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オイゲンとリュック・グラート

ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。

温室に残った一人、リュック・グラートのお話。


286オイゲンとリュック・グラート


 エンデュミオンの温室のコボルト達に、ヴァイツェアへの移住のお誘いがあるのだと言ったら、彼らはとても乗り気になった。

 ヴァイツェアは温暖で自然豊かであり、居住予定地はイシュカの母親エデルガルトの暮らす離れの敷地内である。家は自由に建ててよく、建設中はエデルガルトの家に世話になれる。

 仕事はハルトヴィヒの森の管理であり、精霊樹の世話の手伝いもある。勿論、庭師の素質がないコボルトは、自分の素質にあった仕事をすればいい。

 重要な事だが、三食とおやつ、衣服は当然用意されるし、エンデュミオンの温室にも、いつでも遊びに来て構わない。

 ハイエルンでこれだけの好条件で招かれる事などないらしいく、更に話を持ってきたのがエンデュミオンとイシュカなので、コボルト達は全く疑わなかった。

 結局、温室に残るのは二人だけで、殆どのコボルトはヴァイツェアへと移住した。

 マリアンとアデリナ、ヴァルブルガが用意した服の入った袋を各々に持たせ、エンデュミオンとイシュカがヴァイツェアに送っていったのだが、コボルト達はエデルガルトの家の手入れされた庭に大はしゃぎし、エデルガルトと侍女ロスヴィータにも光速で尻尾を振ってあっという間に懐いた。

 イシュカも時々様子を見にヴァイツェアに行くつもりだが、エデルガルトも寂しくないし、コボルトが移住したのは良かったのかもしれない。

 コボルトが来たと聞いたハルトヴィヒもやって来て、一人ずつ撫でていた。

「癒しが来た」というような事を呟いていたので、仕事で疲れていたのかもしれない。孝宏たかひろの作ったお菓子を置いてきたので、エデルガルトとコボルト達と食べてほしいとイシュカは思ったのだった。


 エンデュミオンの温室には〈黒き森〉のケットシーの里への直通の小路がある。

 ケットシーの里には温泉が湧いていて、エンデュミオンやギルベルトが許可した者は、温泉へと行ける。

 ケットシーは混浴なのだが、一応人族の方は女性の曜日と男性の曜日を分けて教えている。

 靴屋のオイゲンも温泉の愛用者で、仕事終わりによく通っていた。

「〈Langueラング de() chat(シャ)〉に行って来るよ」

「はあい、気を付けてね、お祖父ちゃん」

 店のドアに〈準備中〉の札を掛ける孫娘のゼルマに見送られ、オイゲンは着替えや浴布の入った籠を片手に、ゆっくりと歩いて〈Langue de chat〉に向かう。頑健な採掘族とは言えども、寄る年波には勝てず、膝や腰などにがたが来始めている。特に膝は寒くなると痛む。

 エンデュミオンに許可を貰っているオイゲンは、〈Langue de chat〉の裏庭を囲む錬鉄の塀にあるドアを開けられる。路地よりも高く土を盛ってある裏庭へ、二段ばかりの階段を上がり、錬鉄の扉を開ける。裏庭の中に入ったら、きちんと扉を閉める。〈Langue de chat〉には妖精フェアリーが多いので、開けっ放しにはしておけない。

 実は、例え扉が開いていても、不審者が入れば捕縛されるのだが、オイゲンは知らなかった。

 裏庭の家庭菜園は、寒い時期にも耐える葉物野菜以外は、すっかり片付けられていた。畑の真ん中を通る赤っぽい煉瓦道を歩き、オイゲンは〈Langue de chat〉の裏玄関のドアをノックした。

「はーい」

 直ぐに返事があり、孝宏がドアを開けた。

「こんばんは、ヘア・オイゲン。診察と温泉ですね。ヴァルブルガは今、釦屋のシュトゥルムの診察をしているので、先に温泉へどうぞ」

「そうかい。ではそうしようかね」

 釦屋のシュトゥルムは、最近釦屋に暮らすようになった、釦職人の南方コボルトだ。黒褐色の毛に霜降り模様に白い毛がある、一寸ちょっと変わった毛色をしている。

 三頭魔犬ケルベロスが助け出して来た中にいたコボルトで、足に古傷を持っていたが、現在ヴァルブルガの治療を受けて快方に向かっているという。店主のアルバンや息子のウーヴェと一緒によく温泉で遭遇する。

 のんびりとした足取りでオイゲンは歩き、温室のドアを開ける。冷たい初冬の風から逃れるように風除室に入って奥のドアを更に開けると、ふわっと暖かな空気に包まれた。エンデュミオンの温室はいつも春の陽気なのだ。おまけに四季がどうにもおかしいらしく、温室の中にある植物は、季節関係ない種類が生えている。

 これについては領主も知っているのだが、貴重な薬草などもあるので緊急用として見逃しているらしい。そもそも、エンデュミオンが作っていた温室にケットシーの里を繋げたのは、元王様ケットシーのギルベルトなのだ。親代わりのギルベルトは、エンデュミンも止められなかったのだろう。

 温室の手前の空間は孝宏やシュネーバルが育てている香草や薬草の畑になっている。苺も生えていて、甘い香りがした。繁みの間を奥に伸びる小道を抜ければ、芝生の生えた広場に出る。

 現在ここには、救助されたコボルトを見守る三頭魔犬や、ヴァイツェアに行かずに残った二人のコボルト、温室にある〈精霊の泉〉に暮らす水竜キルシュネライト、そしてマンドラゴラのレイクが居る。

「こんばんは」

─こんばんは、オイゲン。

─お風呂に来たのね。

─良く温まってね。

 三頭魔犬の三つの頭に次々と話し掛けられる。夕ご飯前のコボルトの二人は、のんびりと三頭魔犬の腹に凭れていた。

「一緒に入りに行くかね?」

 オイゲンが声を掛けると、いつも大きい方の北方コボルトが頷いてついて来る。小さい方の南方コボルトは、孝宏やカチヤに夕食後に温泉に入れて貰っているようだ。

 オイゲンに合わせて歩くこのコボルトの名前はリュック・グラートという。それなりに歳を経ているように見える落ち着いた雰囲気で、かつ頑固そうなこのコボルトらしい名前である。

 ケットシーの里の温泉の周囲は湿度が少し上がる。孝宏によると、匂いのある温泉もあるらしいのだが、ケットシーの里の温泉は独特の匂いは殆どしない。

 衝立の後ろに着替えを入れる籠を置く棚が、いつの間にか作られていた。こういった物はクルトやメテオールが作って持ってくる。入浴に来る者達は、ケットシー達の生活を変えない程度に、困っている事には手を貸しているのだ。

「スープの素と干し肉だよ」

「ありがと、オイゲン」

 寝床のある広場に戻るケットシーに、オイゲンはスープの素と干し肉の塊を渡した。最近では温泉に入るお礼には、スープを作らなくても素材を渡してもいい。

 何度か孝宏とスープを作るうちに、ケットシーも美味しいスープの作り方を覚えたらしい。パン屋のカールと肉屋のアロイスのおかげで、パンと肉にも困らなくなったケットシー達だが、相変わらず魚を釣ったり畑仕事をしたりと日々暮らしている。

 服を脱いで籠に入れ、オイゲンとリュック・グラートは洗い場に行って、掛け湯用の湯溜まりから桶でお湯を掬って身体に掛けた。体毛のあるリュック・グラートにはオイゲンが手伝ってお湯を掛けてやる。

 リュック・グラートが赤い石鹸の実を割って身体に擦り付ける。オイゲンも布に石鹸の実を擦り付けて泡立てた。若い果物のような香りがするが、洗い流してしまうと殆ど解らなくなる。

「……届かない」

「この辺かの」

 泡だらけのリュック・グラートの前肢が届き難い場所は、オイゲンが洗ってやる。リュック・グラートは北方コボルトだが、背骨に沿った背中の中心の毛は黒褐色だ。両親が北方と南方それぞれの毛色だったと言う。大抵は母方の毛色になるが、稀に色が混じるらしい。

 泡を洗い流し、オイゲンとリュック・グラートは湯船に浸かった。場所によって深さが違うのだが、ケットシー達は丁度いい深さを知っていて、思い思いの場所に居る。身体の小さい子供は、一番浅い場所に居た。

「……」

 リュック・グラートは浮いていた板を掴み、泳いでオイゲンの隣にやって来た。この板は孝宏が提案してクルトが作った物だ。エンデュミオンが魔法陣マギラッドを刻んでいるので、浮力が強く掴まっていれば沈まない。深い場所へ行ってみたい子供用に作ったのだが、大人ケットシーにも結構使われている。

 ぷかぷか浮かびながら、リュック・グラートがオイゲンを見上げた。

「オイゲンは、職人?」

「儂かね? 儂は靴職人だよ」

「靴職人。リュック・グラートも靴職人」

「おや、そうなのかい。気が向いたら遊びにおいで。うちは孫娘も靴職人なんだよ。会っているかね、ゼルマというんだが」

「うん。ゼルマ、会ってる。そうか、ゼルマも靴職人」

 板に前肢と顎を乗せて、湯に浮かびながらリュック・グラートが確認するように呟いた。

 様々な色柄のケットシーを眺めながら暫し湯に浸かり、身体が温まった頃に湯船を出る。オイゲンが自分の身体とリュック・グラートの身体を、まとめて風の精霊(ウィンディ)に頼んで乾かし着替える。脱いでいた服はリュック・グラートがまとめて精霊に頼んで洗った。洗う者の好みに寄ってマイム木の精霊(エルム)を組み合わせる。使用する香草なども指定出来るたりする。風の精霊に頼んで乾かした服を畳み、オイゲンは籠にリュック・グラートは〈時空鞄〉にしまった。

「温泉に入ると身体が軽くなるねえ」

「オイゲン、どこか悪いのか?」

「歳を取っているだけだねえ。歳を取れば膝や腰が痛むものだよ」

「そうか」

 二人でゆっくりと温室に戻り、オイゲンは三頭魔犬に挨拶して〈Langue de chat〉の母屋に行こうとしたが、それにリュック・グラートがそのままついてきた。

 再び母屋の裏玄関のドアをオイゲンがノックする。その下でリュック・グラートが妖精用のドアを開けた。

「オイゲン戻った」

有難う(ダンケ)、リュック・グラート。ご飯の前だけどお茶を入れるね」

「うん」

 孝宏が上のドアもきちんと開けて、オイゲンとリュック・グラートを招き入れた。一階の居間ではヴァルブルガとシュネーバルが待っていた。

「オイゲン、膝と腰の調子はどう?」

「そうさねえ、こう寒くなってくると痛むねえ。温泉に入るようになってからはだいぶ楽だよ」

「そうなの」

 ヴァルブルガはソファーに座ったオイゲンの膝を肉球で撫でた。ぽわぽわとヴァルブルガの前肢から緑色の光が零れる。シュネーバルはオイゲンの腰を両前肢で擦っているが、同じように緑色の光がちらちらと見えた。

 リュック・グラートはオイゲンの隣によじ登り、治療の様子を見ていた。

「寒い時は生姜の入ったお茶を飲むと温まるの」

「これどうぞ。摩り下ろした生姜を蜂蜜で煮たジャムです。お茶に入れて下さい。ミルクティー(ミルヒテー)にしてもいいですよ」

 孝宏がお茶を運んで来て、ジャムの入った小瓶をオイゲンに渡す。

「おや、いいのかね。ゼルマと楽しませてもらおうかね」

「このお茶はこのジャムを入れています」

 ティーカップの中は湯気が上がるミルクティーだった。ふわりと生姜ジンジャー蜂蜜ホーニックの香りがする。

「有難う。美味しそうだね」

「リュック・グラートのは少しぬるめだよ」

「うん。有難う」

 リュック・グラートもティーカップを抱えて水面をぺろりと舐めた。生姜のジャム入りのお茶は舌にピリッとするが身体が温まる。

「んまい」

「もうすぐご飯だよ」

「うん」

 ミルクティーを舐めながら、リュック・グラートはちらちらとオイゲンを見ていた。

「リュック・グラート、どうしたの? 何か気になる?」

 オイゲンのカルテを万年筆で書きながら、ヴァルブルガが首を傾げた。

「ううん」

 ぷるぷるとリュック・グラートが頭を左右に振り、その後で尻尾を振った。

「リュック・グラート、オイゲンの靴屋に遊びに行きたい」

「今日は遅いから、明日行けばいいの」

 あっさりとヴァルブルガが言った。

「いいのか?」

「危険な場所以外なら、反対しないの」

「じゃあ、明日行く」

「誰かに送って貰ってね」

「うん」

 リュック・グラートは素直に頷く。

 オイゲンはゆっくりとお茶を飲むと、リュック・グラートの頭を撫でてから〈Langue de chat〉を後にした。

 遊びに来ると言うのなら、リュック・グラートが朝から来る気がしたオイゲンは、ゼルマに知らせるべくいそいそと自宅に帰ったのだった。


「水に浮くためには、ビート版!」という孝宏の発想により、水に浮く板が導入されました。

ケットシーにもコボルトにも好評です。皆一度は深い場所へ行ってみたかった(

エンデュミオン以外)。


リュック・グラートは両親が北方コボルトと南方コボルト。

丁度エクレアのように背中に黒褐色の毛が生えています。服を着ると、北方コボルトに見えます。

どうして温室に残ったかと言うと、ヴァルブルガよりも年上なリュック・グラートは、随分長い事働いてきたのでのんびりしたかったのです。


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