イシュカと実家
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
エデルガルト邸に到着です。
276イシュカと実家
ヴァイツェア公爵の領主館は公式なものに使用すると言うだけあって、華美ではないが壮麗な設えだった。玄関広間の床はマーブル模様の入った色違いの白い石で、床に植物の柄が作り込まれていて、それだけでも一見の価値がある。柱も蔦が絡まる彫刻の入った白い石で出来ていて、天井まで続いている。見上げた天井には、聖典の一部と思われる天井画が描かれていた。
孝宏が「どこの宮殿だよ、ここ」と漏らしているのがイシュカにも聞こえた。同感だ。
両開きの玄関から入ってすぐのホールの正面には深緑色の絨毯が敷かれた大階段があり、二階で左右に分かれた廊下へと繋がっている。
「この建物は、二階に大広間、三階に客室があるんだよ。一階に応接室や客用の食堂がある。なんで二階に大広間かって言うと」
フォルクハルトはフリューゲルを抱き上げ、先に立って大階段を回り込む。イシュカ達もそれぞれ妖精を抱き上げ、フォルクハルトを追いかけた。
「扉?」
大階段を回り込んだ場所、丁度階段の真下に扉があった。フォルクハルトが躊躇いなく、扉を開ける。そこにはもう一つ広間があった。それもただの広間ではなく、いくつもの渡り廊下への入口がある。それぞれの入り口の縁には年月を経て飴色に変わった木工細工の彫刻が嵌め込まれていたが、全て同じ作りだ。これでは、どの入口が何処に繋がるのか、知らないと迷うだろう。
「基本的に森林族で一族が同じ土地に暮らす場合、こういう感じで離れを作るんだよ。防犯上、時々入口の場所は変わるんだ。今は左から二番目が本館で、一番右側がフラウ・エデルガルト邸だよ」
本館が領主一家の館なのだろう。
「はあ……」
呆気に取られているイシュカ達〈Langue de chat〉組に、エンデュミオンが事も無げに言った。
「森林族は古代からの習性なのか人を迷わす術を好むものが多い。昔は森の中に隠れ住んでいたからな」
それでは身も蓋もない。フォルクハルトによると、実際は領主館本館を中心に他の親族の邸が点在しているらしい。
「いや、領主館だし防犯を考えると解らないでもないが……。何から何まで凄いな」
エンデュミオンは孝宏の腕の中から、縁飾りの木工細工をぱしぱし肉球で叩いた。
「この木工細工はエンシェントトレントだな。この彫刻の裏側に魔法陣が刻まれているんだ。〈転移〉魔法の応用だな」
「エンデュミオン、解説しないで。一応門外不出だから」
「こんな細かい魔法陣を刻むような酔狂な奴、まだいるのか?」
「技術継承はしている筈だよ。ほら、フラウ・エデルガルトの所に行くよ。本館行っちゃうと面倒臭いから」
まだ族長たちが居るからだろう。継承順位二位でありながら、ヴァイツェアに暮らしていないイシュカを好ましく思わない族長もいそうだ。
イシュカとしてはハルトヴィヒがイシュカを認知し、ヴァイツェアの名を名乗る権利を与えたのは、孝宏の保護者としての立場を強固にする為ではないかと思っているのだが。それはとても有難いと思っている。
ただの平民と公爵家の子息では、立場はまるで違う。現在は学院を出ていないイシュカでも、ヴァイツェアを名乗れば貴族相当の扱いを受けられるという。孤児として清貧を尊ぶ教会孤児院で暮らしていたイシュカには、雲の上の話だ。はっきり言って尻の座りが悪い。だからイシュカは、ヴァイツェア公爵家の子息として公の場に出る時以外は、ヴァイツェアを名乗らない。
エデルガルトの邸に向かう白い屋根付きの渡り廊下を進むと、途中から渡り廊下の壁が透かし彫りに変わり、手入れのされた森や庭が見えた。どうやら他の渡り廊下は見えない仕組みになっているようだ。おそらくこの透かし彫りにも術が仕込まれているのだろう。
一度、渡り廊下の途中に花の咲き乱れる中庭があり、そこを通り抜けて進んだ先に花園に囲まれた小さな邸が建っていた。邸と言うより家と呼んだ方がいいかもしれない。〈Langue de chat〉よりも小さい。不揃いな大きさの白く平たい石畳みが家まで並べられていた。玄関前で石畳は分岐し、家の脇を通り奥までも続いている。
丁寧に手入れをされた花と灌木からは、甘く清々しい香りがしていた。それに、どこからか水の音も聞こえてくる。南にあるヴァイツェアの強い陽の光は、木々の葉に遮られ、木漏れ日として柔らかく差し込んでいた。
「綺麗なところだな……」
「ここはフラウ・エデルガルトが手ずから世話をされているんだよ」
「フリューゲルもすこしてつだう」
「そうなのか。有難う、フリューゲル」
庭師コボルトは庭を見れば世話をせずにはいられない性分なのだが、エデルガルトを手助けしてくれるのは嬉しい。
「俺達普段は表から入らないんだけど、今日は表からの方がいいかな」
「フォルクハルト達はどこから入っているんだ?」
「裏にも庭があって、そこに掃き出し窓があるんだよ。フリューゲルがそっちから出入りしているから、つい俺も」
コボルトは圧倒的に身長が足りないので、呼び鈴を鳴らせない。
磨き込まれた栗色のドアの横に、舌に細い鎖の下がったベルが吊るされていた。イシュカは鎖を掴み、軽く振る。ヴァイツェア公爵家の紋章が刻印された銀色のベルは、リーンリーンと澄んだ音を辺りに響かせた。
キイ、と家の扉が開く。現れたのは、紺色のお仕着せに白いエプロンを付けた、生真面目な顔の森林族の女性だった。黒い髪をきっちりと束ね、身のこなしに隙がない。彼女はイシュカを見て目を瞠り、すぐさま深く膝を折る敬意を表す礼をした。
「お帰りなさいませ、緑雨の大君」
「え?」
「緑雨は恵みの雨で大君は古い言葉で最初に生まれた子の事。名前で呼ばれない時のイシュカの通り名だよ。本来だと緑樹の若君って呼ばれるんだけど、俺がそう呼ばれているから。普段は略して、家族以外には大君って呼ばれると思う」
「成程」
面食らったイシュカだったが、フォルクハルトに説明されて納得した。ヴァイツェアでは家族以外では領主家の子息の名前を呼ばないらしい。昔ヴァイツェアが独立してこの地域を治めていた頃の名残なのだろう。古代は各地に王が居たのだ。現在の領主はその時の王達の血を引く者達だ。
「わたくしはロスヴィータ。エデルガルト奥様の侍女をしております」
「初めまして、イシュカです。こちらは俺の家族です」
イシュカは一人ずつロスヴィータに紹介した。妖精達は自分達で名乗ってくれるので早い。全員の顔と名前を一致させるようにじっと見詰めた後、ロスヴィータは扉の前から動いた。
「どうぞお入りください」
「お邪魔します──じゃないか、ただいまで良いのか」
言い直したイシュカに、ロスヴィータの表情がふっと一瞬和らいだ。
「それで宜しゅうございます、大君。こちらは大君の生家でございますので」
「そう、ですか」
覚えのない家の玄関は広めだった。表玄関から入る場合は、玄関で靴を脱ぐらしい。靴を脱ぎ、妖精達を床に下ろしてやる。
「こっちだよ」
「エデルガルトいる?」
ぴかぴかに磨かれた床に爪をカチカチ鳴らしながら、フリューゲルとルッツが奥へと小走りで行ってしまった。
「こんちはー」という元気な挨拶の後に、エデルガルトの笑い声が聞こえた。
「ルッツ……」
テオが片手で額を抑える。
「ちゃんと挨拶しているじゃないか」
イシュカは笑ってテオの肩を叩いた。どこでもきちんと挨拶をするのがルッツなのだ。
ロスヴィータに案内されて居間に通される。居間ではフリューゲルとルッツが、屈んだエデルガルトに撫でて貰っていた。
「お久し振りです、母さん」
「イシュカ!」
ぱっとエデルガルトが立ち上がる。イシュカを産んでいるのだから四十路にはなっている筈なのだが、エデルガルトはとても若々しい。彼女も森林族の血が混じっているからだろう。
「……ただいま帰りました」
「お帰りなさい」
ぎこちなく挨拶し、イシュカは気まずげに室内に視線を彷徨わせる。慣れない。母親と言うものに慣れない。何を話していいかも解らない。背中に変な汗が滲む。
「フラウ・エデルガルト、俺達もお世話になります」
ぺこりとイシュカの隣で孝宏が頭を下げた。
「イシュカと親子水入らずの方がいいのかなとも思ったんですが」
間が持たないので止めて欲しい。イシュカは親子初心者なのだ。
イシュカの考えを見透かしたのか、エデルガルトが楽しそうに笑った。
「わたくしは皆さんにお会いしたかったので嬉しいですよ。どうぞ寛いでくださいね」
「有難うございます。俺が焼いたお菓子を持って来たんです。エンディ、出して貰っても良い?」
「ああ。台所で出そうか?」
「ではこちらに。ロスヴィータ」
孝宏とエンデュミオンがエデルガルトと台所に向かうのをそのまま見送ったイシュカのふくらはぎを、ヴァルブルガがぽんぽんと慰めるように叩いた。もう片方の足首にはシュネーバルがぎゅっと抱き着いている。心配されているらしい。
「大丈夫だよ」
今回ここに来たのは、エデルガルトにもう少し歩み寄る為でもある。
エデルガルトがイシュカに向ける愛情は感じているし、それを疎ましくは思わない。ただ親子関係と言うものに慣れていないだけなのだ。イシュカは親方の元に徒弟に入ったが、職人になれば独立するものとして一線を引いていた。第二の親として親方を慕う弟子もいない訳ではないが、実の親を知らなかったイシュカはその感覚すら解らなかったのだ。
実の親を幼い時に亡くしたテオは、ロルツィングを養父として育っているので、イシュカとは又別の感覚なのかもしれないが、黙って見守ってくれているのが有難い。
いつの間にかフォルクハルトは掃き出し窓の近くにいて、ルッツやヨナタンに庭の説明をしていた。
「あの噴水の中には、小さな魚が泳いでいるよ」
「およげる?」
「ルッツが泳ぐには狭いかなあ。泳ぎたいのなら近くにある、小さな滝の滝壺で泳げるよ。深くない場所で水も綺麗だよ」
「あいっ」
ルッツは熱中症になりやすいので、皆で滝壺に涼みに行くのもいいかもしない。
「親方、綺麗なお庭ですね」
窓辺に居たカチヤも、リグハーヴスにはない明るい色の芝生で覆われた庭に目を輝かせている。
「カチヤ、あとで庭を見ようか。初めて見る植物もあるかもしれない」
「はいっ」
職人であるイシュカ達には、何事も勉強になる。学ぶ機会があるのなら、イシュカは弟子であるカチヤに吸収させたかった。
「お茶にしましょう。好きなところに掛けて下さいな」
菓子や茶器の乗った盆を持って、エデルガルトと孝宏が居間に戻ってきた。後ろから大きなティーポットを持ったロスヴィータが付いて来る。エンデュミオンは先に歩いて来て、毛足の長いラグマットの端に腰を下ろした。それを見て、わらわらと妖精組がラグマットに集まる。
「おやつ!」
「あんまり食べ過ぎるなよ? 夕ご飯入らなくなるから」
「ミルクどれくらい?」
「いっぱい!」
「はちみちゅ、ほしい」
「俺の持って来た蜂蜜玉でいいかな。皆も入れるの?」
「ベリーとイチジクのタルトをくれ」
「同じのが欲しいの」
おやつを前に集まる妖精達はいつも通りで、イシュカはタルトをエンデュミオンとヴァルブルガの皿に乗せてやりながらおかしくなった。緊張している自分が馬鹿みたいに思えてくる。
(ここは俺の実家なんだし)
一番寛いでいいのは、イシュカではないか。
瑞々しい数種類のベリーとイチジクの乗ったカスタードタルトをフォークで掬って口に入れる。噛むとじゅわりと口に果汁が広がり、甘さが控えめのカスタードと混じる。タルト生地もサクサクとして美味しい。孝宏の菓子に慣れたイシュカの肥えた舌でも満足出来る味だった。
「美味しい」
「それは奥様がお作りになられた物ですよ」
イシュカのカップにお茶を注ぎ、ロスヴィータが言った。
「母さんが?」
意外そうな声が出たのは否めない。公爵の側妃が自炊するとは思わないだろう。
エデルガルトが微笑む。
「元々自分でやっていましたから、ある程度の事は出来ますよ」
そういえばエデルガルトは元々平民である。庭仕事も自分でやるくらいなのだ。
「母さん、あとで庭を案内して貰って良いですか? 見た事がない花があるようなので」
「ええ、勿論」
上品にカップを口元に運ぶ、エデルガルトの手が微かに震える。お茶を一口飲み、ほうっっと息を吐いた。
「このタルトに使ったベリーは、あなたが産まれた年に植えた物ですよ。ふふ、もう摘まみ食いする年齢ではないですね」
「いえ、ベリー摘みには今でも行きます。それにこの子達が喜びます」
イシュカはヴァルブルガの頭を撫でた。ヴァルブルガはベリーが好きなのだ。イシュカに撫でられ、ヴァルブルガの大きな緑色の瞳が気持ちよさげに細くなる。
「そうですか。庭にもまだなっていますから、沢山召し上がれ。庭のベリーで作ったジャムもありますからね」
「ジャム!」
美味しいジャムに目がないルッツが、タルトの欠片を口元に付けたまま反応する。
「今タルト食べてるだろう……」
呆れた声を出したテオに、イシュカは堪らず吹き出した。本当に妖精達は屈託がなく自由過ぎる。イシュカにつられるように、他の面々も笑い出す。
これがイシュカの日常だった。目の前にある、愛すべき家族が。エデルガルトにも誰にも恥じる事のない。
だったら、イシュカの家族である彼らは、エデルガルトの家族でもある。遠慮する事はない。
イシュカは笑い過ぎて浮かんだ目尻の涙を指先で拭って言った。
「母さん、ジャムを貰えますか?」
イシュカの実家、エデルガルト邸。全員泊まれる客室はあるけれど、こじんまりとしたおうちです。
普段はエデルガルトとロスヴィータの二人暮らしです。
側妃腹ですが長男なので、イシュカの通り名の方が上位ですが、継嗣としての通り名はフォルクハルトの方になります。
ヴァイツェアに何代か住んでいる平原族の人たちは森林族と婚姻したりするので、かれらの子孫は年齢より外見が若々しい人が多かったりします。
黒森之國の理としては、種族としては母方の種族の外見で産まれますが、体質は両親の体質を継ぎます。
イシュカは、実は魔力はそれなりにあったりするんだけど、全く出力できないので、魔力の持ち腐れという……。検知器でも殆ど反応しないので、魔力無しの扱いになります。