マヌエルと隠者の庵
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
隠者の庵の見学に行きます。
290マヌエルと隠者の庵
マヌエルがエンデュミオンとギルベルトと共に姿を消した後、食堂には何ともいえない沈黙が残った。その沈黙を破ったのはイージドールだった。
「では聖堂を見に行きましょうか、シュトラール」
「はーい」
イージドールに抱っこされたシュトラールが、嬉しそうに尻尾を振る。
「あなたも一緒にどうですか? 兄弟エルンスト」
「……そうしよう」
イージドールに先導され、エルンストも付いて来る。食堂を出て廊下を進み、金属の飾りが嵌め込まれた頑丈そうなドアを開ければ、聖堂に出る。
「わうー」
シュトラールが感嘆の声を上げた。王都の大聖堂に比べれば遥かに小さいが、リグハーヴスの女神教会も美しい聖堂を持っていた。正面には月の女神シルヴァーナの立像があるのは勿論のこと、パイプオルガンの金色の筒が空から下りる光のように並んでいる。高い天井には説話集にある場面を描いた天井画が描かれており、壁の高い位置には薔薇窓が、薔薇窓より低い位置の窓にも説話集に残る聖女や聖人の姿が色硝子で描かれた物が嵌め込まれている。
リグハーヴスの地を王から賜った初代リグハーヴス公爵から現在のアルフォンスに至るまで、リグハーヴス公爵家は教会と教会孤児院に毎年寄進してくれている。地下迷宮を抱えるリグハーヴスでは孤児が出やすい環境だからなのもあるだろうが有難い。この教会も初代リグハーヴス公爵が建立したものである。
聖堂の中をゆっくり歩いてシュトラールに見せてやりながら、イージドールは自分よりわずかに背が低いエルンストをちらりと横目で見た。先程からエルンストが自分を睨んでいるのに気付いていた。
「僕に何か言いたい事があるのでは?」
「確かにある。なぜ先程猊下について行かなかった?」
「それは僕の役割ではないからです。〈女神の貢ぎ物〉の役割が王族や猊下の護衛だと思っているのなら、違うと言っておきます。王族や猊下を護衛するのは、近衛騎士や聖騎士ですよ。私の身分は司祭ですから」
「〈暁の旅団〉の人質風情が」
「にゃあ?」
イージドールの頭巾の中にいたシュヴァルツシルトの青い瞳がギラリと光り、エルンストは悪感を感じて言葉を途中で飲み込んだ。
「勘違いされているようですが、〈暁の旅団〉が蜂起すれば、王都位簡単に陥落させられますよ。それをせずにいるのは、平穏に暮らしている人々を苦しめるからに他ならない。無益でしょう。だからこそ王は〈暁の旅団〉に自治領を与え、人質を差し出させると言う体裁を求めたんですよ。いつでもやれるがやらない、族長の善意につけこんでね」
「王への不敬だぞ」
「事実ですから。陛下もご存知ですよ」
四領会議に〈暁の旅団〉の族長が呼ばれないのは、〈暁の砂漠〉が独立した自治領だからである。〈暁の砂漠〉以外の國土の政に、〈暁の旅団〉の族長は関わらない。
「僕からも一言あなたに申し上げるが、聖騎士は騎士とは言えど聖職者です。徳を積まなければ、聖域に入る猊下に付いてはいけませんよ」
「な……」
「事実でしょう? だから、今回も御供出来なかったじゃあありませんか」
にっこりと微笑み、イージドールは正面祭壇に足を向ける。
自分の事ならば良いが、エルンストはどうにも〈暁の旅団〉を軽視するきらいがある。うっかり族長ロルツィングの前で口を滑らせようものなら、傍に控えている妖精二人に酷い目に遭うだろう。今だってシュヴァルツシルトとシュトラールに睨まれている。
「お祈りしましょうか、シュヴァルツシルト、シュトラール」
「あいっ」
「はーい」
でもまあ、イージドールもエルンストを脅すような事を言ってしまったので、女神シルヴァーナに懺悔をしておこうと思うのだ。
〈Langue de chat〉の裏庭にあるエンデュミオンの温室には、ギルベルトが皆をまとめて〈転移〉をした。
「ここは裏庭だ。そこに見えるのが母屋だ」
「大きい家なのですね」
「元々大家族が住んでいた、工房付きの家なんだ」
エンデュミオンは物珍しそうに辺りを見回すマヌエルに説明する。ギルベルトに抱っこされているので、視線が合わせやすい。〈転移〉する時、ギルベルトはさっさとエンデュミオンを抱き上げたが、拒否したところで養い親が悲しそうな顔をするだけなので、大人しく抱っこされている。幼い頃、ギルベルトにとことん心配を掛けたのはエンデュミオンなので、自業自得である。
「これが温室だ。誰か居るかな」
流石に孝宏は三頭魔犬のブラッシングは終えただろう。
ギルベルトがドアを開け、温室の中に入って行く。手前にある香草が多く植えてある畑には、誰も居なかった。繁みの間の小道を抜けて、奥にある広場に行く。
「エンデュミオン、おかえりー」
「うー」
「キャウー」
温室には三頭魔犬とキルシュネライトの他に、テオとルッツ、シュネーバルが居た。レイクと遊びに来たのだろう。シュネーバルの手に小さな霧吹きがある。レイクに吹き掛けてやっていたらしい。レイクの頭の葉に水滴がついていた。
「ただいま。また出掛けるんだがな。テオ、これはマヌエルだ。司教をやっている」
司教を紹介するには激しくぞんざいな扱いで、エンデュミオンが言う。
「司教マヌエル……」
テオはマヌエルの名前を聞き目を瞠った。そしてすぐに五領の貴族とは異なる、〈暁の旅団〉流の改まった礼をした。
「猊下、お初にお目に掛かります。テオフィル・モルゲンロートと申します」
「マヌエルと申します」
マヌエルは勿論、本来であればテオが〈女神の貢ぎ物〉になる筈だった事を知っている。だが、イージドールとテオは同等の属性資質を持っており、二人のうちどちらであっても族長に憑く妖精に選ばれるだろうと、叔父であるイージドールが聖職者となった。
族長ロルツィングは末弟イージドールも甥のテオフィルも手放したくなかっただろうが、〈女神の貢ぎ物〉は族長の直系一族から出す決まりであった。未婚の該当者が二人しかいなかったのは、〈暁の旅団〉は結婚が早いという慣習があるからだ。
「髪を伸ばされていないのですね」
「仕事柄邪魔になりますので」
〈暁の旅団〉では髪に精霊が宿ると、男女関係なく長く伸ばすのが一般的だ。特に族長は必ず髪が長く、髪を編んだり飾り玉を幾つも通していたりする。髪を短く切っているというのは、族長になる事を拒んでいるとみなされなくもない。
「ねえ、エンデュミオンどこいくの?」
ルッツがテオの隣でにこにこして言った。シュネーバルもレイクの前肢のような根っこを握って立っている。ついて来る気満々だ。
「隠者の庵に行くんだ。ルッツは知っているか?」
「ルッツいっかいいったことあるよ。ちいさなおうちだよ」
「そうなのか。テオについて来てもらおうと思うんだが、ルッツも一緒に行くか?」
「あいっ」
ぴょこんとルッツが前肢を上げた。ルッツは楽しそうだが、エンデュミオンは一寸ばかり憂鬱だ。
「うう、川を渡るのか……」
大量の水がある場所には近付きたくないエンデュミオンである。
「坊やは水が苦手だものな。どれ」
ギルベルトが前肢を伸ばすと、ぐにゃりと一瞬空間が歪んだ。
「ギルベルト……」
温室の茂みにもう一つ小道が増えていた。何をしてくれているのか。
「これで直接行き来出来るぞ、坊や」
「ううう」
─あらあ。
─ギルベルトったら。
─甘やかしてるわねえ。
三頭魔犬がくすくすと背後で笑うのが聞こえる。
エンデュミオンの為に空間を繋いでしまったギルベルトに文句は言えない。
「にゃあぁあ」
代わりにぽすぽすとギルベルトの胸に頭突きするエンデュミオンだった。
「では隠者の庵に行くか」
ギルベルトに抱っこされたエンデュミオンを先頭に小道を抜ける。
エンデュミオンの温室の広場と違い、こちらの地面は土だった。ぽかりと開いた木立の広場に、二階建ての小さな家が建っていた。家の脇には畑があって、数人のケットシー達が手入れをしていた。
畑の近くに水が湧き出している岩をくり貫いた水鉢があったが、家の台所にも水は引かれているらしい。
家の中にもケットシー達がきちんと掃除をしていて、すぐにも使える状態だった。
「一階が隠者の住まいだったんだ。二階は主にケットシーが泊まりに来ていたな」
一階は居間と台所、風呂場、寝室と棚に本が詰まった書斎で、二階は客室だった。
隠者クリストフが亡くなった後も、ケットシー達は家を守り続けていたのだ。
「ここに住むの?」
畑にいた白いケットシーがマヌエルに話し掛けて来た。
「そうしたいと思うのですが、お邪魔ではないですか?」
「ううん、嬉しい。里に聖職者はいないから」
聖職者になる為には森の外に出て修行がいるので、里に聖職者ケットシーはいないのである。
「クリストフがいた頃は、お祈りがあった」
「そうですか……」
居間の暖炉の上には、小さな月の女神シルヴァーナの立像が置いてあった。
「台所の調理器具や食器もそのまま使えそうですよ」
「おふろもー」
台所と風呂場を確認していたテオとルッツが戻って来る。
「状態保存の魔法を組んであるんだな」
ギルベルトに下ろして貰ったエンデュミオンが、家の柱に肉球で触れる。
「うー」
「キャウー」
シュネーバルとレイクは畑に興味津々で、開いた窓の外からは楽しげな声が聞こえる。遊び場が増えたと思っているのだろう。
「隠者クリストフのお墓はどちらに?」
「こっちだよ」
マヌエルの問いに白いケットシーが先に立って歩いていく。
家から少し離れた場所にある花畑の真ん中に、白い石の墓標が建っていた。〈女神シルヴァーナの息子クリストフここに眠る〉と碑文が彫られていた。
マヌエルが墓の前に膝を付き、祈りを唱えてから立ち上がった。
「美しい場所に眠っておられて良かったです」
「うん。綺麗な場所にした」
花畑ではまだ子供と思われるケットシー達が追いかけっこをしたり、花を編んだりして遊んでいる。クリストフも寂しくないだろう。
「マヌエルはいつこちらにこれそうなんだ?」
隠者の家に戻りながら、エンデュミオンはマヌエルに訊ねる。
「そうですね、次の司教の互選を見守ったあとになるので、年明けでしょうか」
「そうか」
「そういえば、大聖堂の大司祭にコボルト憑きがいると話しましたっけ?」
「聞いてないぞ」
「大司祭でも若い方ですよ。陛下やリグハーヴス公爵より少し年上でしょうか」
マヌエルが楽しそうに笑顔で言う。コボルト憑きとなれば、そのコボルトは何かしらやらかしている気がしてならない。マヌエルが思い出し笑いをする程には。
「向こうに戻ろうか、ギルベルト」
ギルベルトは隠者の家の前で、ケットシー達を代わり番こに抱っこしてやっていた。
シュネーバルとレイクは畑に入り土まみれになっている。孝宏に怒られはしないが、風呂に連行されるだろう。
「ん」
テオが木立の向こうに目を凝らした。
「この辺りは野生の獣はいないのかな?」
「家の周辺には来ないように、結界があるな」
エンデュミオンの目には、森の途中から家を覆っている半円型の魔法文字が見えていた。
「だから、ケットシー達が遊びに来ても大丈夫なんだ」
「ああ」
ちなみにケットシーの里からこちら側に来る途中の小川には、丸木橋が掛けてあったりするが、エンデュミオンはそれを渡れないのである。丸太が一本あるだけなので、落ちたら水の中なのだ。渡る意味が解らないエンデュミオンである。
温室の広場に戻ったエンデュミオンは、土で汚れたシュネーバルとレイクをテオとルッツに任せ、マヌエルとギルベルトと教会に戻ったのだった。
「おかえりなさーい」
教会の食堂に現れたエンデュミオン達に、シュトラールが駆け寄ってきた。
「ただいま帰りましたよ」
早速マヌエルがシュトラールを抱き上げる。
「隠者の庵はどうでしたか? 猊下」
「ケットシー達がとても綺麗に守ってくれておりました。いつでも引っ越せそうです。とは言え、次の司教が決まってからですが」
ベネディクトに答え、マヌエルは手を伸ばしてモンデンキントの頭を撫でる。
きゃっきゃっとモンデンキントが、ベネディクトの腕の中で声を立てて喜ぶ。
エンデュミオンは何故か大人しいエルンストに首を傾げつつ、マヌエルの膝をたしたしと肉球で叩いた。
「マヌエルは料理は出来るのか?」
「私は助祭になる前から教会におりましたから、下働きのような事もしていたんですよ」
「シュトラールもご飯作れるよ!」
シュトラールがしゅっと右前肢を上げた。
「おや、心強いですね。シュトラール、私が隠居したら一緒に暮らしましょうか?」
「温室の祠のお世話出来る?」
「ええ、隠者の庵から近いですからね」
ギルベルトの作った小道を通れば、五分しないで隠者の庵と温室は行き来出来る。
「いいねえ。シュトラール、マヌエル好き」
ぴとりとシュトラールがマヌエルに抱き付いた。すっかりマヌエルが気に入ったようである。
「まあ、マヌエルなら預けても平気か……」
物凄くご近所であるし、祠の管理をしてもらえるのはエンデュミオンも有難い。何しろ水竜キルシュネライトと女神シルヴァーナの両方を祭っている祠なので、お参りする人は多い方がいい。特にキルシュネライトの方が。
「エルンストはやけに大人しいな」
「いや……」
エルンストが口ごもり、ちらちらとイージドールを見る。エンデュミオン達が不在にしている間になにかあったらしい。
「〈女神の貢ぎ物〉が何故リグハーヴスに赴任したのか疑問か? それはな、エンデュミオンがマヌエルに頼んだからだぞ」
「は!?」
「詳しくはマヌエルに聞くといい」
驚愕するエルンストに、ニヤリとエンデュミオンが笑った。
マヌエルが年明けに引退するまで、シュトラールはそのまま温室や隠者の庵で過ごす事になった。
新たな隠者が暮らすと知ったケットシー達はとても喜び、マヌエルでも渡りやすいようにと、小川にきちんとした橋を架けたいと言い始めた。
大工のクルトとメテオール、ネーポムクが駆り出されて、小川に小さな橋が架けられたのは、十二の月の初めだった。
お陰でエンデュミオンも安心して橋で小川を渡れるようになり、抱っこ出来る機会が減ったギルベルトが、ほんの少し残念がるのだった。
隠者の庵はケットシーとコボルトが建てた家なので、そのままちゃんと保存されていました。皆の遊び場になっていたとも言う。
シュトラールはマヌエルが来たら一緒に暮らしますが、温室の祠を担当するので、温室にも出てきます。
街に買い物に来るマヌエルとシュトラールが見られるようになるのも、もうすぐです。