中年貴族の男だった。男は青ざめ、手をぶるぶる震わせてエジェリーを指さした。
「ど、どういうことだ、これは!」
「何のことです」
「条件に合ったから結婚したと言ったではないですかな! 嘘だったのですか」
「……? まさか。そんな嘘をついて何の得がある。条件に合致したのですよ、エジェリーは。一途で賢く堅実、そして誰よりも美しい。見て下さい、このつややかな髪に可愛らしい目、唇は……いややはり見ないで頂きたい。減る」
「な、な、な……」
貴族は目を白黒させた。
エジェリーは真っ赤になった。もはや顔があげられない。
エジェリーの容姿は全くの普通で、「美しい」と評するのは家族くらい、あるいはお世辞を言われた時くらいである。
それが、マティスにかかるとコレだ。
貴族の娘が悲鳴を上げるように言った。
「でも、でも、マティス様はエジェリー様を連れて歩きたくないって!」
「家宝を家から持ち出す馬鹿はおらんだろう」
「なっ、友人にも紹介してないって」
「女癖の悪いのがいたもんでな、そろそろ領地に帰るようだが。ちょっかいを出される心配が減って一安心だ」
「……夜会では独身の女性とばっかり踊ってるって噂になってたわ!」
「シスト伯の奥方やアモロス伯爵夫人らとも踊ったが」
訝しげに答えつつ、マティスのエジェリーを抱きしめ直したり背中を撫でたりと忙しい。
(ごめんなさい、お義母様。私も無理でした……)
マティスの腕の中で、エジェリーは都合よく気絶できない自分を呪いつつ、怒濤のここ2カ月を思い出した。
***
歯を食いしばり手を握りしめ、憤死しそうになりながらエジェリーを見守っていたフェルナンは、義弟の言動に顎が外れそうになった。
笑み崩れて蕩けたような声を出すマティス。
初めて見る姿だった。不気味である。
注目の的となっていたマティスのこの様子に、大広間には沈黙が落ちた。
だがすぐに、ショックを受けたらしい貴族の親子が声をあげた。特に貴族の娘はマティスの返答が信じられないようで食ってかかっている。
「……夜会では独身の女性とばっかり踊ってるって噂になってたわ!」
「シスト伯の奥方やアモロス伯爵夫人らとも踊ったが」
「嘘よ! それに、どっちにせよエジェリー様は妻としての役割を果たしていないってことじゃないですか!」
「別に構わんだろう、お飾りの妻なのだから。飾り物と同じように、側にあるだけで心が弾む。それで十分だ」
――いやそれ、お飾り違う。
フェルナンは心の中でツッコんだ。それと同時に「きっと皆同じ気持ちに違いない」と頭の片隅で思った。
ところが、あ然としていたフェルナンの耳に、あちこちからクスクスという笑い声や囁きが飛び込んできた。
「ほらみろ、私の勝ちだ! ブランの男はこうなんだよ」
「くっ……マティス君は普通の男に育ったと思ったんだがな。血は争えんか」
フェルナンがそっと振り向くと、上流貴族の初老の男2人がひそひそと囁き合っていた。一方は悔しげな顔で「約束は守る」と大きな翡翠の指輪をもう一方に渡している。
「見なさい、マリー。あれがブラン家だ。言った通りだろう。横恋慕をしたところで無意味なのだ」
「ええ……ありがとう、お父様。諦めてよかったわ」
フェルナンが視線を滑らせると、今度はとある辺境伯が娘を慰め、娘は納得がいったような顔で頷いているところだった。
脳裏に両親の声が蘇る。
――エジェリーがお飾りの妻? 分かる人に分かればいいのだから心配ない、放っておきなさい。間違いなく良縁だよ。
――大丈夫よ、フェルナン。ブラン家に嫁げたのよ、幸せになれるわ。
エジェリーがお飾りの妻だという噂を耳にした時、フェルナンは憤懣やるかたなく両親に相談しにいった。
まずは噂を確かめ、突き止め、事実ならば厳正に対処せねば!
そう訴えたが、両親は気の抜けたような返事をするばかり。てっきり、両親はブラン家の地位や権力に目がくらみ、エジェリーの苦境を無視するつもりなのだと、フェルナンは更に憤った。
そして、手紙でいくら尋ねても「大丈夫だ」としか返事をしないエジェリーに直接問いただすべく、アモロス家の夜会へ出席したのだが……。
「あれが見たかったのよ! 下手なお芝居より素晴らしいと思わない?」
「ええ、お父上のマリユス様以来だから25年ぶりだわあ。いやあね、私たちも年を取るはずね」
「これで見納めになるかしらねえ、天国の夫にまた土産話ができたわあ」
「ちっちゃかったあのマティス様もお父上に似て言行不一致だったのよ、ってね」
フェルナンの目の前では、年を召した上品な女性3人が可笑しそうに嬉しそうに話している。
エジェリーに嫌味を言っていた貴族たちが硬直する一方で、そうでなかった者たちはまるでこの展開を予想していたかのような様子である。
(もしかして、分かる人に分かればいいのだから心配ない、放っておきなさいって ……)
人前で堂々とのろけ続ける義弟を遠目に見ながら、フェルナンは魂が抜けそうになった。
「うそだろ……」
***
初夜の翌朝、エジェリーは、見慣れたはずのマティスの冷たい視線に凍り付いた。
「あなたに妻の仕事など任せられるか。ただ大人しく過ごしていろ」
「……ご冗談を」
「冗談を言っているようにでも?」
マティスは「加減の仕方がわからん」とブツブツ言いながら不服そうに眉間に皺を寄せた。
「体がだるいだろう。立てないはずだ。なんとヤワなことだ」
「え……」
とっさに寝台から身を起こそうとしたエジェリーは、自分の体にちっとも力が入らないことに気がついた。力を入れようとしても足は震えるばかりである。
「ふん、お飾りはお飾りらしくじっとしていればいい」
そう言いながらマティスはエジェリーを抱え上げて風呂へ入れ、手ずから清めて着替えさせ、再び寝台へ運んだ。
「あの……」
「声が不愉快だ。お飾りらしく静かにしていろ」
そう言いながらマティスは寝室へ昼食を運び、せっせとエジェリーの口へ食べ物を運んだ。
エジェリーは、喉に優しいと言われている果物の水糖漬けをマティスが真っ先にスプーンで差し出してきたのを見て、自分の声が枯れていることに気がついた。
「己の状態も把握していないとはな、呆れたものだ。それともか弱いふりでもしているのか?」
そう言いながら、マティスは蕩けたような顔でエジェリーを情熱的に見つめ、宝物のように抱きしめて顔中に口付けた。
(な、なにこの言行不一致……!?)
エジェリーはマティスの予想外の行動と情熱的な様子に青くなったり赤くなったりしながらも、己の運命を悟った。
これは、愛に満ちてはいるがそれはそれは奇妙な結婚生活であって――……決して、若い娘たちが想像するような理想的な結婚生活ではないのだ、ということを。
新婚の夫に至極大事にされながらも困惑していたエジェリーが、ようやく事態を正しく把握できたのは結婚1週間目のことだった。
「奥様、大奥様がいらっしゃるそうです」
「いつ?」
「もうお見えになりました」
「えっ!?」
ずいぶん急な義母の訪問を執事から告げられて、エジェリーは慌てて庭の椅子から立ち上がろうとした。が、立ち上がる前にジョゼットが現れた。
「エジェリー!! 本当なの? マティスがあなたを『お飾りの妻』と呼んだって」
ジョゼットは鬼気迫る表情で、淑女にあるまじき駆け足でエジェリーに向かって突撃してきた。
ジョゼットの声色には明らかにマティスへの非難が含まれている。
エジェリーは言葉に詰まった。
どうやら執事か誰かがジョゼットに告げ口したらしい。だが、エジェリーは大事にされている。
「お義母様、確かにその通りなのですが、マティス様は言葉とは裏腹に――」
「ああもう、なんでブラン家の男はこうなってしまうの!?」
ジョゼットは大声で叫ぶと、絶望したかのようにヘナヘナと膝から崩れ落ちた。
普段は感情を露わにすることのないジョゼットのその様子にエジェリーは閉口し、困惑し、まじまじとジョゼットを見つめた。
やがて、ジョゼットはゆっくりと顔を上げた。目が据わっている。
「あの、お義母様」
「エジェリー。ごめんなさい、あなたに隠していたことがあります。――ブラン家の男は呪われています」
「……は?」
エジェリーは目を点にした。
「信じられないのも無理はありません。しかし、そう考えるのが一番合理的です」
「まさか、そんな」
「いいえ。マティスは呪われています。私の夫もそうでした。調べてみると、夫の父親も、祖父も、そのまた祖父も――とある症状が出るのです。症状の強さは人それぞれでしたが。これが呪いでなければなんでしょう」
ジョゼットはどこまでも真剣だった。
エジェリーはごくりと唾を飲み込んだ。
「症状とは、何がおきるのですか」
「結婚するとヘンになるのです」
「……ん?」
「ですから、結婚するとヘンになるのです。ブラン家の男は」
……ジョゼットは、どこまでも真剣だった。
「夫は私と結婚したとたん、激しい言行不一致に陥りました。愛など求めるな!と言いながら……その、ああいう顔になるのです。わかるでしょう?」
少し気まずげに目をそらして、ジョゼットはコホンと咳払いをした、その言葉の意味をエジェリーは理解できてしまった。
「最初は家の中だけだったのですが、それが時々、外でも出るようになり……人の噂になりました。なんて言われたかわかりますか、エジェリー」
「お義母様がお義父様をたぶらかした、とかでしょうか?」
「その方がマシでした。『ほらみろ、ブラン家の男はやっぱりこうなった!』と言われたのです。付き合いの長い方々や、古き家の方々に」
ジョゼットはキッと眉をつり上げた。
「愛に流されてはいけませんよ! 私はできませんでした、でもあなたにはまだ可能性がある。ブラン家の名誉を取り戻すのです!!」
「え、ええと」
「……もしや、ほだされて一日中家で一緒にいるか、疲れて寝ているかという状態なのではないでしょうね?」
ジョゼットはじろりとエジェリーを見た。
エジェリーは頬を染めて俯いた。
「だって」
「だってじゃありません!」
「……お義母様はなんでそんなに私の今の状態が的確にわかるのですか……経験済みだからでは……」
「……ゴホン」
「……」
「……」
顔を赤くしたエジェリーとジョゼットはお互いにさりげなく顔を背けた。
「と、ともかく。あなたはもうブラン家の女主人です。そしてマティスのアレはブラン家の名誉に関わる問題です。あなたにしかできないのですよ。やれるだけ、やりなさい」
先ほどまでの勢いはどこへやら、もそもそと言うジョゼットの言葉には全く説得力がなかった。
***
「よかったよかった、マティス君もお父上と同じくらい幸せ者だ」
夜会の主催者、老アモロス伯爵のおっとりとした声が聞こえる。
エジェリーは依然としてマティスの胸に埋もれながら内心で謝った。
(ごめんなさい、お義母様。やっぱり私も無理でした……)
どこか遠くで、茫然としたフェルナンの「うそだろ…」という呟きが聞こえた気がした。
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