イシュカと精霊樹(下)
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ヴァルブルガ、怒ります。
278イシュカと精霊樹(下)
その瞬間、エンデュミオンとヴァルブルガは同時に振り返った。
「やられた……」
舌打ちし、エンデュミオンは孝宏達が居た場所へと駆け戻った。
「どうした!?」
「これを見ろ。精霊の輪の残り香だ」
戻ってきたテオとフォルクハルトに、エンデュミオンは地面を示した。そこにはうっすらと金色の光がこびりつくように残っていた。
「精霊の輪って、どこかに連れて行かれたのか?」
「ヴァイツェアに住んでいても初めて見たぞ、精霊の輪なんて」
「しかし、イシュカも孝宏も精霊の姿は見えないんだがなあ。シュネーバルが見えるか……」
うう、とエンデュミオンが唸る。それからエンデュミオンははっとして、立ち尽くしているヴァルブルガに声を掛けた。
「ヴァ、ヴァルブルガ?」
クックックックック、とヴァルブルガから笑い声が漏れる。ゆらりと三毛の頭をもたげた。
「……エンデュミオン、イシュカどこ?」
ふふ、と笑ったヴァルブルガの瞳孔が完全に開いていた。いつもは澄んだ緑色をしている瞳が、今は深い色に変わり底光りしている。激怒しているその姿に、エンデュミオンの縞々尻尾がぼふりと逆立つ。
「にゃっ」
「わうぅ」
「わふぅ」
ルッツ、ヨナタン、フリューゲルが次々と尻尾を内股に入れ、主《主》の脚にしがみ付く。年少組には刺激が強すぎる。
「イシュカ、どこかなあ。誰かなあ、イシュカ連れてったの」
獲物を狙い始めたヴァルブルガの周囲にちらちらと雪の結晶が舞い始め、辺りの気温が下がって行く。エンデュミオンは慌てて自分よりも太いヴァルブルガの前肢を握った。
「落ち着けヴァルブルガ! イシュカ達の行き先に心当たりがあるから! ヴァイツェアを凍らせるのは待て!」
「え、ヴァルブルガもヴァイツェア全域凍らせられるの!?」
ぎょっとするフォルクハルトに、エンデュミオンは乱暴に頷いた。
「やれるぞ」
「ちょっ待って、イシュカ達どこにいるの!?」
「精霊樹の所だろう。昨日イシュカは夢で精霊樹に会ったと言っていた。暫く魔力を補給していない精霊樹が焦れたんだろう」
「なら、精霊樹に行けばいいんだよね? イシュカは魔力出力出来ないんだから、早く行かないと拙い事になりそうだ」
テオがルッツを足元から抱き上げ、視線でフォルクハルトとカチヤにも妖精を抱き上げるように示唆する。
「親方が拙い事になるって、どういう事ですか?」
「血液が一番魔力が高いんだよ、カチヤ」
「精霊樹がイシュカの血を求めると危険なんだ。今、精霊樹は魔力に飢えている状態だからな。ちゃんと世話をしていれば、世話人以外の魔力は求めないんだが。さっさと精霊樹の所に行って、エンデュミオンの魔力をぶち込んでやる」
不機嫌そうにエンデュミオンは尻尾を地面にばしばし叩きつけた。主を攫われたのはエンデュミオンも同じなのだ。辺りを凍らせようとするヴァルブルガの魔力を打ち消しながら、エンデュミオンは〈転移〉の魔法陣を構築し始める。
「父上に連絡する時間あるか?」
「いや、先に行こう。イシュカ達の確保が先だ。ハルトヴィヒがヴァルブルガに叱られるのは後回しだ。後手に回ると凍るぞ」
「あ、うん」
クックックックックと笑うヴァルブルガに、フォルクハルトの背中を冷汗が伝う。ヴァルブルガの周囲だけ、物凄く寒い。普段ほんわりとした雰囲気をしているだけに、物凄く怖い。強力な力を持つ魔法使いや妖精は二つ名を持つというが、ヴァルブルガも二つ名を持つ何かではなかろうか。
(イシュカって物凄いものに憑かれているんじゃあ……)
絶対にイシュカはヴァルブルガがここまで危険だと気付いていない。
どうやらハルトヴィヒは、精霊樹を今まで放置していたお叱りは逃れられないようだ。
「精霊樹への入口まで跳ぶぞ。魔法陣から出るなよ」
エンデュミオンの声とともに、足元に銀色の魔法陣が浮かび上がる。
遠慮の欠片もない魔力の行使に、周囲の木々にいた鳥たちが一斉に空へと飛び立った。
イシュカと孝宏が金色の輪に足を踏み入れた途端、景色が変わった。森の木々が明らかに古めかしく大きい上に、空気までも重く感じる。
「森の奥に来たって感じだね」
「まりょく、こい」
「薄暗いから、足元が見えにくいな」
黒森之國も夏の盛りは過ぎているので、陽が落ち始めると早い。背の高い木々で囲まれているこの場所では、すでに辺りが薄暗くなっていた。
「光?」
ふわ、ふわ、と何処からともなく黄色い光が幾つか漂い始めた。誘うように奥へと光が移動していく。
「誘われてる?」
「みたいだな。あそこに白い柵が見えているだろう? 多分もう精霊樹の保護区域内に俺達はいるんだ」
足元に気を付けながら、イシュカと孝宏は光が誘う方向へと歩いた。精霊が見えるシュネーバルが危険を知らせないので、大丈夫だろうとふんだのだ。
距離の割りに時間を掛けて、木々の濃い場所を抜ける。
「明るくなった?」
ぽかりと開けた場所に、巨大な木が立っていた。その木の正面に門が付いた白い柵が見える。どうやらここが本来の入口らしい。
「これが精霊樹?」
「そうみたいだな。俺が夢で見たのと同じだ。あそこら辺からドリアードが出て来たんだ」
イシュカが指差した巨木の陰から、すうっと緑色のドレスの女性が現れ、孝宏は喉の奥から悲鳴を上げてしまった。
「ひっ」
「うぅー」
シュネーバルも唸り声を上げる。
「イシュカ、今あの人木の中から出てこなかった?」
「ドリアードは木の精霊だからかな? 精霊樹が家みたいなものなのかもしれん」
『幽霊っぽくて怖いんだけど』
倭之國語で孝宏が何かを呟き、イシュカの腕にしがみ付く。
ドリアードが数メートル離れた場所まで滑るように近付き止まった。女性型のドリアードは美しい。人よりも血の気のない唇で、何かを伝えようとしているが、イシュカにはやはり何も聞こえなかった。
「孝宏、聞こえるか?」
「ううん。何か言っているんだよね?」
顔を見合わせ、二人揃ってシュネーバルに視線を落とす。
「う?」
二人を見上げていたシュネーバルがぱちぱちと瞬きをして、不思議そうな顔になる。
「シュネー、ドリアードが何を言っているか聞こえてる?」
「う!」
「翻訳お願い。俺もイシュカも聞こえないんだよ」
まったくもって、魔力要素がない二人である。ドリアードもエンデュミオンとヴァルブルガも一緒に連れて来れば良かったものを。
シュネーバルはドリアードが繰り返す言葉を、じっと聞いてから教えてくれる。
「あのね、まりょくください、だって」
「いや、無理かな」
イシュカの即答にドリアードががっかりした顔になる。
「悪いんだが、俺は〈緑の蔦〉一族らしいが、魔力を体外に出せないんだ。出来ればフォルクハルトか父さんに交渉して貰いたい」
がーん、と音がしそうな程の驚愕を見せたドリアードが、身振り手振り付きで何かを訴えて来る。
「いしゅかの、ちに、こいまりょくあるって」
「この巨木が満足するだけ血をあげると、俺は死ぬ気がするんだがな」
「どこの黒魔術かって話だよね。それにヴァルブルガが許さないんじゃないかなあ。イシュカも俺もケットシー憑きだから、呪われると思うよ」
ケットシーは憑いた主を守護するのである。イシュカが怪我をするのを黙って見ている筈がない。そもそもケットシーは執念深いのである。自分以外が主に憑くのを許さない。
「俺、ヴァルブルガは怒らせちゃいけないと思うんだよね。こう、本能的に」
孝宏は常日頃密かに思っていた事を口に出す。
いつもはおっとりとしているヴァルブルガだが、ああいう性格のものほど大切な物を侵害されそうになった時に怖い気がする。
「うー」
シュネーバルもこくこくと頷く。一度迷子になって、こっぴどく怒られたので身をもって知っているのだ。
しかしドリアードは諦めきれないのか、しゅるしゅると蔦を伸ばして来た。蔦に付いている葉の縁が、硬質な光を放つ。あれに触れたら皮膚が切れそうだった。
「やば、イシュカ逃げよう。うわっ」
逃げようとした孝宏が木の根に足を取られ転倒する。
「痛っ」
「孝宏!」
蔦からかばおうと孝宏の上に覆いかぶさったイシュカの上を、何かが空気を切り裂いて通過した。
シュッ! ドドドッ! と打撃音が続き、イシュカは目を瞠った。振り返った先で、迫っていた蔦とドリアードが氷の礫で吹き飛ばされていた。
「やれやれ間に合ったな」
「エンデュミオン」
白い門が開き、エンデュミオン達が入って来る姿が見えた。あそこから魔法を飛ばしたらしい。
「イシュカ!」
ヴァルブルガがイシュカの腕の中に飛び込んで来る。ヴァルブルガの身体はひんやりと冷たかった。
「ヴァル。冷たいけどヴァルがさっきの魔法使ったのか?」
「うん」
「助かったよ」
手触りのいいヴァルブルガの滑らかな毛を、イシュカは掌で撫でる。シュネーバルも真似をして、小さな前肢を伸ばしてヴァルブルガの毛に埋めていた。
「ふふ」
イシュカに撫でて貰い、嬉しそうにヴァルブルガが笑う。
「……こちらもイシュカが無事で助かった」
「え?」
エンデュミオンのぼそりとした呟きが聞こえたような気がしたが、エンデュミオンはイシュカの反問に答えず座り込んだままの孝宏の元に向かっていた。
「孝宏、大丈夫か?」
「足首捻っちゃったみたい」
「どれ。うん、折れてはいないな」
孝宏の足を調べ、エンデュミオンが〈治癒〉する。靴を脱がせて、〈時空鞄〉から出した湿布を手際よく貼り付け、包帯を巻いた。
「孝宏、足元悪いからゆっくり立って」
テオが孝宏に手を貸して立ち上がらせる。フォルクハルトとカチヤもフリューゲル達と木の根を避けながらやって来た。
「親方!」
「イシュカ、怪我は!?」
「俺は平気だけど、孝宏が足を挫いたみたいだ。ドリアードはいいのか? ヴァルブルガが吹っ飛ばしていたけど」
「精霊は本体があってないようなものだからな。ドリアードの本体は、精霊樹だろうから、こっちが傷付かなければ大丈夫だよ。間に合って良かった」
間に合って良かった、という言葉の中には色々な含みがあったのだが、イシュカは気が付かなかった。もしイシュカが怪我をしていたら、ヴァルブルガは精霊樹ごと氷塊で吹っ飛ばしていただろうとは、夢にも思わなかったので。
「おーい、ドリアードー」
エンデュミオンがドリアードが落ちた辺りに向かって前肢を振った。ゆらりと茂みの中からドリアードが立ち上がった。取り敢えず無事のようだ。
「一先ずエンデュミオンが魔力をやるから、世話人が決まるまでもう少し待ってくれ。一応ここにいるフォルクハルトとフリューゲルが世話をする事になると思うが、仕事をこれから覚えるんだ」
──エンデュミオン?
「そうだ。今は〈緑の蔦〉の血は引いていないが、魔力の質は同じだと思うぞ。〈生きている甲冑〉も認定済みだからな」
──魔力。〈柱〉の魔力が尽きる。
「そんなにカツカツだったのか? 魔法陣が苔で覆われてるなあ。少し敷石が見えるな」
エンデュミオンは苔むした木の根の隙間から敷石の場所を確認した。トントンと後ろ肢で敷石の上を叩く。
「我が名はエンデュミオン。〈柱〉の宿命を負う者なり。我が魔力の半量を糧にこの土地を支えよ」
呪文を唱えていくうちに、エンデュミオンの身体の周囲が緑色の光で覆われ始めた。呪文の終わりと同時に、緑色の光は足元へと吸い込まれる。
「うわ、凄い」
強力な魔力は、孝宏やイシュカにもはっきりと目視出来る。
苔の下から複雑な魔法陣が光るのが透けて見えた。強く輝いた魔法陣は次第に薄れて、苔の下の敷石へと滲んで行った。
──これで大丈夫。
ドリアードは溶けるように、精霊樹へと消えて行った。
「はあ、世話の焼ける。うう、お腹が空いた」
魔力を大量に消費したので、身体が栄養を欲しがり、エンデュミオンのお腹がぐうーっと鳴った。
「エンディ、シリアルバーならあるよ」
「貰う」
エンデュミオンは孝宏から蝋紙を剥いたシリアルバーを受け取り齧り付いた。シリアルや刻んだドライフルーツをキャラメルで絡めて固めた行動食だ。
孝宏は他の妖精達にもシリアルバーを渡していて、一寸したおやつの時間になった。テオが魔法瓶に水の精霊魔法でお湯を入れ、ティーバッグを放り込んでお茶を作る。蜂蜜玉を入れて甘くしたお茶を皆に配ってくれた。苔の上は乾いていたので、腰を下ろして一休みする。
マグカップのお茶を啜り、膝の上でフリューゲルにシリアルバーを食べさせながら、フォルクハルトがエンデュミオンに言った。
「エンデュミオン、さっきのが魔力を渡す呪文か?」
「そうだ。大切なのは名乗る事と、どれだけ魔力を譲渡するかの宣言だな。制限しないと、魔力を全部持っていかれて倒れるぞ。魔力回復薬を持って行くなら兎も角な」
「肝に銘じておく」
「精霊樹の手入れ自体は、庭の手入れと同じだから、フリューゲルの方が詳しいだろう」
「わっう」
フリューゲルがシリアルバーを持った右前肢を上げる。
「あとで鍵の魔法陣を紙に描いてやる」
「有難う。やっぱり一度リュディガーに来て貰った方がいいよなあ、これ」
「言っておくが、リュディガーが来る時はギルベルトも来るからな?」
「あ……」
元王様ケットシーとドリアードのご対面だ。エンデュミオンの手を焼かせたドリアードに、ギルベルトが良い印象を持つ訳がない。魔法陣に魔力を注いだ以上、エンデュミオンが関わったとギルベルトにはすぐにばれる。
「旅行に行った筈なのに、坊やは何をしているのかな?」と微笑まれたら、フォルクハルトの寿命が縮むのではなかろうか。例え長寿の森林族だとしても。
「王様ケットシーも準〈柱〉を守るものだからな」
異なるのは、ケットシー達は自分で魔力を魔法陣に供給する事だろう。コボルトの里にも準〈柱〉があるが、こちらも祭などを通じて魔力供給している筈だ。他にも王都の魔法使いの塔や、聖都の地下にも準〈柱〉があるが、これも担当するものが魔力を注ぐ。
守護するものが自力で魔力を供給出来ず世話人を付けるのは、精霊樹などの植物が魔法陣の上に封じられている場合である。
「リュディガーに何かあったら、ギルベルトが燃やすぞ。色々と」
「本当に族長達に口出しさせないように、父上に言っておく!」
リュディガーとエンデュミオンの悪口など、口が裂けても言わせないようにしなければ。ギルベルトはエンデュミオンの育ての親なのだから。しかも現在進行形で、ギルベルトはエンデュミオンを可愛がっている。他の族長たちは、いっそ破滅するなら、個人的に破滅して欲しい。
一息ついた後、皆で柵の外に出て、門にエンデュミオンが魔法陣を飛ばして鍵を掛けた。
「疲れたし〈転移〉で帰るか」
さっさとエンデュミオンが魔法陣でエデルガルト邸の庭へと〈転移〉する。
「お帰りなさい。暗くなって来たから心配していたんですよ」
掃き出し窓から、エデルガルトがほっとした顔で出て来た。
「ただいま帰りました。……フォルクハルト、母さんに言っていいのか?」
「まず父上に報告かな……」
先に聞いても後で聞いても、エデルガルトは心を痛めそうではあるのだが。
「エンデュミオン、フォルクハルト」
くいくいとヴァルブルガが二人の服を引いた。
「ん?」
「なんだい?」
「ハルトヴィヒの所に連れて行って欲しいの」
ふふっとヴァルブルガが微笑んだ。が、目が笑っていなかった。断らないよね? と顔に書いてある。
「……そうだな」
「イシュカ、ヒロ、一寸ヴァルブルガとエンデュミオンを借りて行くから」
「俺も行こうか?」
「イシュカは後で父上とゆっくり話す時間をとってやってほしいかな」
激怒するヴァルブルガをイシュカに見せない方が、お互いの為に良さそうだとフォルクハルトは判断した。エンデュミオンも頷いている。
「夕食までには戻らせるよ。フリューゲルは預かってて」
「ああ」
フリューゲルの精神衛生上、連れて行かない事にする。
てくてくと本館に向かって歩きながら、エンデュミオンがぼやいた。
「なんか、エンデュミオンは巻き込まれてないか?」
「でも、魔法関係の説明はエンデュミオンにして貰わないとならないだろう」
「くそう、ドリアードめ。エンデュミオンは孝宏と平和で平穏な暮らしがしたいのに」
それはエンデュミオンがエンデュミオンと名乗っている時点で無理である。喉までぐっと出掛かった言葉を、賢明にもフォルクハルトは飲み込んだ。
乗り込んだ本館の会議室で、ヴァルブルガはその場にいたハルトヴィヒをはじめとした族長全員を正座させてお説教する事になり、口答えするたびに族長は一人ずつ顔だけ出して氷漬けになった。
その晩は、冷えた心と身体を温める為、珍しく孝宏に頼んで湯船に浸かったエンデュミオンだった。
激おこヴァルブルガはエンデュミオンも尻尾を膨らませます。
瞳孔かっぴろげたヴァルブルガは周囲を凍らせます。きっと、密かに〈凍土の魔女〉とか二つ名がありそうです。
イシュカは激おこヴァルブルガを知らないという……。
結局は巻き込まれて後始末の手伝いをするエンデュミオンです。ちなみにハルトヴィヒは口ごたえをしなかったので、凍りませんでした。