アルスと図書室
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
図書館に入り浸る子もいます。
271アルスと図書室
リグハーヴスの領主館には図書室がある。
黒森之國では本は芸術品にも値し、美麗に製本された本を所持するのは、貴族や上位準貴族の財産であり見栄にもなっている。
リグハーヴス公爵家の図書室もご多分に漏れず、美しく製本された本が並んでいるが、本の内容は実用的な物が多い。
歴史や王族貴族人名録、各領の地図や生産物を調べたもの、魔法書、各種図鑑、代々の領主が集めた個人的な蔵書など多岐に渡る。
ふよふよと薄暗い廊下をココシュカが飛んでいる。暗い中に白い身体のココシュカが浮かび上がっているので、知らないで見ると吃驚しそうだ。
基本的に天井照明は大きな部屋等にしかない黒森之國では、夜は鉱石ランプを使う。領主館では廊下の壁に一定間隔で花の形を模した鉱石ランプが付いていた。暗くなると自動的に点く魔法陣が組み込まれている。
「寝る前に読む本を忘れていたよ」
アルフォンスは寝る前に軽く活字を読む習慣がある。いつもは居間のティーテーブルに本を置いておくのだが、読み終わったのでクラウスに図書室に戻して貰ったのを忘れていた。
「ぎゃう?」
ふよふよと飛んでいたココシュカが図書室のドアの前でピタリと停まる。ドアが細く開いていた。
「開いてるよぅ」
「あー、もしかしてまだ居るのか。こんな時間なのに」
普段なら図書室を使うのは領主夫妻であるアルフォンスとロジーナなのだが、現在は毎日朝から晩まで入り浸っている者がいた。
クラウスがドアを大きく開け、先に入る。その後にココシュカとアルフォンスが続く。
床に置かれた鉱石ランプの明かりの中に、開いた本に鼻先を埋めるようにして読んでいる黒褐色のコボルトがいた。コボルトの回りにも数冊本が置いてある。
そのコボルトは左耳は立ち耳だが、右耳は折れ耳だった。この特徴を持つ南方コボルトは、現在領主館に一人しかいない。
「アルス」
すたすたと部屋を横断し、アルフォンスはアルスから本を取り上げた。
「たう! たう!」
飛び上がったアルスがアルフォンスから本を取り返そうと、ぴょんぴょん跳ねる。しかしアルフォンスは構わずに、閲覧机の文箱からリグハーヴス公爵家の紋章が刺繍された布製の栞を取り出して挟んだ。
アルスが読んでいたのは、大魔法使いエンデュミオンが生きていた年代に書かれた旅行記だった。アルフォンスもお気に入りの本だ。
「たう! たう!」
アルスは読み書きも出来るし黒森之國語の聞き取りも出来るが、話す事は出来ない。上手く発音出来ないらしく、コボルトの中に一定数こういった状態の者がいるらしい。
その為筆談以外では、コボルト言語を他のコボルトに訳して貰う必要があるのだが、アルスの場合は訳して貰わなくても解る事が多い。現在は本を取り上げたアルフォンスに抗議しているのだろう。
「アルス」
もう一度名前を呼び、アルフォンスが向き直るや否や、アルスはぎゅっと目をつぶり、頭を前肢で抱えた。
「たぅ……」
「アルス、大丈夫。叩いたりしないよ。驚かせたね」
アルフォンスは旅行記をクラウスに渡し、ぷるぷると震えるアルスを出来るだけ優しく撫でた。
領主館に来たコボルトの中で、一番心に傷を負っていたのがアルスだった。
アルスは代筆屋に居た個体だった。代筆屋は手紙の代筆もするが、契約魔法が使える公証人がいて、契約等が出来る。読み書きが出来、契約魔法も使え、しかし黒森之國語を話せないアルスは、公証人を雇う賃金を浮かせるには最適だったのだろう。アルスは写本も出来、とても美しい文字を書けた。
恐らく何度も叩かれたのだろう、急に人族の大人の男が近付くと怯えてしまう。
「ぎゃう」
ココシュカもすりすりと頭をアルスに擦り付ける。ココシュカはよくコボルトと一緒に遊んでいるので、どの個体にも懐かれていた。
そろりと顔を上げたアルスにアルフォンスは微笑んだ。
「怒ったのではないよ。アルスはまだ療養中だろう。ご飯をお腹いっぱい食べて、ぐっすり眠らなければならないよ。夜更かしは身体に毒だ」
「たう」
「本には栞を挟んだから、続きは明日にしなさい。床は冷えるから、直に座らないんだよ」
そう言いながら、明日にはアルスが座るところにラグマットを敷いてやろうと決める。一人掛けの肘掛け付きのソファーもあるのだが、アルスが本を持って登るには大きいので使っていないのだろうと気付いたからだ。
今は傷付いたアルスに、自由自適に読書の日々を送らせてやりたい。
ただし、食事と睡眠は取らなければ駄目だ。
「夕御飯は食べたのか? お風呂もまだだろう?」
「たう……」
ぐうーっとアルスのお腹が鳴る。もしかしたら昼食も抜いているのかもしれない。
(これは食事の時に誰かに呼びに行かせないといかんな)
クラウスは床にあった本をティーテーブルに全て集めていた。明日すぐに読めるように、本棚に戻すという無粋な事はしない。
「さあ、夕御飯を食べに行くぞ」
アルフォンスはアルスを抱き上げた。ココシュカもふよふよとクラウスの側に行き、頭を撫でて貰っている。
預かっているコボルト達は、領主館の好きな場所へ通うようになっていた。その場所にいる騎士や使用人がコボルトの面倒を見てくれているが、アルスはアルフォンスの行動範囲内にいるので、アルフォンスが面倒を見る事になる。
大人しくアルフォンスの腕の中におさまっているアルスを連れて、厨房へ向かう。
厨房ではまだ明かりが付いていた。厨房は包丁等を使うため、鉱石照明が多く付いていて、廊下まで明かりが漏れていた。
「オーラフ、まだいたのか」
「御前」
三本足の椅子に腰掛けていた料理長オーラフが立ち上がった。作業台の上には帳面や紙が広げてあり、明日の献立を決めていたようだ。
「どうなさいました?」
「アルスが夕食を食べ忘れたようでな」
「アルスの分位は残っていますから温めますよ」
「頼む」
オーラフは「もう終わったんで」と作業台の上を片付けた。
厨房には最近ノーディカが通っているので、子供用の椅子が置いてあった。アルフォンスはその椅子にアルスを下ろす。そして自分は三本足の椅子に座った。
クラウスはアルフォンスの膝の上にココシュカを下ろし、斜め後ろに立つ。
「ぎゃうー」
ココシュカは前肢と顎を作業台に乗せた。真珠色の蛇もにゅうっと鎌首を上げて、オーラフの動きを追う。遊びに来る度に何かを貰っているらしく、ココシュカはオーラフを気に入っているのだ。
オーラフは保冷庫から小鍋を取りだし、焜炉に乗せて温める傍ら、卵を割りほぐして砂糖と塩、おろしたチーズを入れて混ぜ、浅鍋でオムレツを作った。
深皿にオムレツを入れ、温め直した根菜や肉がゴロゴロ入った焦げ茶色のシチューを上から注ぐ。
「アルス、まずこれを食べてろ。熱いぞ」
「たう」
瞳をきらきらとさせて頷いたアルスは、「たーう!」と鳴いた。これが食前の祈りのようだ。
スプーンを持って黄色いオムレツと焦げ茶色のシチューを掬い、ふうふう息を吹き掛けてから口に入れた。
「たーうー!」
これは「美味しい!」だろう。
「美味いか」
オーラフは笑って、薄く切って軽く焙った黒パンと、ベリーにクリームを掛けた物を運んでくる。
アルスは「たーうー! たーうー!」と言いながら、綺麗に夕食を平らげた。
「うまい」
ココシュカもベリーのクリーム掛けをちゃっかり貰って食べていた。器を綺麗に舐めている。
「水飲むか?」
オーラフは檸檬の薄切りとミントの葉が浮かんだ水の入ったコップを、アルスの前に置く。ちゃんとストローも刺さっている。
「たう!」
嬉しそうにアルスはストローを咥え、ちゅーと水を吸い上げた。
オーラフはアルフォンス達にも水をくれたので、有り難く一口飲む。
「ん?」
そしてその味に違和感を持つ。リグハーヴスの水は山の雪解け水で、しかも上流地域にあるので、國内でも上質の水と知られる。しかしこれは更に美味しかった。そして覚えのある味だ。
「これは〈精霊水〉か?」
「ええ、ノーディカが汲んできてくれたんです」
「どこで?」
わざわざエンデュミオンの温室まで行ったのかと思ったのだ。一応あそこに〈精霊の泉〉がある事は、一部の人間しか知らない。しかし、オーラフの返答はアルフォンスの予想を超えていた。
「ここの温室に〈精霊の泉〉があるそうで」
アルフォンスは仰天した。
「何!? いつからだ?」
「元々はなかったんですか?」
「普通の湧き水だった筈だが……ココシュカは知っているか?」
「ぎゃう?」
器で水を舐めていたココシュカが顔を上げる。口の回りから水がポタポタ落ち、すかさずクラウスが手拭いを取り出して拭った。ココシュカは口の回りをぺろりと舐めてから答えた。
「この間からだぞ」
「この間? アルスは知っているか?」
「うう?」
ストローを咥えたまま首を傾げたアルスは、ストローから口を離した。
「たう」
自分を指差し。
「たう」
ここ、と言うように床を指差した。
「アルス達が来てから?」
「たう!」
こくこくと頷く。正解だったらしい。
「誰がやったか解るか? あ、怒ったりはしないから」
こんな事をやるのは妖精の魔法使いだろう。アルフォンスの知る魔法使い妖精を頭に思い浮かべる。
「たーう」
アルスは指先で両目の端を吊り上げてみせた。
「……ケットシー?」
「たう!」
「……どっちだ?」
一気に候補が減った。ケットシーでこんな事をやるのは二人しかいない。
「アルスと同じくらいの大きさか、それとももっと大きいケットシーか、どちらだ?」
「たーう」
アルスは両腕を大きく広げた。アルフォンスはココシュカの後頭部に額を乗せてしまった。
「ぎゅー」
ココシュカが変な声で鳴く。ぺしぺしと尻尾の蛇に二の腕を叩かれ、アルフォンスは身体を起こした。
「ギルベルトかー」
「エンデュミオンでも止められませんね……」
元王様ケットシーはエンデュミオンでも止められない。
「コボルトの為にやったんでしょうしね」
「せめて一言言ってくれればいいのに」
何故報告を忘れるのか。〈Langue de chat〉にもあるのだから、今更一つ増えても構わないだろうと言う考えのような気がしてならない。
〈精霊の泉〉は稀少なものなので、発見されたら王宮に報告しなければならない。最も個人の敷地内にあるものは、そのまま管理を委託されるのだが。
「さて、お腹いっぱいになったか?」
「たう」
アルスがぽんぽんとお腹を叩いた。満腹になったようだ。
「じゃ、風呂に行くか」
アルフォンスはアルスを抱き上げる。クラウスが片眉を上げる。
「御前が入れるんですか?」
「私かクラウスがまとめていれた方が早いだろう。アルスを入れれば、ココシュカも入るだろうし」
「……確かに」
アルフォンスの入浴に、ココシュカが乱入するのは良くある事である。
「遅くに有難う、オーラフ」
「いえ、お腹を空かせたまま寝かせなくて良かったです」
アルフォンスに礼を言われ、オーラフはアルスの頭を撫でた。
「アルス、お腹が空いたらここに来い。宿舎の食堂まで遠いんだろう?」
「たうー」
アルスは食事を削ってでも本が読みたいのだ。
「朝御飯は忘れないだろうが、昼と夜はノーディカに呼びに行って貰うから、ちゃんと食べに来い。身体を壊したら本も読めなくなっちまうぞ」
「たう!」
物凄くいい返事をしたアルスに、アルフォンスは苦笑してしまった。困ったコボルトである。
こうして安全で本が沢山読めるリグハーヴス公爵家の図書室が気に入ったアルスはそのまま居付き、リグハーヴス公爵家図書室の司書兼写本師になる。
タンタンの持っていた〈鷹獅子の育て方〉に気付いたアルスが、エンデュミオンから山ほどの稀覯本を借り受けて写本し、着実に図書室の蔵書を増やしていく事になるのだが、その事をまだ誰も知らない。
契約魔法が使える写本師、アルス。図書室を見付けて大喜びで入り浸っています。
いまのところ孝宏の本は写本出来ない仕様ですが、それ以外の稀覯本をエンデュミオンから借りては写本する事に。
製本しなきゃならない状況になるまで、アルフォンス達が気付かない気がしてならない……。
男の人が怖いアルスですが、安全だと認識出来れば一緒にいても大丈夫です。
コボルト言語しか話せませんが、結構通じます。