イシュカと精霊樹(上)
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精霊からのご招待。
277イシュカと精霊樹(上)
気が付くとイシュカは森の中に居た。ああ夢か、と思いつつ辺りを見回すと、背後に巨大な木が聳え立っていた。梢の先は到底見えず、完全に広がる木の枝を見上げる状態だ。
少し色褪せた樹皮には苔や蔦が蔓延り、古色蒼然とした雰囲気を醸し出している。
巨木の周辺にはでこぼこと地面から隆起した木の根があり、その木の根が見えなくなった先に、白い柵がぐるりと張り巡らされていた。柵は細かな透かし彫りで、良く見ると魔法陣のように見えた。恐らくこの場所を守っているのだろう。
(なんで俺は柵の内側にいるんだろうな)
恐らくこの巨木は精霊樹だろう。確か、鍵の魔法陣がないと入れないのではなかったか。
(まあ夢だしな)
足元の根に気を付けながら、苔むした地面を歩いてみる。パジャマ姿のイシュカは裸足だったが、苔がふかふかと柔らかい。
(ん?)
何か聞こえた気がして視線を向けた先に、緑色の髪の美しい女性が立っていた。ふんわりとした色違いの緑色をした薄い布地を重ねたドレスを着ていて、ゆるくまとめた長い髪に、黄色い花の咲いた細い枝が挿してあった。
ぱくぱくと彼女の口が動くが、イシュカには何も聞こえない。
(人じゃないのか?)
話せない人なのかと思ったが、緑色の髪をした人族は黒森之國には居ないのだと我に返る。木の精霊の上位種がそんな姿だった筈だ。叔父のリュディガーの専属に近い木の精霊などが。
彼女が精霊だとすると、話は変わる。イシュカは普段精霊が全く見えないからだ。彼女が上位精霊でイシュカに姿を見させているのだとしても、声までは届かなかったようだ。
夢でも都合良くいかないらしい。
声を伝えるのを諦めたのか、推定木の精霊はイシュカに近付いてきた。髪から花の咲いた木の枝を抜き取りイシュカに差し出す。
(これ、受け取って良いのか?)
精霊との取引は慎重にしなければならない。特にイシュカは魔法使いでも召喚師でもないのだから。
躊躇うイシュカの手の中に、焦れた木の精霊が木の枝を押し込もうとした時、何処からかぽたりと冷たい雫が落ちて来た。それはイシュカの首筋に落ち──。
「っ!」
ぱちりとイシュカは目を覚ました。薄暗い部屋はヴァイツェアのエデルガルト邸にある、イシュカの部屋だった。夜明けが近いが、まだ太陽は上がっていないようだ。
くうくうという寝息が間近で聞こえる。どうやら寝返りをうったシュネーバルの鼻が、イシュカの首に押し当てられて目を覚ましたらしい。半ばイシュカに抱き着いて寝ているシュネーバルを撫で、苦笑する。
シュネーバルの隣ではヴァルブルガが眠っていた。毛布をそっと掛け直し、イシュカはふうと息を吐いた。
シュネーバルのおかげで目を覚ましたが、先程の夢はやけに現実味のある夢だった。巨木の質感も、足裏に触れた苔の柔らかさも肌に残っている。
エンデュミオンとフォルクハルトの会話を聞いていたから、精霊樹の夢でも見たのだろうか。
(あの木の枝を受け取っていたらどうなっていたんだろう)
受け取らなくて良かった気がする。面倒事に巻き込まれたかもしれない。
イシュカは魔力はあるらしいが、出力が出来ないのである。ろくな事にならなそうだ。
(……もう少し寝よう)
二度寝をする事に決め、イシュカは目を閉じた。
「巨木の夢を見た?」
イシュカの夢の話を聞いて、エンデュミオンが鼻の頭に皺を寄せた。
「上位の木の精霊も居たと思う。女性の姿をしていたから」
「ドリアードかな。古木にはドリアードがいる場合が多いから。ここの精霊樹にもドリアードがいた筈だ。〈緑の蔦〉一族はハルトヴィヒもフォルクハルトもいるのに、なぜイシュカなんだ?」
「あれは精霊樹なのか?」
「恐らくは。ちょっかいを出して来たんだと思う。出力出来ない分、イシュカの魔力は濃いんだ。ドリアードから何か貰ったりしなかっただろうな」
きらりとエンデュミオンの黄緑色の瞳が光る。
「黄色い花の付いた枝を差し出されたけど、受け取る前に目を覚ましたよ。ドリアードの言葉は俺に聞こえなかったし」
「ならいい。魔法使いが立ち会わない契約は、不利な物になる場合がある。夢の中でも受け取らない方が良い」
「気を付けるよ」
どうやら危ないところだったようだ。起こしてくれたシュネーバルには感謝だ。
そのシュネーバルは現在孝宏と滝壺で遊んでいた。イシュカ達はフォルクハルトが教えてくれた滝壺に遊びに来ていた。
エデルガルド邸からほど近い森の中にある小さな滝の下にある滝壺は、滝の真下以外は浅く水遊びをするにはもってこいだった。フォルクハルトも子供の頃に良く遊びに来ていたと言う。
ズボンの裾を折り上げた孝宏に前肢を持ってもらい、シュネーバルがちゃぽちゃぽと水面を泳いでいる。ルッツとヨナタン、フリューゲルもそれぞれの主と一緒に水遊びに興じていたが、ヴァルブルガは水辺で脚の先を浸けているだけで、泳いでいる皆を見守っていた。
エンデュミオンに至っては、滝壺の脇に広げた毛布の上で、時々ぶるりと震えながらお昼御飯の入っているバスケットを守っていた。本当に水が苦手なのだ。
イシュカはそんなエンデュミオンに、今朝がた見た夢の相談をしたのだった。夢の話だと馬鹿にする事もなく、エンデュミオンは至極真面目に答えてくれた。
「イシュカは一人で森の中に入ったりするなよ。ドリアードに攫われるかもしれん。〈緑の蔦〉の濃い血を持つイシュカは、精霊樹にとって世話人候補だからな」
「俺に庭師の才能はないんだが」
イシュカはルリユールである。
「あとな、イシュカに何かあったら精霊樹が凍るぞ」
「凍る?」
「物理的に。ヴァルブルガの得意な魔法が氷魔法だからな」
ぽしぽしとエンデュミオンが前肢の先で頭を掻く。エンデュミオンは自分で温室の造園をするくらいなので、得意なのは木魔法だろう。
「ヴァルブルガはイシュカを守る為なら何でもするぞ。例え準〈柱〉である精霊樹にだって攻撃するだろう。エンデュミオンは精霊樹を守らないとならないから、ヴァルブルガを怒らせたくない」
ふう、とエンデュミオンが遠い目になる。ヴァルブルガは五十年ばかり生きているケットシーで、ケットシーとしては若い個体だが、どうやら怒らせると厄介だとエンデュミオンは思っているらしい。
ヴァルブルガは普段これと言った魔法を使わないので、イシュカはあまり実感がないのだが。
「イシュカ、エンディ、お茶入れてー」
孝宏がぽたぽたと水の垂れるシュネーヴァルを、ヴァルブルガに差し出していた。ヴァルブルガが風の精霊魔法でシュネーヴァルを乾かす。草の上に下ろしてもらったシュネーバルは、まっすぐイシュカの元へとちょこちょこ駆けて来た。孝宏も布で脚を拭き、後ろからついてきた。
「ずっと入ってると流石に冷えてくるね。シュネー身体小さいし」
「いしゅかー」
シュネーバルがイシュカの胡坐をかいた膝の上に登って来る。イシュカは手近にあった浴布でシュネーバルを包んでやった。
「ぬくい」
「ほら、飲ませてやってくれ」
エンデュミオンが小さなマグカップに入れたミルクティーを差し出して来たので、イシュカが受け取りシュネーバルに舐めさせる。
「はー、水遊びは久し振りだな」
孝宏も毛布の上に腰を下ろした。
「俺が住んでいた所の海は夏も水が冷たかったから、頻繁に行ったりしなかったし」
「リグハーヴスもそうじゃないかな。泳げる場所って湖位だろう?」
それに街からは少し離れているので、馬車で行かなければならない。夏も涼しい日が多いので、リグハーヴスでは水遊びは大衆的ではない。近所の草原や森に、弁当持参で散策に行く方が多いのではなかろうか。
暫くすると、ルッツ達も水から上がって来た。水に潜っても平気なルッツやフリューゲルは、滝壺の底にあった綺麗な石を幾つか拾って来て、シュネーバル達にもあげていた。
「これらはなりかけの魔石だな。精霊樹があるから魔石が出来やすいんだ」
エンデュミオンがルッツから受け取った、黄緑色の楕円形をした石を空に翳して目を細めた。
殆どが薄い色の半透明な石で、魔石としては純度が低い。だが年少妖精にとっては充分な、綺麗な石なのだ。妖精はきらきらした物が好きなのである。
「本当は父上も来たがっていたんだけどね」
バスケットから昼ごはんの紙に包まれたサンドウィッチを取り出しながら、フォルクハルトが笑った。サンドウィッチはエデルガルトとロスヴィータが用意してくれたものだ。フォルクハルトも乳母が焼いたという焼き菓子を持って来ていた。
「また族長会議か?」
「そうなんだ。エンデュミオンに精霊樹への行き方を教えて貰えるって父上に伝えたから、落ち着くと思うけど」
精霊樹のある場所へ入る権利を持つのは〈緑の蔦〉一族の血縁なので、現在だとハルトヴィヒとリュディガー、フォルクハルトとイシュカとなる。ハルトヴィヒとリュディガーの両親も存命だが、精霊樹の世話人になる事を辞退しているらしい。
「相変わらずリュディガーをヴァイツェアに戻せ派がいるんだよね。特級の木の精霊と契約出来るとなるとさ」
森に暮らす森林族で、その価値は計り知れない。
「昔、大魔法使いエンデュミオンを森から出した後にも、精霊樹の森が荒れたって記録が残ってるんだ。だから強力な木の精霊魔法を使える魔法使いはヴァイツェアから出すなっていう慣習があるんだよ」
「なんだ? その話は。エンデュミオンは精霊樹の世話をする前に森を出たんだが。そもそもエンデュミオン自体が〈柱〉だぞ。エンデュミオンが不在の間に森が荒れるのなら解るが」
エンデュミオンの瞳が驚きでくるりと丸くなる。
エンデュミオンが黒森之國に存在しない間は、國の各所にある準〈柱〉が國を支えるので、魔力を消費するのである。森が荒れるならその時期の筈なのだ。
「だよねえ。だからその辺は偶然が重なって森が荒れたんだろうって、父上は言ってるけどね」
肩を竦め、フォルクハルトはフリューゲルの頭を撫でた。
フリューゲルは黒褐色の体毛をしているが背中に翼の形の白い毛が生えていて、だからフリューゲルなのかと、イシュカは密かに納得した。
木漏れ日の中、木々の間を通った心地よい風が通り抜けていく。滝が滝壺に落ちる音が涼やかだ。
皆でサンドウィッチを食べ、毛布の上に転がって昼寝をしたり、〈王と騎士〉をしたりして過ごした。
「そろそろ帰ろうか」
陽が傾き出したのを見計らい、荷物を片付ける。
孝宏は青いスリングを持って、シュネーバルの前にしゃがんだ。
「シュネー、イシュカに抱っこして貰う? 俺にする?」
「いしゅかー」
長い距離の移動にはスリングで運ばれるシュネーバルだが、イシュカと孝宏のどちらにするかは、彼の気分で決まる。行きは孝宏だったので、帰りはイシュカの気分らしい。
イシュカはスリングを身体に斜めに通し、布の間にシュネーバルを入れた。
「ん、んー」
機嫌よく、シュネーバルがイシュカの胸に頭を押し付ける。ヴァルブルガはシュネーバルに関しては、イシュカに抱っこされても嫉妬しない。ヴァルブルガもシュネーバルを可愛がっているからだろう。年少組に関しては、年長組であるエンデュミオンやヴァルブルガの弟分なのだ。
ヴァイツェア公爵家の血族が住む範囲では、各家やこうした滝などからは本館に向かって小路が整備されている。小路にさえ出れば、何処かには辿り着けるのだと、最初にイシュカ達は教わった。ちなみにテオは〈暁の砂漠〉の民の特性で、道に迷わないらしい。
先頭にフォルクハルトとフリューゲルが立ち、本館へと向かう小路を歩く。前を行く皆の背中を見ながら、イシュカと孝宏は最後尾を歩いていた。
「へくちっ」
シュネーバルがくしゃみをし、イシュカと孝宏は立ち止まった。
「お大事に、シュネー」
「しゅねーばる、はなみじゅでた」
「ありゃ。一寸待ってね」
孝宏はポーチから、鼻かみ用の端切れを取り出し、シュネーバルの鼻を拭ってやった。
「水遊びして冷えたかな?」
「だいじょぶ」
「帰ったらお風呂入ろうね。……あれ?」
端切れをポーチにしまい、歩き出そうとした孝宏は首を傾げた。目の前にあった道が無くなっていた。数歩先にいたエンデュミオンとヴァルブルガの姿もない。辺りはぐるりと森に囲まれていた。
「孝宏、俺の近くに居ろ」
イシュカは固い声を発し、孝宏の腕を掴んで引き寄せた。
「イ、イシュカ。なにこれ」
「木の精霊の悪戯かな……。すまん、多分俺がらみだ。エンディに忠告を受けていたんだが」
「うわあ、魔力使えない奴二人とか、選択間違ってるよね!」
魔力が使えないので、精霊がらみの事象は孝宏とイシュカの目には殆ど見えないのである。
「全くだ。シュネー、何か見えないか?」
スリングの中から辺りをきょろきょろしていたシュネーバルが、二人の足元を指差す。
「そこ、きんいろにひかる、わ、ある」
「金色の輪?」
「せいれいのわ」
「精霊の輪って言うと、説話集にあったよね。精霊がご招待してくれるってやつでしょ?」
孝宏も説話集は一通り学習済みだ。
「どちらかというと、強制ご招待なんだが」
「どうする? イシュカ。多分ここ精霊の領域だろうから、エンデュミオンとも連絡つかなそうなんだけど」
「なんとなく、何処に連れて行かれるか解っているから行くか……」
はあ、とイシュカは太く息を吐いた。イシュカは一介のルリユールだと自認していたのだが、何故精霊に絡まれているのだろうか。
「ヴァルブルガ、心配しているかもなあ」
「そうだねえ。呪われる人いないといいけど」
「うー」
孝宏の言葉に、シュネーバルが同意の返事をした。イシュカとしてもエンデュミオンとヴァルブルガが余り暴れない事を祈る。
「仕方がない、行くか」
イシュカは孝宏の腕をしっかりと握ったまま、精霊の輪があるらしき場所へと足を踏み出した。
精霊に絡まれるイシュカと巻き込まれる孝宏とシュネーバルです。
実は災厄度で言うと、エンデュミオンとヴァルブルガは余り変わらなかったりします。
ただし、ヴァルブルガはイシュカの為にでないと、災厄級の動きはしません。イシュカの為になら、色々滅ぼします。