芽生え
ルリユール〈Langue de chat〉は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
スコル一家に家族が増えます。
456芽生え
リグハーヴス公爵領にほんのりと雪解けの兆しが現れた朝、カニンヒェンプーカのヴェスパの部屋から、丸い緑色の扉を開けて父親のスコルピオーンが入って来た。スコルピオーンが裏庭からではなく、息子達の部屋から入って来るのは初めてだ。
「朝早くからすまない」
朝の挨拶もそこそこにスコルピオーンが言った。
「エンデュミオン。グリューヴルムが産気づいた。産婆か薬草魔女を頼む」
確かに、呑気に挨拶をしている場合では無かった。着替え終わっていたエンデュミオンが、ベッドから床に飛び降りる。
「すぐに薬草魔女を呼んでこよう。スコルはグリューヴルムについていてやれ」
「有難う、エンデュミオン。ヴェスパも父さんと一緒においで」
「ヴ(うん)」
スコルピオーンがヴェスパをつれて戻って行く。緑の冠岩経由で隠者の庵に戻るようだ。現在、スコルと身重のグリューヴルムは、隠者マヌエルと聖職者コボルトのシュトラールが暮らす隠者の庵に間借りしていた。
ヴェスパ達三兄弟の母親グリューヴルムは、リグハーヴスに来た時に既に妊娠していたので、そろそろ出産予定だと孝宏も知っていた。なにしろ魔女ケットシーのヴァルブルガが定期検診に行っているので、母子ともに順調だと聞いていたからだ。
「エンデュミオンは〈薬草と飴玉〉に行って、薬草魔女のドロテーアかブリギッテを連れてくる。孝宏はヴァルブルガを頼む」
「うん、解った」
エンデュミオンが〈転移〉で移動していくのを見送り、孝宏は部屋を出て隣の部屋の扉をノックした。
「イシュカ、ヴァルブルガ、起きてる?」
「起きているよ」
すぐに部屋の扉が開き、まだうとうとしているシュネーバルを抱いたイシュカと、きちんと着替えたヴァルブルガが出てくる。
「グリューヴルムが産気づいたんだって。エンディが〈薬草と飴玉〉に行ったから、ヴァルブルガも隠者の庵に向かって」
「解ったの。ニコも連れて行くの」
ヴァルブルガはその場で〈転移〉した。往診鞄は〈時空鞄〉の中に入れていたのだろう。コボルトのニコは研修に来ている魔女で、孝宏の親戚のカイの養子だ。ニコを呼ぶヴァルブルガの声が廊下に聞こえるので、まずは客間に〈転移〉したようだ。
「シュネーは今回もお休みかな?」
夜中や早朝のお産となると、まだ幼児のシュネーバルには辛い時間帯だ。年齢的にも実習にはまだ早いというのもあってか、ヴァルブルガもわざわざ起こして連れて行かない。
エンデュミオンはドロテーアかブリギッテ、もしくは二人共を連れて行ったら、そのまま隠者の庵に留まるだろう。お産の状況によっては、エンデュミオンの力も必要になるかもしれない。
「ヒロ、どうした?」
孝宏の部屋の向かいにある書斎から、エンデュミオンの父親のフィリップが顔を出した。目の色が少し違うが、息子とよく似ている鯖虎柄のケットシーだ。
「グリューヴルムが産気づいたんだって」
「そうか、安産だといいな。フィリップがシュネーバルを預かろう。こっちで寝かせておいてやる」
「有難う、フィリップ」
イシュカが眠っているシュネーバルをフィリップに渡す。領主館に子守り兼家庭教師をしに行っているフィリップなので、任せても安心だ。
カチヤとヨナタンもそろそろ起きてくるし、孝宏は朝食の支度をする。イシュカも店の準備に一階に下りて行った。
隠者の庵はお産で落ち着かない状態だろうから、軽食を作って届けた方がいいだろう。
〈麦と剣〉で買った大きな丸パンがあったのでスライスして、卵サラダやポテトサラダ、ハムとレタスとチーズ、シロップ煮の桃とクリーム、ブルーベリージャムとカスタードクリームなどを挟んでいく。丸パンが足りなくなったら、自分で焼いて〈魔法箱〉に入れてあったコッペパンなども使った。
朝御飯分は大皿に盛り、届ける分は蝋紙で包んでバスケット二つに入れる。スープも並行して大きめの鍋で作り、届ける分のスープは壺に入れた。冷めてもこのままオーブンに入れて温め直してもらえる。
果実水を入れた水筒も準備して、届ける分を巾着型の〈魔法鞄〉に入れて、孝宏は台所を出た。居間を通って廊下に出て、階段を下りて店に顔を出す。
「イシュカ、俺隠者の庵に軽食届けてくるね」
「ああ、いってらっしゃい」
床を箒で掃いていたイシュカに声を掛け、孝宏は一階の台所にある裏口から裏庭に出た。
裏口から温室までなので、上着は着て来なかったが、セーターは着ているので耐えられる寒さだ。裏庭に積もった雪が、ほんの少し溶けている気がする。リグハーヴス公爵領にも春が近付いている。
温室に入り、薬草畑から芝生広場に回って、まだ翼の下に鼻先を入れて丸まっている、水竜キルシュネライトを起こさないように静かに歩いて、祠の前の供物皿にフルーツサンドの包みを乗せる。
それから隠者の庵に行く灌木の間を抜けて飛び石を渡る。なんとなくケットシーの里全体が、そわそわした雰囲気になっていた。
グリューヴルムの産室は二階にあるようで、エンデュミオンとマヌエル、スコル家の男性陣は一階にいた。まだ生まれていないようだ。四人目の出産としては遅い方かもしれない。
「エンディ、軽食作って来たよ。こっちが二階にいる人用で、こっちが一階にいる人用ね。マヌエル師、これにスープが入っているので、冷めたら温めて下さい」
〈魔法鞄〉から、バスケット二つとスープの壺をテーブルに出す。
「有難うございます。何を作ったらいいのか悩んでいたところでした」
マヌエルが手を祈りの形にして言った。普段は聖職者コボルトのシュトラールが食事を作っている事が多い上に、お産でそわそわしている状態では落ち着かなかったのだろう。シュトラールも手伝いに二階に行っているようだ。
「ヴ?」
ぴくっとヴェスパが長い耳を動かした。ぴくっぴくっとスコル家の皆が耳を動かす。
「産まれた、かな?」
エンデュミオンも天井を見上げた。〈浄化〉の〈結界〉で部屋を覆っているのか、孝宏の耳には何も聞こえない。動物型妖精は耳が良いので、産声が聞こえたのだろう。
二階の部屋の扉が開く音がした。
「お待たせー、産まれたよ」
ととととっと足音を立てて、シュトラールが階段を下りて来た。
「おめでとう! 可愛い女の子だよ。グリューヴルムも元気だから安心してね」
「二人共無事か、良かった……」と、スコルピオーンが吐き出す息と共に言った。
「おめでとう、スコル」
「ヴェスパ達も、おめでとう」
エンデュミオンと孝宏がスコル家を祝福する。ヴェスパ達三兄弟は前肢を繋いで、くるくると回って喜んでいた。兄弟仲がいいので、妹も可愛がるに違いない。
「有難う。女の子か、名前はどれにしようか……」
スコルピオーンが腰に付けているポーチから手帳を取り出して捲り始める。名前の候補が書いてあるのだろう。初めての女の子なので、家族会議になりそうだ。
「グリューヴルムと赤ちゃんが落ち着いたらスコル達を呼ぶからね」
そのままシュトラールが二階に戻りそうだったので、孝宏はバスケットを持ち上げた。
「シュトラール、軽食あるよ。中に果実水の入った水筒もあるから持って行って」
「わあ、有難う。グリューヴルム、喜ぶよ」
シュトラールはバスケットを受け取って、二階に戻って行った。
「二階でも休憩するだろうから、スコル達も朝御飯食べたらいいよ」
カニンヒェンプーカは健啖家なので、とっくに空腹の筈だ。孝宏の言葉の後に、ぐうーとお腹の虫が鳴くのが聞こえた。
「ヴァルブルガがいるし、エンデュミオンは孝宏と戻っても大丈夫かな。必要な物があれば遠慮せずに喚んでくれ」
「有難う、エンデュミオン」
「ヴェスパは赤ん坊の顔を見てから戻ってくるといい」
「ヴ!(うん!)」
妹の誕生に、三兄弟の顔がわくわくしているのが解る。可愛い。
孝宏はエンデュミオンと並んで温室への飛び石を渡った。
「ふう、エンデュミオンに声が掛からなくて良かった」
エンデュミオンにヴァルブルガが声を掛ける時は、母子のどちらか、または双方に危険がある場合になる。危険な状態の患者二人をヴァルブルガ一人で対応するより、一人をエンデュミオンに回した方が救命確率が上がるからだ。
勿論、エンデュミオンは魔女の知識を修めているが魔女免許は持っていないので、魔女のヴァルブルガがいる事が前提になる。
「そうだねえ。カニンヒェンプーカの赤ちゃん、可愛いだろうね」
グリューヴルムの体調が落ち着いた頃に、会わせてもらいたい。
ビルケとシャムロックは弟のヴェスパをとても可愛がっているので、ヴェスパも生まれた妹を可愛がるだろう。赤ん坊が生まれるのをとても楽しみにしていたのだ。
「緑の冠岩のスコル家を仕上げないとね」
「こちらで用意する家具類は殆ど入ったから、あとはハイエルンの巣穴から持って来た荷物を片付ければいいだけだな」
元々スコル一家は、緑の冠岩の近くにあるカニンヒェンプーカの集落に住んでいたので、エンデュミオンが大容量の〈魔法鞄〉をスコルに渡して、既に持ってくる荷物を全て収納してきているのだ。
グリューヴルムの出産が終わって、彼女の体調が戻ったら引っ越し作業をする手筈になっている。
「産まれた子に個室が必要になったら、エンデュミオンが二階に部屋を作ってやる」
緑の冠岩はエンデュミオンの私有地なので、壁を掘削するのはエンデュミオンがやるのだ。
温室の中を通って雪の積もる裏庭に出て、二人で「寒い寒い」と裏口から家に入る。
「おかえりー」
ふわりとモモンガ型の風の妖精クライネスヴィントが飛んで来て、孝宏の肩にしがみ付いた。柔らかくて暖かい薄茶色の背中を指先で撫でてやれば、クライネスヴィントが笑い声をあげる。
「ただいま、ヴィント。皆二階かな?」
「うん」
「エンデュミオン、俺が抱っこして運ぶよ」
「頼む」
孝宏はエンデュミオンを抱き上げて、階段で二階に上がった。
「おかえり。その顔だと無事に産まれたんだな」
台所でイシュカがお茶を淹れていた。カチヤとヨナタンがテーブルに皿を並べている。ニコと一緒に起きたらしいリクは、カトラリーを並べていた。テオとルッツが起きてくるのはもう少し後だろうし、シュネーバルを預けているフィリップとモーリッツ、それと屋根裏にいるビブリオも同じ頃に居間に来るだろう。
「うん。グリューヴルムも赤ちゃんも無事だよ。女の子だって」
「わあ、皆に可愛がられそうですね」とカチヤが笑う。リグハーヴスの妖精達は女の子率が低いのである。可愛い服を作りたい、可愛い靴を作りたい面々が、快哉を上げそうだ。
温め直したスープをスープボウルに注ぎ、各々食べたいサンドイッチを皿に取って食前の祈りを唱える。
「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」
「今日の恵みに」
『いただきます』
起きていない人達の分は、全種類ちゃんと避けてある。買い置きのパンを使ってしまったので、あとで買いに行くか、自分で焼かないとならない。
「エンディ、あとで〈麦と剣〉に行きたいな」
「解った。一緒に行くぞ」
相変わらず孝宏の一人歩きは許可して貰えないのである。自分に何かあった場合、國レベルでのっぴきならない事態になるようなので、その危険を冒してまで一人で散歩に行く必要もない。というか、散歩に行くならケットシーの里か、緑の冠岩で充分だ。
「チーズもかな」とイシュカがチーズをナイフで切り分けながら言った。この家では残り僅かになったチーズは、イシュカがコボルト達に分けてしまう。コボルトにとっては、家主からのご褒美になるらしい。今もこの家にいるコボルトの人数分にチーズを切り分けている。
「グリューヴルムの赤ちゃんが産まれたから、そろそろ俺達の研修も終わりかな」
ハムとレタスとチーズのサンドイッチを飲み込んだりリクが言った。リクはカイの弟で、黒髪の人狼だ。椅子の隙間から出ている尻尾がゆらゆらと揺れている。
「ニコはお産研修をグリューヴルムに頼んでたんだっけ?」
「そうそう。都合良く妊婦さんがいる訳じゃないしね。ニコ、人族の方の研修は済んでるみたいなんだけど」
魔女は人族の他に妖精のお産取り扱いも学ぶのだ。薬草魔女がお産の専門だとはいえ、魔女も薬草魔女や産婆がいない場所ではお産を扱う。
ニコとリクは、薬草師ケットシーのラルスに美味しい薬草茶の組み合わせを教えてもらいに来ていたのだが、ヴァルブルガの診療所の他、魔女グレーテルの診療所にも顔を出していた。
王都竜騎士隊所属の魔女と薬草師なので、災害時には民間人の治療も行う。老若男女の診療知識はいくらあってもいいのだ。
「ニコとリクが王都に戻ると、寂しくなるね」
「休みには遊びに来るよ。リグハーヴスにはウィルバーもいるしね」
ウィルバーはニコの弟の一人で、左区にある〈麦と花〉というパン屋にいる。お菓子作りが上手で、毎日日替わりでシートケーキを作って店に出している。
リグハーヴスの街ではお菓子の専門店はない。黒森之國では家庭菓子が基本だからだ。そんな訳で、二軒のパン屋で売っている甘いパンやシートケーキは人気なのだ。
〈Langue de chat〉でも袋入りのクッキーを売り出し始めたが、ルリユールのイシュカの客か、貸本の客が買って行く事が多い。ヴァルブルガの診療所に来た患者が、子供に強請られて買っていったりもする。
最近は悪魔のメフィストフェレスがカウンターに立つようになったので、一部の魔法使い界隈では〈Langue de chat〉が有名になっているという話も、この間来た魔法使いクロエから聞いた。
曰く、あの悪魔と誰が契約したのかと。
イシュカが従業員として契約したのだが。メフィストフェレスは執事で錬金術師なので、一応公爵家子息であるイシュカと契約してもおかしくはない。
しかし、魔石がなければ初級魔法も使えないイシュカと何故契約したのかと言えば、暇だったかららしい。靴磨きの妖精ンガガルとンガガロの子守は結構忙しいと思うのだが、それはそれ、これはこれ、なのだろう。
〈Langue de chat〉の面々と契約したおかげで、ンガガルとンガガロはケットシーの里などに遊びに行くようになり、結果的にはメフィストフェレスと家事妖精シュティレの自由時間が増えている。
春になり雪が解ければ、他領からメフィストフェレス目当ての客が来そうだ。
「竜騎士として招集がきたら、エンデュミオンとヒロは王都に来るんだよね? そうしたら王都でも会えるかな」
「人手が足りなければね。俺達、準竜騎士だし」
エンデュミオンが木竜グリューネヴァルトの主なので、ほぼこじつけで準竜騎士に任命されているのだ。マクシミリアン王と王都竜騎士隊長のダーニエルが、エンデュミオンの知識を借りたいが故だと思われる。
「む」
エンデュミオンがぶるっと身体を震わせた。
「何か嫌な予感がするな。アルフォンスかマクシミリアンに喚ばれるような」
鼻の頭に皺を寄せ、エンデュミオンが半眼になる。
「呼ばれるような事あったけ? はい、餡バター」
孝宏はエンデュミオンに、特製餡バターサンドイッチを渡しながら言った。餡はたっぷりバターは薄くが、エンデュミオンの好みだ。
「有難う。思い当たる節が無きにしも……まあ聞かれたらでいいか」
好物を前に考えるのを放棄して、エンデュミオンが餡バターサンドイッチにはむりと齧りつく。縞々尻尾がぴんと立つ。美味しいようで何よりだ。
「もう春かあ。桜見たいなあ。桜がなければサクランボの花でもいいけど」
孝宏が見慣れているのはエゾヤマザクラなのだが、実家では並べてサクランボも植えていた。
「サクランボを植えた場所がケットシーの里にあるぞ。咲いたら見に行こう」
「お弁当作って花見しようよ」
流石にここでジンギスカンをしようとは言わない孝宏である。ケットシーの里とジンギスカン、滅茶苦茶似合わない。
「ヒロも花見するんだね。うちもサクランボが咲くと花見するんだよ」
「塔ノ守だからねえ」
リクと孝宏が笑い合う。
リクとニコは王都に戻るが、スコル家に赤ん坊が誕生した。お隣には住人がいたし、移植されたエルネスティーネの森にはイサ達がいる。結果的には賑やかになりそうな気配がする。
雪が解け始めると、あっという間に春になる。
芽生えの季節がもう目の前だった。
エンデュミオンが嫌な予感がしている頃、マクシミリアンとアルフォンス達が「エンデュミオンに〈柱〉の場所聞かないと」って言ってるんですね。
桜の下でジンギスカン焼くのが北海道民(やった事ない気がするけど)。
北海道でよく見るのはエゾヤマザクラで、ソメイヨシノよりもピンクが濃いです。
あと、花がもさもさしてるやつもある(八重咲)。
3月には咲かず、4月半ば以降に開花します。
卒業式にも始業式にも、桜は咲いてないので、北海道の学園ものを書く時にはご注意を。
大体、桜とコブシとモクレンとレンギョウ、水仙あたりが一緒に咲いてます。5月になるとツツジが咲きます。
ちなみに、北国の冬は体育館だけで体育の授業がある訳ではなく、スキーやスケート、雪中サッカーという屋外授業です。天気が良ければ大体屋外です。軽く雪が降っていても屋外です。
グラウンドの雪を踏み固めるだけで授業が終わったりします。それが、北国の体育の時間でした。




