イシュカとハルトヴィヒ
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
やっと、ハルトヴィヒがやって来ます。
279イシュカとハルトヴィヒ
今日のヴァイツェアは、朝からしとしと雨が降っていた。
雨が降っていて憂鬱そうな顔になるのはエンデュミオンだったが、年少組の妖精達はマリアンに作って貰っていた雨具を着て庭に遊びに出た。ヴァイツェアの雨はこの時期まだ温かく、濡れても風邪を引き難いらしい。
午前中いっぱい庭に出て遊んでいたルッツ達は、お風呂に入って、お昼ご飯を食べた後は、孝宏とテオが使っている客間でお昼寝と相成った。
雨の中外に出なかったエンデュミオンとヴァルブルガは、主にくっついてのんびりしていた。エンデュミオンは精霊樹に魔力を半分ほど渡したので、自然回復に努めていたし、ヴァルブルガもイシュカの膝の上を独占出来る機会を、むざむざ逃すつもりがないようだ。
室内の湿度を飛ばす為に暖炉の熱鉱石が弱く熾きていたが、熱さは感じない。むしろケットシーには心地の良い温度なのか、暖炉の前を囲むように置いてある肘掛け椅子に座った孝宏とイシュカの膝の上から、エンデュミオンとヴァルブルガは動こうとしなかった。先程からすっかり眠っている。
リーンリーンと玄関のベルが鳴る音が聞こえた。
すっとエデルガルトの侍女ロスヴィータが玄関へと出て行き、ハルトヴィヒとフリューゲルを抱いたフォルクハルトを連れて戻って来る。
「お邪魔するよ」
まだ疲れの残る顔で、ハルトヴィヒが微笑んだ。
「ああ、そのままで」
孝宏が肘掛け椅子から立ち上がろうとしたのを見て、ハルトヴィヒが片手を上げて制止する。
「にゃう……」
肘掛けのクッションに凭れて眠っていたエンデュミオンが不満げに鼻先に皺を寄せ、目を開けた。寝起きなので、すこぶる目付きが悪い。孝宏はエンデュミオンを抱き寄せ、背中をぽんぽんと軽く叩いた。
「……ハルトヴィヒ達か」
「すまない、起こしてしまったか」
「まあ、少しは昼寝をしたからいい。精霊樹に魔力を渡したから回復しないとならん」
ぐいぐいと孝宏の腹に額を押し付けてから、エンデュミオンは座り直した。
ヴァルブルガはイシュカの膝の上で、砂漠蚕のショールに包まって丸くなっていた。規則正しくショールが上下に動いているので、こちらは熟睡中だ。
ハルトヴィヒ達はイシュカと孝宏達の向かい側にある椅子に腰を下ろした。ヴァルブルガが寝ているのを見て、フリューゲルも大人しくしている。
「やっとこちらに来る時間が取れてね」
「ふん、寿命が長いからといって、問題を放置し過ぎるからだろう」
「耳が痛いよ」
「きちんと精霊樹の管理をしないと、ヴァイツェアが沈むからな?」
エンデュミオンが生きている内は支えていられるが、不在の場合は準〈柱〉が國を支えるのである。
「うーん、俺の魔力が使えれば手助けになるんだろうけどなあ」
「イシュカは出力出来ないからねえ」
ハルトヴィヒの言う通り、魔力の出力が出来ない為に、前の執事によって捨てられた位である。
「いや、魔力を抽出する事は出来るぞ。マインラートの魔力過多を治した時と同じだな。あれの応用でいける筈だ」
以前、魔力過多で倒れた騎士団長マインラートを、エンデュミオンは魔力を空魔石に吸収させることで治療していた。
エンデュミオンは〈時空鞄〉から、飴玉位の大きさの綺麗な八面体をした透明な空魔石と、魔法陣の描かれた紙を取り出した。
「よいしょ」
孝宏の膝から降り、エンデュミオンは少し爪先立ちで、肘掛け椅子に囲まれるように置かれていたローテーブルの上に魔法陣の紙を、その上に魔石を乗せた。そして、ぽんと両前肢の肉球でローテーブルの盤面を叩く。
「えい」
ぶわっと魔石の乗った紙の下に銀色の魔法陣が浮かび上がった。魔法陣の光が紙と魔石を包み込み光が消え去ると、後には魔石だけがローテーブルの上に転がっていた。
「イシュカ、それを口に含んでみろ」
「魔石だよな?」
「飲み込むなよ」
イシュカはヴァルブルガを起こさないように腕を伸ばし、そっとローテーブルから魔石を指先で取り上げた。透明な魔石の中に小さな魔法陣が描き出されていた。
ハルトヴィヒが身を乗り出す。
「エンデュミオン、今のは錬金術か?」
「昔、独学で覚えたんだ」
ハルトヴィヒに答え、エンデュミオンは孝宏に前肢を伸ばして、膝の上に抱き上げて貰う。
「独学だから、正式な資格はないな」
魔女と同じで錬金術師も師匠に師事しないと、正式な資格として認められないのである。
「錬金術師の魔法陣は、大概布や床に描かれていたと思うが」
顔を顰めるハルトヴィヒに、エンデュミオンは鼻を鳴らす。
「錬金の魔法陣が描ければ同じだろう」
「正確に描く必要があるから、魔力だけで描く人なんて滅多にいないだろう」
「……エンデュミオンは描けたんだ」
何をやっても規格外のエンデュミオンが拗ねた声を出す。独学で何でもかんでも研究するので、無資格で色んな事が出来るようになってしまったのだろう。
「イシュカ、具合が悪くなったら魔石を吐き出せよ」
「解った」
イシュカは眺めまわしていた魔石を口に含んだ。ひんやりとした魔石が次第に口腔内の温度に馴染んで行く。
「ん?」
身体の中で何かが動くような気配を感じ、イシュカは思わず腕を擦った。
「身体の中で何か動いたように感じたら、それが魔力だな。動きを感じなくなったら、魔石が一杯になった合図だ」
エンデュミオンの説明の通り、身体の中をぐるぐる動く気配がなくなったのを見計らい、イシュカはハンカチの上に魔石を吐き出した。魔石はオパールのような色合いに変化していた。角度を変えると真珠色の石の中に虹色の光が混じり込んでいる。魔石の中にあった魔法陣は消えていた。
「イシュカは特に魔法を覚えていないから、何かが特化している訳ではないんだな。属性自体は全属性あるんだが」
「得意の属性があると、その色に染まる?」
「そうなるな。その魔石をドリアードに渡してやると、精霊樹に供給してくれるぞ」
イシュカの魔力を欲しがっていたし喜ぶんじゃないかな、とエンデュミオンがニヤリと笑った。
「じゃあ、これはフォルクハルトに渡しておくよ」
イシュカはハンカチで綺麗に拭いた魔石を、フォルクハルトに差し出した。
「有難う。これを精霊樹のドリアードに渡すのか……。まずはあそこに行けるようにならないとな」
「フォルクハルト、これが鍵の魔法陣だ。覚えて魔力で書けるようにしろよ」
〈時空鞄〉から別の魔法陣が描かれた紙を取り出し、エンデュミオンはフォルクハルトに渡した。フリューゲルと一緒に魔法陣を見るなり、フォルクハルトが唸る。
「これ、古い魔法陣だよね?」
「そりゃあ、作られたのが古いからな。ずーっと昔だ。ヴァイツェアはコボルトに魔法陣魔法を教わる機会が少ないからな。多分フリューゲルの方が上手く描けるだろう」
「わっう」
しゅっとフリューゲルが右前肢を上げる。どうやら描けるようだ。
「フリューゲルに教わるよ」
「そうしろ。魔法使いコボルトでなくても、魔法が使えるなら大体の魔法陣魔法は構築出来ると思うぞ? 魔法使いレベルのを教わりたかったら、リグハーヴスまで来れば何人かいるから」
「解った」
フォルクハルトはフリューゲルと鍵の魔法陣に見入る。
「お茶をどうぞ」
エデルガルトが話の区切りを見て、お茶を運んで来てくれた。
「有難う、母さん」
「ふふ、良く眠っていること」
エデルガルトが、指先でヴァルブルガのハチワレの額を優しく撫で、ロスヴィータと刺繍をしていた台所のテーブルに戻って行く。
フォルクハルトが盆に乗っていたティーカップを、それぞれの前に置きながら、不思議そうな顔になる。
「他の皆は?」
「朝から庭で遊んでいて、今は昼寝中。テオとカチヤはお守りだ」
起きた時に誰もいないと、ルッツとシュネーバルが慌てるのだ。特に今は〈Langue de chat〉ではないので、部屋から飛び出して階段から落ちそうで怖い。寝惚けたルッツが一番やりそうだ。
「イシュカ達はまだ街に出ていないよね。明日は晴れそうだし行く?」
「ああ、留守をお願いしている人達に、お土産を買いたいな」
「今コボルトを預かっているんだっけ?」
「リグハーヴス公爵に五人頼んでいるけどね。うちにもそれなりにいるよ」
三頭魔犬もいまだにいるのだが。家主としては、近隣に迷惑さえかけなければ、好きにして貰って良い。
領主館にコボルトと聞いて、ハルトヴィヒが興味深そうに笑った。
「ほう、一時預かりなのかい?」
エンデュミオンが撫で肩を竦める。
「はじめはそのつもりだったんだが、コボルトはその場所が快適であれば、定住しようとする適応力があるんだ。定住しやすそうなのを選んで預けたのもあるんだが、アルフォンスや使用人達と仲良くやっているぞ。養蜂師や司書が居なかったから助かると、執事のクラウスに礼を言われた」
家事コボルトが鷹獅子を拾ってきたりもしたので、騎士団には迷惑を掛けているような気がしないでもないが、士気は上がっているらしい。
「移住してもいい個体がいれば、ヴァイツェアでも受け入れるぞ。今は圧倒的に庭師が足りないな」
精霊樹の為の庭師だろう。フォルクハルトとフリューゲルだけでは、時間が掛かりすぎる。
「居心地のいい住居と食事または食材、信頼出来る人間が居る事が条件だ。コボルトはケットシーよりも純朴だ。裏切りはエンデュミオンが許さない」
「住居は敷地内に建築可能だ。この離れから小路を繋げれば安心だろう。うちの敷地内は自由に遊んで貰って構わない」
「ふうん? ではうちにいるコボルトに話をしてみよう」
「頼むよ。精霊樹の世話は〈緑の蔦〉でやらないとならないから、人手が足りないんだ」
「エンデュミオンとしても、森で自由に過ごして貰えるから良いと思う」
本来コボルトは森の中で暮らす妖精だ。エンデュミオンが助け出したコボルトは、独立妖精になりかけてしまっているので、森の中の方が居心地が良いだろう。
「ちなみにコボルトは物々交換が基本だ。労働の対価は食事や食材、もしくは布などの日用品を欲しがったらやると良い。コボルト織ならヨナタンに頼めば織ってくれる」
ヨナタンの場合はコボルト織の代金をお金でも受け取ってくれる。勿論コボルト相手の時は、物々交換するのだが。
「……にゃ」
もぞもぞとイシュカの膝の上で寝ていたヴァルブルガが起き上がった。
「……」
ハルトヴィヒやフォルクハルトの顔をじぃーっと見詰め、こくりと頷く。状況を把握したらしい。
「ほら、ヴァルもお茶飲むか?」
ヴァルブルガの分もエデルガルトがお茶を置いて行ってくれたので、程よく温くなったミルクティーをイシュカが口元に運んでやる。
ちゃむちゃむ、と桃色の舌で琥珀色のミルクティーを舐めるヴァルブルガに、ハルトヴィヒが肩の力を抜く。
「ヴァルブルガのお師匠さんは、ハイエルンのフラウ・アガーテだったかな?」
「うん」
ヴァルブルガが頷く。
「なるほど……」
一人納得するハルトヴィヒに、「なんです?」とフォルクハルトが促した。ハルトヴィヒが滑らかな顎を擦る。
「いや、ハイエルンの魔女アガーテは、腕が良い事もさることながら、若い時分には冒険者も兼ねていて〈凍土の魔女〉と呼ばれていたんだよ。氷魔法の使い手で結構有名でね」
「……」
「……」
フォルクハルトとエンデュミオンが黙り込む。人を凍死しない程度に凍らせる絶妙な氷魔法の使い手ヴァルブルガは、確実に魔女アガーテに氷魔法の薫陶を受けていたようだ。
「何の集まりだったか忘れたけれど以前お会いしてね、「うちの一番弟子は可愛いいし、そりゃあ物覚えがいいんだって」褒めていらしたよ。「自分の持てる知識全てを教え込んだ、最高の魔女になるだろう」と仰っていた。それがヴァルブルガだったんだね」
「そんな事、言ってたの」
ふふ、とヴァルブルガが笑った。懐かしく、幸せそうに。
先に本館に戻ると言うハルトヴィヒを、イシュカは途中まで送る事にした。
しとしとと渡り廊下の中にも、雨粒の落ちる音が聞こえる。
「森林族も妖精も長い時を生きる。だから時が流れる感覚に鈍くなるんだな。今回はエンデュミオンとヴァルブルガに強かに叱られたよ」
族長数名が氷漬けにされたが、自業自得だとハルトヴィヒは思っている。
「俺はどの位の寿命があるんでしょうか」
「私が森林族の純血で、エデルガルトにも森林族の血が混じっているから、一般的な平原族よりは長いだろう」
「そうですか。カチヤに色々教えてやれるし、ヴァルブルガとも長くいられますね」
人に憑いた妖精は、主を最期まで看取り森に帰る。だからなるべくなら、長く一緒に居てやりたい。
「父さん、コボルトが来たら賑やかになりますから、その点は覚悟しておいた方がいいですよ」
「多少賑やかになった方が、エデルガルトも寂しくないだろう。ケットシー達が場所を覚えたから、今度からはイシュカも遊びに来られるのかな?」
「ヴァルブルガ次第ですけどね」
ヴァルブルガはエデルガルトに好意を持っているので、イシュカが行きたいと言えば連れて来てくれるだろう。
あと数日でイシュカ達はリグハーヴスに帰る。リグハーヴスに帰る時には、ヴァイツェアにほんの少し心を残して行くのだろう。
少し前まで、自分の故郷は解らないままだったのに、今ではヴァイツェアが故郷だと知っている。
それはヴァルブルガの刺繍が切っ掛けだったと言う。
妖精は主の運命を良い方向に回すらしい。舵輪のような運命の輪を一生懸命に回すヴァルブルガを想像して、イシュカは笑みを浮かべてしまった。
あの冬の日、小さな赤ずきんを呼び止めて、本当によかった。今のイシュカの幸せは、ヴァルブルガと共にあるのだから。
ハルトヴィヒ、やっとこ息子に会いに来れました。ちょっぴりお疲れ。
ヴァルブルガに見詰められると、一寸ドキドキです。
アガーテは公の集まりなどにヴァルブルガを連れて行っていませんでした。でも自慢してたという。
紙化の書下ろしに、アガーテとヴァルブルガの出会い編を入れたいと思っています。
そんなこんなで、『エンデュミオンと猫の舌』文庫化します。同人誌での文庫化です。
イベントには出ません。通販のみの頒布となります。
活動報告に、通販ページのリンク先のご案内を載せました。
オンデマンド印刷のため、通販期間中は受付しますので、ゆっくりとご注文ください。
10月末日までを受け付け期間とする予定です(状況により多少前後します)。
『エンデュミオンと猫の舌1』
表紙カラー 本文モノクロ304頁 1000円(送料は別途かかります)
2015年8月28日~12月31日掲載分を加筆修正したものに、書下ろし『テオフィルとブラウヒェン』を加えています。
書下ろしはテオとルッツの出会い編です。
表紙カバーはないので、お好きなカバーを掛けて頂ければと思います。
文庫なので、通勤通学にも程よいサイズ感となっております。