マヌエルとシュトラール
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
マヌエルの用事とは?
289マヌエルとシュトラール
シュトラールは〈Langue de chat〉の温室に残ったコボルトの一人である。
先日リュック・グラートが靴屋のオイゲンの元へと移住したので、現在は温室に残る最後のコボルトだ。
そしてエンデュミオンも最近気付いたのだが、シュトラールは月の女神シルヴァーナに仕えるコボルトだった。
温室にある月の女神シルヴァーナとキルシュネライトの祠に、一日に何度もお参りしているのに気付いた三頭魔犬がエンデュミオンに教え、確認したらコボルトの村で修道士をしていたと言う。家事コボルトと素質が二つあったので、気付き難かったのだ。
控えめなシュトラールに「言って良かったんだぞ?」と、エンデュミオンはマリアンに頼み修道服を早速誂えて貰った。
今日はその修道服が届いたので、シュトラールに渡しに温室に向かった。孝宏も三頭魔犬のブラッシングについてくる。
「シュトラール、修道服が出来たぞ」
「はーい」
祠の前にいたシュトラールが右前肢を上げる。少し小柄な南方コボルトのシュトラールは、男の子であるが女の子の格好をしている。黒森之國では男はズボン、女はスカートを着るのが基本だが、女でもズボンを着るし、男が巻きスカートのような服を着たりもする。冒険者の街であるリグハーヴスにおいては、街人でも特に着るものに決まりはない。
「紙に書いてもらった通りに作ってもらったぞ」
「有難う」
シュトラールは修道服の入った布包みを受け取り、いそいそと木の影に行った。乙女の着替えなので、エンデュミオンと孝宏は三頭魔犬の毛をブラシで梳かして視線を外す。シュトラールについて行ったのは、マンドラゴラのレイク位である。
大型犬サイズになっている三頭魔犬の梳かしがいのある背中を、孝宏が丁寧に梳る。
─ふー。
─気持ちいいわー。
─自分じゃ届かないもの。
「地下に戻っても、たまにホーンに喚んでもらって、ブラシを掛けてもらえば良いだろう」
─そうねえ。
─コボルトの大きさになればいいかしら。
─驚かしちゃうものね。
気持ち良さそうに三つの頭が目を細目ながら、ゆるゆる尻尾を振る。
「着替えてきたー」
「きゃうー」
さくさく芝を踏んで、シュトラールが戻ってきた。レイクもついてくる。シュネーバルと一緒によく遊んで貰っているので、レイクはシュトラールに懐いていた。
「わあ、シュトラール可愛い」
「ふふー」
孝宏に抱き付いてきたシュトラールは、ワンピース型の黒い修道服を着ていた。修道服の襟には真っ白いケープが付いていて、頭には白い縁取りの黒いベールを被っている。耳の形に立体縫製されているので、ベールが落ちないようだ。
コボルトの場合は身体が小さいので、人族の修道士が腰から下げているメダルはぶら下げておらず、胸に〈星を抱く三日月〉の意匠が銀糸で刺繍されている。
「うん、流石マリアンとアデリナ、ぴったりだな」
コボルトは尻尾があるので、修道服のお尻側にはスリットが入っていて下にはズボンを履いているようだ。シュトラールが、ご機嫌でスリットから出た巻き尻尾を振った。
「ん?」
ふいにエンデュミオンの耳がピクリと動いた。
「どうかしたの? エンディ」
「シュヴァルツシルトとモンデンキントに喚ばれたようだ。急ぎではないみたいだが」
「教会に行くの?」
「ああ、一寸行ってくる。……シュトラールも行くか?」
隣で期待に満ちた眼差しを向けられては、誘わない訳にはいかない。
「行きたい!」
「療養中は連れていけなかったからな」
身体が弱っていたので、預かりのコボルト達を、不特定多数が訪れる教会には連れていっていなかったのだ。
「じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃい」
─いってらっしゃい。
孝宏と三頭魔犬に見送られ、エンデュミオンとシュトラールは〈転移陣〉でシュヴァルツシルトの近くに跳んだ。
「お?」
出た場所は司祭館の食堂だった。そこにいる思いがけない人物に、エンデュミオンは目を丸くした。
「マヌエル?」
「喚び出してすみません、エンデュミオン」
「構わないが、何故マヌエルがリグハーヴスに居るんだ? しかも両手に花で」
「ふふふ、良いでしょう」
シュヴァルツシルトとモンデンキントを膝に乗せて、満足そうに撫でているマヌエルに、エンデュミオンはちょっぴり呆れた。まるで孫を膝に乗せている祖父のようだ。
「あれ? もしかしてシュトラールですか?」
台所からシートケーキを盛った大皿と、取り皿等が乗った盆を運んできたイージドールが、エンデュミオンと一緒にいるシュトラールに気付き微笑んだ。
「修道服が出来たんですね。とても似合っていますよ」
「わうー」
温室で会っているので顔見知りのイージドールに誉められ、シュトラールが嬉しそうに尻尾を揺らした。
「エンデュミオン、先日頂いた干し果物でケーキを焼いたんですよ。姉のレシピなので帰りに持っていって下さい」
「ああ。丁度テオとルッツがうちにいるから喜ぶ」
イージドールの姉とは、テオの亡くなった母親の事だ。彼女のレシピはイージドールが受け継いでいたらしい。テオとイージドールは幾つも違わないが、母親が亡くなった時は、テオはとても幼かった筈だ。
イージドールがケーキを取り分けている間に、エンデュミオンはマヌエルにシュトラールを紹介した。
「マヌエル、この子はシュトラール。うちの温室にある、女神シルヴァーナとキルシュネライトの祠に仕えてくれているんだ。シュトラール、これはマヌエルだ。司教をしている」
「司教!?」
ぴょんとシュトラールが飛び上がった。妖精の場合は神職としての位階は特にないが、大体司祭相当の扱いになる。妖精の聖職者でも、神職としての最高位である人族の司教には尊敬と憧憬を抱く。
シュトラールは、ててててとマヌエルに走り寄り、「シュトラール!」と右前肢を上げて挨拶したあと、マヌエルの腰から垂れていた真鍮の〈星を抱く三日月〉にキスをした。高位の聖職者への敬意を表す行為だ。
「有難う。可愛い姉妹シュトラールに祝福を」
シュトラールの額に乗せたマヌエルの掌が銀色にきらきらと光った。司教たるもの、当然〈女神の祝福〉が出来る。聖人迄はいかないが、マヌエルも聖属性がやたらと高いのである。
「司教マヌエルにも祝福を」
シュトラールが祈るように合わせた掌を開くと、銀色の光がマヌエルに降り注いだ。
「な、なに……」
マヌエルの背後の聖騎士が、驚愕に口をぱくぱくさせているが、この部屋にいる者の中で、聖属性がないのはエンデュミオンだけだろうし、〈女神の祝福〉が出来ないのはエンデュミオンとモンデンキントと聖騎士のみだろう。モンデンキントだってベネディクトに育てられれば、近いうちに使えるようになるに違いない。
エンデュミオンは聖騎士の膝をぽんと叩いた。
「精進しろよ」
聖騎士も俗世から離れる誓いを立てた、聖職者なのである。還俗するまでは結婚出来ないし、訓練があるので修道士よりは聖務が少ないものの、お務めがある。
「モーント、シュヴァルツ、おやつだよ」
「あいっ」
「あーい」
イージドールに回収されたモンデンキントはベネディクトに渡され、シュヴァルツシルトはイージドールの肩に登る。
「おいでなさい」
「わう」
寂しくなった膝の上に、マヌエルはシュトラールを抱き上げて乗せた。
「よっこらせ」
エンデュミオンはマヌエルの隣の椅子によじ登った。そしてモンデンキントを抱いて立ったままのベネディクトに声を掛ける。
「ベネディクトは座れ。顔色が良くないぞ」
多分緊張で血の気が引いているのだろう。元々虚弱体質気味なのだから無理はいけない。
「イージドール、これをベネディクトのお茶に入れてやれ」
小瓶に入った青い花の砂糖漬けを、イージドールに渡す。イージドールは一目でそれが何か解ったようだ。一瞬真顔になった。
「エンディ」
「アルフォンスも存在を知っているから大丈夫だ」
妖精鈴花の砂糖漬けやお茶は、体調を崩しやすいアルフォルスにも定期的に届けている。エンデュミオンがベネディクトに渡す分には問題がない筈だ。
「兄弟ベネディクト、掛けて下さい」
マヌエルがいるからか丁寧な言葉遣いでイージドールが椅子を引いて、ベネディクトを座らせる。それからケーキ皿を配り、ティーポットからカップに紅茶を注ぐ。
ベネディクトのカップには妖精鈴花の砂糖漬けを一つ落とした。さあっとお茶の色が青くなる。
「おや、面白いですね」
「わうー」
マヌエルとシュトラールが、興味深げに身を乗り出した。なんだかこの二人、行動が似ている。
「マヌエルも入れるか?」
「猊下、何だか解らぬものを──」
「妖精鈴花の砂糖漬けだ」
面倒臭げにエンデュミオンが言った。〈黒き森〉ではよく生えているが、王都では高級素材である。
「シュトラールにも頂戴」
「はい、どうぞ」
前肢を出したシュトラールの肉球の上に、イージドールが青い花を一つ乗せる。
「有難う」
シュトラールがぱくりと口の中に妖精鈴花の砂糖漬けを入れた。
「甘い」
「美味しいですか? 私も一つ入れて頂いても良いですか?」
「どうぞ、猊下」
「有難うございます」
花が入って青くなった紅茶を、マヌエルがわくわくした顔で飲む。マヌエルはエンデュミオンが持っていく見慣れない孝宏の菓子もいつも楽しそうに食べる。多分知識欲が強いのだ。そうでなければ司祭や司教になる為の、膨大な知識を学ぼうなどとは思わない気がする。
教会の聖職者は全て未婚で月の女神シルヴァーナに仕えるが、修道士や修道女のまま生涯女神に仕える者と、司祭などの役職につき信徒を導く者とがいるのだ。
「美味しいですねえ」
のほほん、とお茶を飲むマヌエルをエンデュミオンは隣から胡乱げに見上げた。
「それで用事とは?」
「そろそろ司教を引退しようかと思いまして。私もいい歳ですし」
「言われてみれば、確かに」
あっさりとマヌエルが吐露し、エンデュミオンも頷いた。人族としてマヌエルは高齢者に足を突っ込んでいる年齢だ。
「司教!?」
「煩い」
大声を出した聖騎士を、エンデュミオンは睨んだ。
「さっきから煩い。目の端で動くのが煩わしいから黙って座ってろ。あと大声を出すな、幼子が驚くだろう」
「しかし」
「あのな、マヌエルが決めたなら、もう本人の中での決定事項なんだよ。これからどうするかを話し合うのが目的なんだぞ? 座れ。周辺に不審者はいない」
「……」
がたりと音を立てて椅子を引き、不貞腐れた顔の聖騎士が座る。
「どうぞ、兄弟エルンスト」
そつなくイージドールがお茶を出す。聖騎士の名前はエルンストと言うらしい。
「マヌエル、司教辞めちゃうの?」
「私に急に何かある方が困るでしょう。幸い大司教達は必要な修練を終えていますので、誰が女神シルヴァーナに選ばれても大丈夫なんです」
マヌエルがシュトラールの頭を撫でながら言う。モンデンキントに林檎のゼリー入りのヨーグルトを食べさせていたベネディクトが、スプーンを持っていた手を止めた。
「司教を引退となると、隠者になられるおつもりですか? あ、モーント」
「あーう」
焦れたモーントが直接器からヨーグルトを舐めていた。シュヴァルツシルトも、イージドールに小さくしてもらったシードケーキを貰って食べている。
マヌエルは幼い妖精達を穏やかに見詰めて頷いた。
「そうですね、隠者になります」
最高位にある司教は引退すると、下位の大司祭などには戻らずに隠者として公の場から姿を消すのだ。街から離れ村などに住み、清貧に努め祈りの日々を送る。〈祝福〉などの能力は消えないので、司祭が一人しかいない村などでは補佐的な役割を担ったりもする。
「隠者になったらどこに住むつもりだ?」
「それを相談しようと思いまして」
「と言うと、リグハーヴスに来るのか?」
「いけませんか? 古い友人がいるのでいいと思ったのですが」
この歳になると友人も減りましてねえとマヌエルが呟き、エンデュミオンをじっと見た。姿を消して、再び現れた古い友人を。
「……むう。隠者が住むような家か……」
昔の隠者は掘っ立て小屋のような建物に暮らしていたらしいが、ヴァイツェアならいざ知らず、リグハーヴスでは無謀である。
「あ」
ぽむとエンデュミオンは肉球を打った。
「ギルベルトに前に聞いた事があるな。一寸聞いてみよう。──ギルベルト!」
迷わずエンデュミオンはギルベルトを喚んだ。
ぽんっと一分と待たずにギルベルトが現れた。ガタンとエルンストが椅子を鳴らした。ギルベルトを初めてみたらしい。
「どうした、坊や」
ギルベルトは椅子に座っているエンデュミオンを抱き締めて頬ずりした。
「聞きたい事があったんだ。おい、マヌエル何を笑っている」
「いえ、何でもありません」
ギルベルトに子供扱いされるエンデュミオンが珍しかったに違いない。取り繕っているが、マヌエルの口元がむずむずしている。ベネディクトとイージドールは既に慣れている。
「これは司教マヌエルで、エンデュミオンの古い友人だ。ギルベルト、以前〈黒き森〉に隠者の庵があると言っていなかったか?」
「あるぞ。百五十年位前にやってきた隠者がいて、コボルトの大工を呼んで皆で建てたのがそのまま残っている」
「使えるのか?」
「使える。小川の向うにあるから休憩がてら管理してる」
「ああ、成程」
水が苦手なエンデュミオンなので、川向うにあったのなら知らなくて当然だ。必要がなければエンデュミオンは川向うには行かなかったので、直接見ていないのだ。
「昔の隠者と作った畑もあるのだ」
「百五十年前の隠者と言うと、司教クリストフでしょうか」
どうやらマヌエルは知っている聖職者だったようだ。隠者について調べたのだろう。ギルベルトが頷く。
「そう、クリストフだ。あそこにはクリストフの墓もある」
「一度拝見してもいいですか?」
「マヌエルは構わない。だがお前はまだだ。あそこには入れない」
ギルベルトがエルンストを前肢で示した。
「それはどういう……」
「エルンストが〈黒き森〉に害を及ぼさないか解らないという意味だ。お前は聖属性があるがまだ徳が低いと言えば解るか?」
ギルベルトの代わりにエンデュミオンが答える。
「しかし私は猊下の護衛だぞ」
「うちにテオが居るからついて行って貰えば良い。エルンストは一寸留守番していろ。イージドール、シュトラールに聖堂を見せてやってくれないか?」
「いいですよ」
イージドールがマヌエルの膝からシュトラールを抱き上げる。残念そうな顔をしたマヌエルに「また戻って来るだろう」とエンデュミオンは腕を叩いてやった。
引退を決めたマヌエルです。
還俗しない限りは聖務を続けるのですが、隠者は表舞台には立ちません。
豪商や領主が食客として館に住まわせる事もありますが、大抵は田舎に引っ込みます。
政争に巻き込まれないように、教会は中立を保ちます。貴族や準貴族の家族が聖職者になるのは家の立場の為でもありますが、平民が聖職者になるのは口減らしが多く、生涯修道士(修道女)で終える事が多いです。
聖職者は還俗するまで結婚出来ないし、子供を作れないので、貧しい家庭の場合は娼館に売られる子供もいます。
ちなみにリグハーヴスの娼館は、成人済み(16歳以上)でないと仕事が出来ません。借金娼婦・男娼ではなく、娼館の部屋を借りて客を取っているスタイル。でも、大家のマダムが健康管理や客の質を見極めています。娼婦や男娼を傷付けたらマダムにボッコボコにされます。
地方でありながら、高級娼館レベルだったりします。安売りはしない。