シュトゥルムと釦屋(下)
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
トレントは高級素材です。
268シュトゥルムと釦屋(下)
〈針と紡糸〉の二軒隣にある〈銀の釦〉の主アルバンは、出入りの卸しが持ってきた釦を見て、密かに眉根を寄せた。
以前より質が落ちていたからだ。
アルバンの釦屋は冒険者が多いリグハーヴス公爵領にあるので、高価な釦はそれほど扱わないし売れない。
手頃な値段で普段使い出来て、欠けたり割れたりしたら同じものが手に入る事の方が重要な土地柄だ。冒険者は衣服の消耗が激しいからだ。
それでも街の住人が晴れ着用に、少し奮発して買えるくらいの飾り釦は多種置いてある。アルバン自身もヴァイツェアで修行した細工職人なので、自分でも釦を作る。
飾り釦の二大産地はハイエルンとヴァイツェアだ。アルバンはその両方から仕入れているが、ハイエルンからの飾り釦は、今までと同じ意匠にも関わらず、何処か違和感があった。
結局、アルバンはその日買い付けをしなかった。アルバンも商人であり職人だ。自分の目には自信がある。恐らく、釦工房の職人が変わったのだろう。
(腕の良い職人だったのに残念だ)
溜め息を吐き、アルバンは「少し出てくるよ」と妻のナディヤに声を掛け、〈休憩中〉の札を出して店を出た。
気分転換と美味しいお茶が飲みたいので、〈Langue de chat〉へと足が向く。ルリユールなのでお茶を飲みに行くのはおかしな話なのだが、食堂よりも美味しいのだから仕方ない。その代わり、行く時には貸本を借りるアルバンだった。
ちりりりん。
「いらっしゃいませ、親方アルバン」
今日は店主のイシュカがカウンターに立っていた。
「こんにちは、親方イシュカ。一休みさせてくれるかい」
「どうぞごゆっくり」
本棚を見る前に、アルバンは小物が置かれている硝子張りの戸棚を見て回る。
住人のコボルトやケットシーの作った小物が置かれていたりするのだが、時々とんでもない付与が付いていたりするので面白いのだ。
付与の内容は小物に付いている札にきちんと書いてあったりする。
「おや?」
戸棚の中に、硝子製の小瓶に入った釦らしき物があった。
「これ、釦かい?」
「ええ。今うちで療養しているコボルトが作ったものですよ。釦細工の職人だそうです」
イシュカが戸棚から小瓶を取りだし、アルバンに手渡してくれる。札には銀貨三枚、と言う決して安くはない金額が書かれていた。
釦は大振りの花を模した木製だったが、恐ろしく精巧に出来ていた。十個入って銀貨三枚ならば安いくらいだ。
「これは素晴らしい。倍の値段でも良いんじゃないかい?」
「エンデュミオンが素材がただだからとその値段にしたんですよ」
「これは何の木だい? 見た事がないな……トレント!?」
値札を裏返した部分に書いてあった素材名に、アルバンは目を瞠った。
「これ値段が十倍でもおかしくないぞ!?」
「エンデュミオンの〈時空鞄〉の肥やしになってるらしいですよ。あとはシュトゥルム──それを作ったコボルトが楽しければいいみたいです」
妖精は金儲けに興味がない。
エンデュミオンが持っているトレントを市場に全部出されたら、市場が崩壊するだろう。
「うーん、そのシュトゥルムに、うちの店にも釦を卸してもらいたいものだなあ」
「聞いてみますか?」
「良いのかい?」
「大丈夫だと思いますよ。孝宏」
イシュカはお茶を運んできた孝宏を呼んで用件を伝える。孝宏は「いいよ」と二つ返事で店の奥に戻っていった。
アルバンが閲覧スペースのソファーに座り、お茶を味わっている間に孝宏が黒褐色の毛に白毛が霜降りに混じっている南方コボルトを抱いて戻ってきた。足元にはエンデュミオンもいる。
「お隣座ってもらいますね」と、孝宏がコボルトをソファーに下ろす。
「シュトゥルム!」
しゅっと右前肢を上げるコボルトに、アルバンも名乗る。
「アルバンだ。この近所の釦屋だよ。シュトゥルムの釦を出来る範囲でいいから、卸して貰えないかと思ってね」
「シュトゥルム、釦作るよ」
「素材は木かい?」
「うん」
「代金はね、エンデュミオンと相談して決めてくれるかい。言い値で買うからね」
「代金……?」
何の事か解らないと言う風に、シュトゥルムが群青色の瞳をぱちぱちさせた。
「釦作って、お金貰えるの?」
「コボルトは物々交換だったか」
「いや、シュトゥルムは今まで対価を貰ってないんだ」
物の方がいいのかとアルバンが思ったら、エンデュミオンがとんでもない事を言った。
「は!? あの釦を作ってか!?」
「シュトゥルムはこの間ハイエルンから三頭魔犬が連れてきたんだ」
「ああ……」
救出されたコボルトだったのか、とアルバンは納得した。
「無理のない範囲で釦を作ってくれたら、シュトゥルムが欲しい物をお礼に渡すよ」
「シュトゥルム、素材が欲しい」
シュトゥルムは根っからの職人だった。
エンデュミオンがぽしぽしと頭を掻く。
「……木工ギルドにシュトゥルムの口座を作るから、現金はそっちに入れてくれ。アルバンが手に入れられる素材なら素材で渡してやってくれ」
「解った。トレントは流石に買えないな」
「トレントはなあ、剪定を頼まれて切ったやつだからただでいいんだ。手間賃をシュトゥルムに払ってくれれば」
「一般には手に入らないから高級素材なんだぞ。エンシェントトレントなんて王や貴族への献上品だよ」
「なんだと?」
トレントの爺さんの間伐材が? とエンデュミオンがぶつぶつ言っている。どうやらエンシェントトレントは知り合いらしい。
くいくいとシャツの袖をシュトゥルムに引かれる。
「アルバンも釦を作る?」
「ああ。私はヴァイツェアで修行したからね、木も使うが貝細工もするんだよ」
フィッツェンドルフから白蝶貝や茶蝶貝、黒蝶貝を仕入れて、それで釦や細工物を作るのだ。カメオも作る。
「見たい!」
「店に見に来るかい?」
「うん!」
ぺしぺしとシュトゥルムがアルバンの太股を叩く。その行動をエンデュミオンが通訳する。
「シュトゥルムは今肢を治療中なんだ。まだ上手く歩けないから抱いていってくれ」
「解った。じゃあ一寸シュトゥルムに店を見せてくるよ」
アルバンは〈Langue de chat〉の妖精善人判定を受けているので、安心なのである。
「抱っこするぞ」
「うん」
シュトゥルムをそっと抱き上げる。柔らかい毛の下は随分と痩せていた。下肢も細い。
「店を見せたら戻ってくるから」
「適当なところで切り上げろよ」
エンデュミオンが意味深長な発言をするが、シュトゥルムは職人なので熱中したら時間を忘れるのは解る。アルバンも同類なので。
〈Langue de chat〉から外に出る。
シュトゥルムは明るい世界に一瞬目を細めてから、はしゃいだ声を出した。
「わあ、高い」
アルバンは背が高い方だった。きょろきょろと辺りを見回すシュトゥルムを連れて、〈銀と釦〉に戻った。
ころろん、と木製のドアベルを鳴らしてドアを開ける。
「ただいま」
「お帰りなさい。まあ、コボルト?」
ドアベルの音を聞いて、ナディヤが店に顔を出した。シュトゥルムを見て微笑む。
「釦職人のシュトゥルムだよ」
「シュトゥルム!」
シュトゥルムがナディヤに右前肢を上げる。
「ナディヤよ」
「ナディヤは私の奥さんだよ」
アルバンもナディヤも平原族だ。ウーヴェという息子が一人いるが、今は友達と外に遊びに行っている。
ナディヤは挨拶をすると奥に戻っていった。そろそろウーヴェがおやつを食べに戻ってくる時間だからだろう。
アルバンは休憩中の札をそのままにして、シュトゥルムに店を案内する事にした。他の客の片手間に、職人であるシュトゥルムの相手をするのは失礼だ。
「釦、釦」
腕の中でわくわくしているシュトゥルムに、アルバンは壁にずらりと並んだ引き出しを片手で示す。
「この引き出しは皆が釦入っているんだ。引き手に見本が付いているだろう? 見本と同じ釦が入っているんだよ」
客が手に取れる位置にある引き出しは、価格の低いものになるが、それでも色んな形と素材の物がある。
「わあー。引き出し開けて見ていい?」
「いいよ」
アルバンはシュトゥルムが開けたがった引き出しに近付いてやった。幾つか引き出しを開けるうち、シュトゥルムが奥にある引き出しの一つを指差す。
「あれはシュトゥルムが作ったやつ」
シュトゥルムが指差したのは、ハイエルンの工房で作られた釦だった。品質が最近落ちたとアルバンが思った工房だ。
引き出しを開け、シュトゥルムは薔薇の形の釦を一つ摘まんでひっくり返した。
「この足の所に印付けてあるの」
「あ、本当だ」
糸止めする為の足の部分に、小さく飾り文字で〈S〉と彫られていた。良く見ないと気付かない小ささだ。
どうやらシュトゥルムはアルバンが気に入って仕入れていた釦を作っていた職人だったらしい。
例え工房の職人でも、当人の意思がなければコボルトを引き留めてはおけない。特に非合法だったのなら尚更だ。三頭魔犬は隠されていたコボルト達を残らず見つけ出してきたのだろう。
「アルバンの釦は?」
「私のは……これとかだね」
簡素に見えるが、内部から虹色に輝く白蝶貝の釦を取り出す。きちんと均一に削りだし、磨くのは技術がいる。
「それとこれも」
上層が白、下層がオレンジといった殻の厚い貝を使ったカメオの釦だ。女性用の釦で、ユリの花を浮き彫りにしてある。
「綺麗。これ素材は?」
「これはどちらも貝だよ。種類は違うけど、フィッツェンドルフで採れるんだ」
「シュトゥルムは、貝は彫った事ないなあ」
くるくるとカメオ釦を両前肢の指で回しながら、シュトゥルムが残念そうに言う。
「木であれだけ彫れるのなら、貝でも彫れるようになるよ」
「本当? 教えてくれる?」
「私で良ければ。私もシュトゥルムの技術を学びたいね」
「そ?」
アルバンの腕の中で、シュトゥルムの尻尾が揺れる。
「ただいまー!」
元気のよい声と同時にドアが勢い良く開き、ドアベルが激しく鳴った。シュトゥルムがびくっとする。
「こらウーヴェ! ドアは静かに開けなさい」
店に入って来た栗色の巻き毛の少年に、アルバンの叱責が飛ぶ。
「はーい」
いつも言われているのか、ちろりと舌を出したウーヴェは、アルバンが抱いているシュトゥルムを見て、ぱかりと口を開けた。
「コボルトだ!」
「シュトゥルム!」
シュトゥルムが挨拶に右前肢を上げる。
「へ?」
「ウーヴェ、初対面の時に名前を教え合うのが妖精の挨拶なんだよ」
「あ、そうなの? ええと、ウーヴェだよ」
アルバンに教えられ、ウーヴェはぎこちなくシュトゥルムに右手を上げて名乗る。
「シュトゥルム、かなり古い釦もあるんだけど見るかい? 魔石を嵌め込んであるやつや、モザイク細工のがあるんだよ。私の師匠の収集品から譲って貰った物でね」
「見る!」
「奥にあるから持ってくるよ。ウーヴェ、シュトゥルムと一緒にいておくれ」
「うん」
アルバンはシュトゥルムを応接用のソファーに座らせ、作業場の保管庫に置いてある釦を取りに行った。
シュトゥルムの隣にウーヴェがいそいそと腰を下ろす。隣からの興味深げな視線に、少しばかりウーヴェは緊張してしまった。
「これ、どうしたの?」
シュトゥルムは、ウーヴェの子供らしくまだ柔らかい手に付いた切り傷を見咎め指差していた。
「草試合に使う草を抜いた時に切れちゃった」
草試合とは植物の茎を交差させて引っ張り、切れた方が負けになるという遊びだ。植物の葉は意外と鋭く、子供の薄い皮膚は良く切れる。
「怪我したら良く洗わないといけない。水の精霊」
シュトゥルムは水の精霊に頼んでウーヴェの手を洗った。
「木の精霊」
細長い爪の生えた指のある前肢に、薄く緑色の光を纏わせ、ウーヴェの切り傷の上を撫でるように翳す。何度か切り傷の上を撫でる内に、傷痕も残さずに治してしまった。
「凄い。有難う」
「シュトゥルムの〈治癒〉は弱いから、小さな傷しか治せないけど。治って良かった」
ゆらゆらとシュトゥルムが尻尾を振る。それからシュトゥルムはズボンのポケットから取り出したものを、ウーヴェの掌に乗せた。
「あげる。エンデュミオンに貰った木で作った習作だけど」
ウーヴェの掌には、精密に出来た木製の昆虫の形をした釦が乗っていた。釦として実用的な形にまとめてあるが、触角などもちゃんとある。
「これ、黄金虫かな? シュトゥルム、細工師なんだね」
「そう。黄金虫はお財布に付けておくと、お金貯まるって言われる」
「おお、凄い! これ何の木? 良い色だね」
黄金虫は深い焦げ茶色をしていた。
「エンシェントトレント」
「こんな色なんだ。格好いいね」
「ウーヴェも細工師?」
「うん。細工師になる為に、もうすぐ修行始めるよ」
ウーヴェは次の誕生日で十二歳になる。アルバンに師事するので、成人を待たずに徒弟となるのだ。
「木工ならシュトゥルムも教えられるよ」
「本当!?」
「シュトゥルムは職人だから」
職人が独立すると親方と呼ばれるのであり、職人も徒弟に技術を教える事が出来る。
「シュトゥルム、僕より歳上?」
「うん。アルバンより歳上。んー、あぁあ」
耳を掻こうとしたシュトゥルムが、ころりんとウーヴェの膝に転がる。
「わあ、大丈夫?」
慌ててウーヴェは、シュトゥルムがソファーから落ちないように支えた。
「大丈夫大丈夫。肢の古い怪我を治して貰ったんだけど、まだ力が入らない」
ひょろりとした下肢をじたじたと動かしているものの、起き上がれないらしい。ウーヴェは軽いシュトゥルムの身体を抱き起こし、自分の脇腹に凭れさせた。
「助かった。ついでに耳の後ろ掻いて」
「この辺?」
ぴんと立った三角耳の付け根を指先で掻いてやる。シュトゥルムは気持ち良さそうに群青色の目を細めた。
「その辺その辺。ふへへ」
ぱたぱたとシュトゥルムの巻き尻尾が勢い良く揺れる。
「お待たせ。おや、仲良くなったのかい」
鍵付きの小物入れを持ってきたアルバンが、笑ってテーブルを挟んだ向かいのソファーに腰を下ろした。
小物入れの鍵を開け、シュトゥルムとウーヴェに向けて蓋を開ける。
「わあー」
「お父さん、僕これ初めて見る!」
「修行を始める時に見せてやろうと思ってたんだよ」
小箱の中は区切られていて、升目の一つ一つに釦が収まっていた。
魔石が幾つも嵌め込まれているもの、陶器で出来たもの、硝子やタイルでモザイク画が作られたものなど、手の込んだ珍しい釦がずらりと並んでいて、シュトゥルムとウーヴェは身を乗り出した。
「昔は今より凝った釦を作っていたんだそうだよ。今も作っている職人がいるけど、殆どが森林族だね。採掘族の釦職人は木工か金属が多いのかな」
「うん、そう」
シュトゥルムが頷く。
「リグハーヴスは冒険者の街だから、普段使いは飾り気のないものが好まれるんだ。その分、蝶貝や木の種類など材質に拘る人もいる」
「ほうほう」
「冒険者のパーティーで、釦を特注して服に付けて、身元確認に使う事もあるよ」
故人を識別出来る釦は、遺品にもなるのだ。
小物入れは二段になっていて、下の段にも地下迷宮から取れる魔物素材で作った釦が並んでいた。
「あ、これエンシェントトレント?」
毬のような菊の意匠の釦をウーヴェが指差す。深い焦げ茶色の木で出来ていた。
「良く解ったね。エンシェントトレントは、とても珍しいんだよ」
「さっきシュトゥルムに貰ったよ?」
ウーヴェはエンシェントトレントの黄金虫の釦を掌に乗せて、アルバンに見せた。
「こ、これは?」
「エンデュミオンがトレントの素材くれたから、習作」
「エンシェントトレントで習作……」
「なんかね、トレントに剪定頼まれて枝貰ったんだって」
「ああ、さっき私も聞いたけど、〈黒き森〉に長く居たんだものね……」
ケットシーは〈黒き森〉の中の素材を収穫して暮らしている。この中にトレントが含まれたとしても──多分、おかしくない。ただしそれを〈時空鞄〉肥やしになる程集めているかはまた別だろう。
「……ケットシーって、希少素材持っているものなのかい……?」
「うー、コボルトもだけど、趣味による。エンデュミオンとかギルベルトが何でも持ってるのが珍しい。ラルスも薬草関係溜め込んでると思う」
どうやらあの養い親あっての養い子のようだ。
「ウーヴェ、大切にしなさい」
「うん。お母さんに財布に付けて貰うんだー」
大事そうにシャツの胸ポケットに黄金虫の釦をしまうウーヴェを見て、シュトゥルムが笑顔になる。
「ウーヴェ、おやつよ。シュトゥルムも」
「はーい。シュトゥルム、行こ」
ウーヴェはシュトゥルムを抱え、店の奥にあるドアから住居区域に入り、まずはバスルームに行った。食事前に手を洗わないと、ナディヤに怒られるのだ。
まず抱いているシュトゥルムの前肢を洗わせてから手拭いを渡し、三本足の椅子に座らせる。それからウーヴェは自分の手を洗った。
「はい、手拭い」
「有難う」
手拭いをウーヴェから受け取り、手を拭いてから洗濯用の盥に入れる。
「おやつだー」
「おやつだー」
再びシュトゥルムを抱いて台所に行く。
「シュトゥルムはここね。取っておいて良かったわ」
台所のテーブルの側には、ウーヴェが小さい頃に使っていた座面の高い椅子が置かれていた。いつもウーヴェが座る椅子の隣だ。確か、この子供用の椅子は、今では夫婦の寝室の一角に置かれて、オースタンの卵やフェーヴ等の小物が飾られていた筈だ。
シュトゥルムを椅子に座らせ、ウーヴェも隣の椅子に座る。
今日のおやつは、ナディヤお得意のオレンジ風味のシートケーキだった。オレンジの果汁と甘く煮たオレンジの皮を刻んで混ぜ込んだケーキは、ウーヴェの好物だった。
「シュトゥルムはミルクどのくらいかしら?」
「いっぱい」
「少し温めの方がいいのね」
「うん」
シュトゥルムとウーヴェの好みでミルクティーを作り、ナディヤがケーキ皿の横に置いてくれる。
「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」
「今日の恵みに」
食前の祈りを唱え、フォークを手に取る。ケーキをフォークで一口分切り取り、シュトゥルムは口に入れた。
「オレンジ!」
口の中にオレンジの風味がじゅわっと広がり、シュトゥルムは叫んでしまった。
「焼き上がった後に、果汁と砂糖を混ぜた物を塗って染み込ませてあるのよ」
表面に溶けきらなかった砂糖がうっすらと残っている。
「贅沢」
甘いものは今まで殆ど食べられなかったシュトゥルムだ。ケーキが甘いのでミルクティーには蜂蜜を入れずに舐める。
二人がおやつを食べ始めてから、工房に希少釦をしまって来たアルバンが台所に入ってきた。
「シュトゥルム、おやつを食べたら送っていこう」
「うん」
その会話に、ナディヤとウーヴェが敏感に反応する。
「あら、帰っちゃうの?」
「一緒に住むんじゃないの?」
シュトゥルムとアルバンは顔を見合わせた。
「いや、店を見せてくるって言って連れてきたから……」
「わう。シュトゥルム、まだ治療中だから、ヴァルブルガに聞かないと温室出ていいか解んない」
治療を蔑ろにする患者には、魔女はとても怒るのだ。それはヴァルブルガも変わらない。
「それにアルバン、シュトゥルムが来ても良いの?」
「うちに来てくれるんなら歓迎するよ。釦作りも一緒に出来るだろう? お互いに学べそうだしね」
「……一緒にエンデュミオンとヴァルブルガに聞いてくれる?」
「勿論」
おやつを食べ終わってから、アルバンはシュトゥルムとウーヴェを連れて、〈Langue de chat〉に戻った。
カウンターにいたエンデュミオンに「シュトゥルムの事で話があるんだが」と言うと、「ふうん?」と黄緑色の瞳をキラリと光らせた。
「まあ、座れ。ヴァルブルガを呼ぼう」
他に客がいない閲覧スペースを前肢で示し、エンデュミオンは奥に向かって「ヴァルブルガー!」と声を掛けた。
ととと、と軽い足音を立てて奥からヴァルブルガがやってくる。アルバンがシュトゥルムを抱いているのを見て「ふふ」と笑った。
エンデュミオンとヴァルブルガがアルバン達の向かい側の椅子によじ登るのを待ち、アルバンは口火を切った。
「シュトゥルムと一緒に暮らせないかと思うんだが」
「ふうん? エンデュミオンはシュトゥルムが良いのなら構わないぞ。ただし、シュトゥルムはまだ療養中だからな」
エンデュミオンはちらりと横目でヴァルブルガを見る。ヴァルブルガはこっくりと頷いた。
「シュトゥルムはまだ治療が必要。だから暫く毎日治療に連れてきて貰う必要があるの。それにお風呂やトイレはお手伝いしてもらわないといけない。それでも構わない?」
「シュトゥルムの身体が良くなる為なら構わないよ。近所だしね」
「シュトゥルムは軽いから僕でもお手伝い出来るよ」
ヴァルブルガはじっとウーヴェを見詰めた。
「ウーヴェはアルバンよりも長くシュトゥルムと一緒に暮らす事になるけど、シュトゥルムを不幸にしないでほしいの」
「うん。一緒に幸せならいいよね」
「不幸にしたら呪うの」
ふふっと笑うヴァルブルガに、一瞬エンデュミオンの耳がぺたりと伏せた。軽く咳払いして、耳を立て直す。
「……妖精は幸せに過ごしている方が、回りも幸せになるんだ。それを忘れないでくれ」
「うん!」
ウーヴェの返事に、ヴァルブルガが緑色の目を細める。
「良いお返事。シュトゥルムの服は〈針と紡糸〉で用意して貰えるの。着替え分、頼んであるから」
「受け取りに行けばいいんだね。幾らになるかな?」
「手間賃だけでいいぞ。布はヨナタンのコボルト織だからな」
エンデュミオンが〈時空鞄〉から出した受取証を、アルバンの前に置く。
「いや、それ高いだろう」
「コボルトから妖精への贈り物扱いになるから良いらしい。シュトゥルムの縞の布は、これから織るらしいが。その時には物々交換でいいから、ヨナタンが欲しい釦と交換してやってくれ」
コボルトは家系ごとに縞柄が違う。見本になる布があれば、ヨナタンはきちんと再現して織れるのだ。
「釦で良いのかい?」
「ああ、本来コボルトは物々交換だからな」
お互いに納得出来る交換が成立すれば良いのである。
「温室にいる三頭魔犬に挨拶してから行くと良い」
エンデュミオンに温室に連れていかれたアルバン達は、少し残念がる三頭魔犬に頬擦りされてから送り出された。恐らくシュトゥルムが毎日温室に来ると伝えたので、激しく残念がらなかったのだろう。当然、三頭魔犬も善人判定が出来る。
こうして、シュトゥルムは〈銀の釦〉のシュトゥルムとなった。
のちに〈銀の釦〉では、各種トレント素材で作られた、付与付きのお守り釦が店頭に並び始め、冒険者達に人気となる。
【黄金虫の釦】(所有者・ウーヴェ)
製作者・シュトゥルム
素材・エンシェントトレント
黄金虫の形を模した釦。物理・魔法攻撃を反射・軽減。金銭運微上昇。帰巣本能で所有者の元に戻りやすい。希少。
解放されたコボルト達は、好きな物を作り始めるので、結構付与がおかしなものが出てきます。
普通の店頭で出せなさそうなものは、〈Langue de chat〉の戸棚に置かれ、気付いた人が買っていきます。
シュトゥルムがウーヴェにあげた黄金虫の釦はかなりの壊れ付与です。リフレクター付きなので。
冒険者ではなく、細工師が持つにはかなりの過剰付与だったりします。