フィッツェンドルフの水竜
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水竜の勧誘に行きます。
253フィッツェンドルフの水竜
黒森之國の要所要所には、それなりに力を持ったモノが常駐している。
現在〈柱〉であるエンデュミオンがリグハーヴス公爵領に常駐している上、フィッツェンドルフの要である水竜が不在の為、ほんの少し要の均衡がずれている。
力のあるモノは守護している土地を災害などから守る役目がある。だから力あるモノが不在の土地は、災害に弱い。
黒森之國において、力あるモノは竜である事が多い。北にある〈黒き森〉の管轄はケットシーとコボルトに任されているが、南の地は竜が要所に巣を作り常駐している事が多い。
常駐している力あるモノはタダで守護してくれたりはしない。最低限でも感謝の意を伝えたり、好みの酒や食べ物を時々貢ぐものである。
エンデュミオンやグリューネヴァルトの場合は、孝宏に美味しい物を食べさせて貰い、可愛がって貰っているのでそれでいいだけだ。
フィッツェンドルフの水竜キルシュネライトは、数代前からきちんと祭って貰えなくなったので、拗ねて港を封鎖し、リグハーヴス公爵を通してエンデュミオンが呼ばれる羽目になったのだ。キルシュネライトがフィッツェンドルフに居るのも嫌がったので、丁度空きがあったエンデュミオンの温室の精霊の泉に落ち着いた。
こうしてフィッツェンドルフの港が空白地帯になったのだが、通常なら空白になった要には、我こそはと言うそれなりに力のあるモノがやってくるものなのだ。エンデュミオンもそれを期待したのだが、フィッツェンドルフの悪評が水竜にも伝わっていたのか、現在に至るまで訪れはないらしい。
「はい、エンディお弁当」
「有難う、孝宏」
バスケットと水筒を受け取り、エンデュミオンは〈時空鞄〉にしまった。
「こっちは持って行くお菓子ね」
「うん」
ゼクスナーゲルが竹を細く割った物で編んだ蓋つきの箱に入れた焼き菓子の詰め合わせは、ヨナタンのコボルト織で作られた風呂敷で包まれている。孝宏曰く『お使い物』仕様らしい。
「では行って来る」
「気を付けてね」
孝宏に見送られ、エンデュミオンはフィッツェンドルフへ〈転移〉した。あらかじめ今日行くと連絡はしていたので、領主館の玄関前へ直接跳ぶ。
淫魔のライヒテントリットが居た頃に比べると、すっきりした印象だ。庭の手入れもこざっぱりとされているし、窓硝子はピカピカに磨かれ空気を入れ替えているのか幾つも大きく開け放たれている。街にも以前より活気が戻っている気がする。
エンデュミオンは木の精霊に頼んで蔦を伸ばし、ドアノッカーを叩いた。
「……いらっしゃいませ」
出て来た白っぽい金髪の執事は視線を自分の顔の高さから足元まで移動した後、エンデュミオンに挨拶した。こればかりは仕方がない。ケットシーは小さいのだ。
「エンデュミオンだ。レベッカ・フィッツェンドルフ公爵と側近のエルヴィンに会いたい」
「こちらにどうぞ、ご案内致します」
レベッカに領主が変わった後に採用された筈なので、若い執事だ。多分エルヴィンと同じ位の歳だろう。とことこと後ろをついてくるエンデュミオンをちらりと振り返り、口元を緩ませたのが見えた。
執務室らしき部屋のドアを執事が叩く。
「フラウ・レベッカ、エンデュミオンがいらっしゃいました」
「はい、どうぞ」
若い女性の声で返事があり、執事がドアを開けてくれたので、エンデュミオンは部屋の中に入った。
「こんにちは。おっと、凄いな」
「エンデュミオン!」
紙の山の間から、赤毛のレベッカと黒毛の人狼エルヴィンが立ち上がった。まだまだ前フィッツェンドルフ公爵の後始末が残っているらしく、執務室は書類の山だった。
「散らかっていてすみません。ひとまず、ソファーの上にどうぞ」
ソファーの上は綺麗だったので、エルヴィンがエンデュミオンを抱き上げて移動させてくれた。ソファーの前にあるテーブルの上に積まれていた書類も、窓際の書棚に乗せて行く。
「ん? これはフィッツェンドルフの地図か」
テーブルの上に広げた地図が乗っていた。地図を検討しつつその上に資料を乗せていったのだろう。地図は機密なので、精密な地図程、公にはされない。きちんとした地図を持つのは王宮と領主くらいで、冒険者などは部分部分の地図や、自分達で作った地図を持ち歩く。
正確に地図を書ける〈地図製作者〉という能力がある者は珍しく、アルフォンス・リグハーヴス公爵がイグナーツを手元に残した理由でもある。
ちなみに騎士も簡易的な地図の書き方は学院で教わる。伝令などで必要になる場合があるからだ。
「ええ。フィッツェンドルフの河川や湖沼のある場所を記した地図です」
「ふうん」
エンデュミオンは丸い前肢の先で地図をあちこち確かめるように触れた。
「昔と少し変わっているか。村が増えているものな。湿地の位置はそのままか」
「はい、長らく変わっていないと思います。埋め立てられるものでもありませんし、水の精霊が多い場所ですから」
フィッツェンドルフの北には森の中に広大な湿地帯があるのだ。底なしだと伝えられているので、埋め立てて入植する事もなく、そのままになっている。
「手を出さなくて良かったな。あそこに水竜の巣があるんだ。」
「そうなんですか!?」
「霧が多いから、人を寄せ付けないだろう? だからあそこに行ってみるのが手っ取り早いかなあ」
前屈みになっていた身体を起こし、エンデュミオンは〈時空鞄〉から風呂敷包みを取り出して、レベッカに差し出した。
「エンデュミオンがキルシュネライトを連れて行ったからな、お詫びと言ってはなんだが、孝宏の菓子だ」
「え!? 有難うございます。でも、良いんですか?」
「うん。菓子を食べ終わったら箱は小物入れになるし、風呂敷も使えるだろう」
「これって、コボルト織ですよね……」
「うちのヨナタンが織ったんだ。フィッツェンドルフ風にしてもらった」
赤い布に青い竜の細かい模様が織り込まれている。購入しようとすればかなりの枚数の銀貨が吹き飛ぶ。コボルトが好意で譲渡する場合は当然無料なのだが、コボルト織の価値は変わらない。つまり中身の菓子や箱、包んである布も含めてお詫びの品なのである。
「霧で湿気るかもしれないから、外套を着て行った方が良いぞ」
「これから行くんですか? 馬は用意させますか?」
エルヴィンにエンデュミオンは頭を振った。
「〈転移〉で行けるぞ」
「では外套を持って来ます」
エルヴィンが部屋を出て行く。レベッカがエンデュミオンに丁寧な言葉遣いで話すからか、エルヴィンも同じような言葉遣いだ。エンデュミオンとしては、普通の話し方で一向に構わなかったりするのだが。
二人分の外套を持ってエルヴィンが戻って来た。ついでに執事には出掛けると伝えて来たらしい。
「執事は若いのだな」
「ロンベルクですか? 彼も元騎士で同僚だったんです。胸の病で文官に転向したんですが、フィッツェンドルフの方が空気が良いので声を掛けたんです」
どうりで執事にしては堅苦しくない雰囲気だった。エンデュミオンを見て笑ったのも、厭な笑い方では無かった。ケットシーに会えて嬉しかったのだろう。
「ほう。後で診てやろう。ところで医師や魔女は戻って来たのか?」
「ええ、少しは。領主が変わったのならと、戻って来てくれました」
「それは良かった」
エンデュミオンは話しながら、フード付きのマントを〈時空鞄〉から取り出して身に着けた。ケットシーでも止めやすいように、襟元のボタンは大きい。
レベッカとエルヴィンも外套を身に着けたのを確かめて、「では行くぞ」と転移陣を展開した。記憶にある湿地の手前に〈転移〉する。
「魔力が濃い?」
靴底が地面についた途端、エルヴィンが眉を寄せた。人狼の方が平原族よりも魔力に対して敏感だ。
「そうだな、この奥に水竜の巣があるから。地面が固い場所を選んで行くが、踏み外した時の為に〈浮水の護符〉を持っていてくれ。ポケットに入れて置くと良い」
「有難うございます」
エンデュミオンが差し出した〈浮水の護符〉をレベッカとエルヴィンが外套のポケットに入れる。エンデュミオンなら水に落ちても浮くかもしれないが、この二人は沈んでしまう。とは言え、エンデュミオンも水に落ちたくないので、しっかりと〈浮水の護符〉を身に着けていた。
「光の精霊」
近くに居た光の精霊を呼んで、エンデュミオンの頭の上に居て貰う。
「ここから霧が深くなる筈だから、目印にしてくれ。少し行くと固い地面の広場があったと思う」
湿地に落ちると危険だと、開拓もされずにいたのならそのままになっているだろう。
エンデュミオンは二人の前に立ち歩き出した。湿地の入口には柵と木戸があったが、それはエルヴィンに開けて貰う。
柵を抜けて直ぐに辺りに霧が出始めた。季節に関係のない霧は、自然現象ではなく、ここに住まうものの仕業であろう。
「あの、二人とも前見えてます?」
「見えてるぞ。エルヴィンの方がレベッカより見えている筈だから、手を繋いでやれ」
「レベッカ、手を」
平原族で高い魔力を持たないレベッカには、霧の先が良く見えないようだ。エルヴィンと手を繋いで貰い、先に進む。
この湿地帯も〈黒き森〉と同様に、迷いの罠がある。うっかり踏まないように気を付けて、エンデュミオンは固い地面を縫って一番近い広場に入った。〈Langue de chat〉の居間くらいの広さだ。足元は乾いていたが、苔むした岩が一つと柳の木が一本生えている。
「ここは少し霧が薄いんですね」
「休憩地点だからかな。地下迷宮で言うオアシスみたいなものだ」
「もっと奥に行くんですか?」
「いや、ここまでだ。回りが見えないのに巣の中まで行くのは得策ではない」
風の精霊に頼んで霧を吹き飛ばす事も出来るが、水竜に喧嘩を売る事になる。
「よいしょ」
エンデュミオンは〈時空鞄〉から敷物を取り出し、エルヴィンに差し出した。
「エルヴィン、これを地面に敷いてくれ。休憩しよう」
「はい」
エルヴィンに敷いて貰った敷物の上に座り、エンデュミオンは弁当を取り出す。
「小腹が空いたろう。それに少し寒いしな」
孝宏の弁当は卵サンドとスモークサーモンサンド、ミートパイとアップルパイだった。人狼も居るので量が多い。それと熱い紅茶だ。湿地帯は底冷えするので温かい飲み物は欠かせない、と大魔法使い時代にエンデュミオンは知っていた。
「指先が冷えていたので生き返ります」
レベッカが紅茶の入ったカップを持って微笑む。
「これ、美味しいですね」
ミートパイを食べて、エルヴィンの尻尾がパタパタと敷物を叩く。エンデュミオンもアップルパイを一口齧ってから、首を傾げた。
「しかし、ここはフィッツェンドルフの領地だろうに、よく今まで領主は探索しなかったものだな。エンデュミオンが大魔法使いだった時代は、時々魔法使いが素材を取りに来たものだが」
「そうなんですか?」
ここは地下迷宮に行かなくても、水系の素材が手に入れられる穴場だったりする。時代が流れ、その情報も魔法使いに伝わっていないのかもしれない。これだけ霧が深いと、素人では水先案内人をつけなければ採取も出来ないだろう。
「ここに棲む水竜と取引出来れば、素材を手に入れられるだろうがな」
「それよりもまず港の守護竜ですよ……」
「うん」
頷いてアップルパイを齧ろうとしたエンデュミオンは、既に半分近くなくなっていた事に目を丸くした。自分で食べていない上、レベッカとエルヴィンは正面に居る。
「木の精霊」
しゅるりと蔦を伸ばした霧の中に手ごたえがあった。
─やーん。
白い霧の中から引っ張り出されてきたのは、青い鱗の幼体化した水竜だった。
「やーんじゃない。欲しいのなら言え」
─頂戴。
蔦にぐるぐるに巻かれた状態で、水竜がかぱりと口を開けた。
「ほら」
エンデュミオンは前肢に残っていたアップルパイを食べさせてやった。
─これ美味しいね。
「孝宏が作ったからな。エンデュミオンの主だ」
孝宏が作る物は、妖精や精霊がなぜかとても喜ぶ。
─もっと食べたい。
「沢山あるから構わないが、ここに棲む水竜に話がある。他にも居るのか?」
─なあに? 用事?
はむはむと目の前に出されたスモークサーモンサンドを食べながら、水竜が上目遣いでエンデュミオンを見る。思念なので、食べながら話せるのだ。
「フィッツェンドルフの港が今空白状態でな、代わりの者が誰か居ないかと思って来たんだ」
─キルシュネライトは?
「今はリグハーヴスの精霊の泉に移った」
─そうなの?
くりくりとした眼を持つこの水竜は結構若い個体だった。初対面のエンデュミオンから食べ物を貰う位には警戒心が無い。
─ここには水竜がいるけど、皆守ってるの。
「守ってる? ここに守るようなものがあったか?」
─昔にね、来たんだって。守らなきゃ駄目だねって、皆で決めて守ってるの。
「昔に来た……?」
自分で移動して来た何か……と考え、エンデュミオンはアレか! と思い至った。竜達が守ろうとするならば、人族に悪用されない為だろう。
(マンドラゴラの親株はここに居るのか)
ここからなら子株がリグハーヴスにやって来てもおかしくない。距離はそれなりにあるが、急ぐ旅でもないのだから。
「レベッカ、エルヴィン、ここは保護地域にした方が良い」
「水竜の他に、何が居るか解ったんですか?」
エンデュミオンはそっと二人に囁いた。
「マンドラゴラの親株だ」
「マ……!?」
「お、親株って」
顔色が変わったレベッカとエルヴィンに、エンデュミオンは説話集の一節を暗唱して思い出させる。
「恐らく説話集のアレだ。親株だから叫ばれると死ぬぞ。だから水竜達が世話をしているんだ」
「ええと、領主として代表の水竜と話し合いが必要ですよね……?」
青い顔をしてレベッカが建設的な提案をする。
「……手紙を書いて、この子に届けて貰おう。いいか?」
蔦を解いて頼むと、水竜はぱたぱたと翼を動かした。それから期待混じりの眼差しをエンデュミオンに向ける。
─もう一個食べてからでいい?
「卵サンドやるから」
結局、レベッカが手紙を書く間に、卵サンドとミートパイを平らげた水竜は「待っててねー」と霧の奥へ飛んで行った。
エンデュミオンも一筆付け加えた手紙には、フィッツェンドルフ公爵家は湿地帯を保護地域に指定する事。水竜が守るマンドラゴラについては不問とし、保護を委託する事。水棲素材の取引をしたい事。港の守護竜を派遣してほしい事。を要望として書き連ねた。
「大丈夫でしょうか」
「ここの長竜次第だがなあ」
エンデュミオンはスモークサーモンサンドを齧った。水竜に食べさせて自分で食べていなかったからだ。
基本的に卵を奪おうとしたり、襲い掛かったりしない限り竜は理性的だ。普段人里から離れた所に巣を作るのは、人族に狩られた歴史があるからだが、現在、黒森之國で竜を狩る事は禁じられている。話し合えると解ったからだ。
サンドウィッチやパイを食べ終え、エンデュミオンがおやつにクッキーを取り出した頃に、水竜は戻ってきた。
─ただいまー。あ、それも美味しいの?
新しい食べ物に、水竜が目を輝かせる。
「お帰り。これは菓子でクッキーと言うものだ」
─あーん。
口を開けて待っている水竜にエンデュミオンはクッキーを入れてやる。本当に子供だ。
─はい。
水竜は折り畳まれた紙を、レベッカに渡す。
「有難うございます」
恐る恐るレベッカが開いた紙は、竜が漉いたものか、端が不揃いにガタガタしていた。そこに流麗な文字が並んでいた。
水竜の長からの返事は、湿地帯とマンドラゴラの保護は有難い事。水棲素材の取引は、欲しい素材を連絡してくれれば、湿地帯の端まで届ける事。港の守護竜にはシャルンホルストを派遣する事と書いてあった。
「シャルンホルスト?」
─はい!
エンデュミオンの隣でクッキーを咥えた水竜が右前肢を上げる。
「良いんですか?」
─うん。美味しいの食べられる?
「努力します」
レベッカがシャルンホルストの前肢を握る。
「……なんだか不安だから、一度リグハーヴスに連れて行って、キルシュネライトに指導して貰った方が良い気がするな……」
「お願い出来ますか」
エンデュミオンの呟きに、エルヴィンがぺたりと狼耳を伏せる。
「明らかに幼いから、シャルンホルストと同居になる事も考えておいてくれ」
「それは構いませんが、港に居なくても大丈夫なんですか?」
「フィッツェンドルフの水域を守護する意思が、シャルンホルストにあれば平気だ」
「成程」
あとはシャルンホルストが満足する料理を与えられるかである。領主館には料理人が居るから問題ないだろうが、シャルンホルストは孝宏の料理を食べている。時々孝宏の菓子をねだられる事になるかもしれないな、とエンデュミオンはそっと溜め息を吐いた。
ツヴァイクの光竜位の年齢の水竜シャルンホルスト。若いです。
常駐するのは領主館になりそうな予感。