グラッツェルのお引越し(中)
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
借りてた部屋のお片付け。
227グラッツェルのお引越し(中)
グラッツェルは王都の魔法使いギルドから出ると、リグハーヴスとは比べ物にならないくらい雪の少ない石畳みを歩き出した。
真っ直ぐに錬金術師ギルドに向かおうとしたが、途中で足を止める。
(面倒な事になるかな?)
下級錬金術師のグラッツェルが王都のギルドを抜けたとしても問題にはならない。しかし今まで錬金術師不在のリグハーヴスに異動するというのは、何かあったのかと思われそうだ。
錬金術師でありながら、グラッツェルは余り錬金術師ギルドに親しい者はいない。
これで根掘り葉掘り聞かれ、リグハーヴスが穴場だと気付かれても、エンデュミオン達は現在のところグラッツェルとしか取り引きしないのだ。妖精は人の理には拘らないから、こればかりはグラッツェルにもどうしようもない。
もし不公平だと言うのなら、現時点で中級や上級の素材をギルドで手に入れられないグラッツェルにだって、そう言う権利はある。
(代行作業が出来るのなら、ギルドタグの書き換えもリグハーヴスの魔法使いギルドで出来るよな)
戻ってから魔法使いヨルンに頼んだ方が無難かもしれない。
グラッツェルは下町に借りている自分の部屋に向かった。錬金術師もピンキリなので、高級取りもいればそうでない者もいる。グラッツェルは下級錬金術師なので、後者の方だ。生活には困らない程度の稼ぎはあるが、裕福ではない。
王都は白い石造りの外壁が多い。街の景観を統一する為、規制があるからだ。他の領も屋根の色を統一する決まりがある。
グラッツェルの借りている部屋がある建物も白灰色の石造りだ。
(何だか凄く久し振りな感じ)
三階建ての建物を見上げてから、グラッツェルは建物の脇の階段を下に向かって下りた。グラッツェルの部屋は半地下なのだ。
風雨で荒れて黒ずんでいるドアの鍵を開け部屋に入ると、外と余り変わらないひんやりとした室温だった。冬はとても寒いのだ。そう、雪が沢山降るリグハーヴスの家より寒い。
おんぼろで骨董品のような鉱石暖房を点けるが、これは殆ど効果がない。鉱石の魔力が切れかかっているのだろう。
グラッツェルの部屋の中はとても物が少ない。徒弟から独立した者は大抵そうだが。
この部屋は元々物置だったから、家具の殆どは過去の下宿人が置いていった物ばかりなのだ。台所もなく、辛うじてカーテンで仕切られたバスタブがある。
横に細長い窓からの光では薄暗く、鉱石ランプを点す。
グラッツェルの持ち物は、衣装箱二つに収まる。一つは衣類など。もう一つは錬金術の道具だ。ガラスの道具を割れないように服で包んで箱に入れる。毛布やシーツも生活魔法で洗って、割れ物の間に埋めた。
「これで全部だよな。えーと、これで喚べば良いんだっけ? ゼクスナーゲル!」
グラッツェルは半信半疑で自分のケットシーを喚んだ。
ポンッとワインのコルクを抜いたような音と共に、ゼクスナーゲルが現れた。
「はいっ」
ゼクスナーゲルはちゃんと服を着ていた。白いシャツに植物の刺繍がある青いベスト、濃い灰色のズボンで、良く似合っている。靴は流石に履いていなかった。リグハーヴスに行ったら誂えなければ。
「さむい」
外套を着ていないので寒そうだ。グラッツェルはゼクスナーゲルに首巻きを巻いてやった。
「ゼクス、荷物はこれなんだけど」
「おいてくる」
衣装箱二つに抱き着いたゼクスナーゲルの周辺に銀色の魔法陣が現れ、荷物ごと姿が消える。そして直ぐにゼクスナーゲルだけ戻ってきた。
「おいてきたよぅ」
「有難う。大家さんに挨拶してくるけどゼクスは」
「いく」
皆まで言う前に即答された。
グラッツェルは全く暖かくならなかった鉱石暖房を止め、もう一度忘れ物がないか確かめた。鉱石ランプの明かりを消し、ゼクスナーゲルの〈時空鞄〉にしまって貰う。
それからゼクスナーゲルをお腹に抱き付かせ、外套の釦を留めた。
「苦しくない?」
「だいじょぶ」
お腹の辺りからゼクスナーゲルの返事があった。グラッツェルのお腹に額を擦り付けている感触がある。暖かくてくすぐったい。
ゆとりのある外套なので、なんとかごまかせそうだ。
グラッツェルは部屋から出てドアに鍵を掛け、外階段を上った。大家の部屋は一階にある。
ガラスが填まった建物の玄関ドアを開け、すぐ右手にある小窓を叩く。
「なんだい」
小窓を開けたのは、建物と同じような色の髪をひっつめた老女だった。
「仕事の都合で今日で引っ越しする事になりました。今日までの家賃と鍵を返しに来ました」
「そうかい」
細く皺だらけの老女の掌に、グラッツェルは日割りで計算した家賃と、部屋の鍵を置いた。元物置なだけに、グラッツェルの家賃は安かった。
「あんたは騒々しくないし、きちんと家賃は払うし良い店子だったんだけどね」
殆ど稼働していない鉱石暖房で、真冬に凍えそうになった思い出があり、住人としては過酷な部屋だった。それでも下町とはいえ城下町で格安で雨風を凌げたのだから、有難い部屋だった。
「お世話になりました」
グラッツェルは大家の老女に礼を言い建物を出た。
「そうだ、冒険者ギルドには挨拶しなきゃなあ」
「ぼうけんしゃギルド?」
「良くしてくれた人がいてね」
回りに人が居なかったので、グラッツェルはゼクスナーゲルに答えた。
錬金術師ギルドより余程冒険者ギルドのメラニーの方が親切にしてくれたのだ。
ゆっくり歩いてグラッツェルは冒険者ギルドを目指した。微かにゼクスナーゲルが鼻歌を唄っていたが、ギルドに入る前に静かにして貰った。
メラニーはいつものように売店にいた。
「こんにちは、フラウ・メラニー」
「昨日ぶりね、ヘア・グラッツェル。今日はどうしたの?」
「俺、リグハーヴスに移住する事にしたんだ。それで挨拶に」
「リグハーヴスに? 確かあそこは錬金術師が居ないわよね?」
「あー、勧誘されて……」
鯖虎と黒色のケットシーに。
苦笑いするグラッツェルを、メラニーはじっと見詰めた。
「ヘア・グラッツェル、肥った?」
「いや、別に──あっ」
ひょいとカウンター越しに腕を伸ばし、メラニーがグラッツェルのお腹をむにっと摘まんだ。丁度ゼクスナーゲルのお尻の辺りを。
「やーん」
冒険者ギルドに不似合いな子供の声に、一瞬ギルド内が静まり返った。
「何か聞こえなかったか?」
「聞こえねーよ。気のせいじゃねえの?」
元々複数の冒険者達が居たため、空耳と思われたようだ。
グラッツェルは背中にじわりと冷や汗をかいてしまった。
メラニーがにっこりと微笑む。
「……一寸お話を伺っても良いかしら」
「……はい」
メラニーが売店の隣にある応接室を指差した。逃げられそうにないので、グラッツェルは頷いた。それに脇腹にゼクスナーゲルの爪がチクチクと刺さっているので、一度様子を見たかった。
「応接室のドアは開いているから、入ったら内側から鍵を掛けてね」
メラニーはカウンター側から入るようだ。
グラッツェルは言われた通りに応接室のドアを開けて中に入り、棒状の鍵を回した。
「大丈夫か? ゼクス」
外套の釦を外してお腹にしがみついているゼクスナーゲルに声を掛ける。
「だいじょばない。びっくりした」
ちょっぴり涙目でゼクスナーゲルが見上げてきた。
「ありゃ」
グラッツェルはゼクスナーゲルを抱き上げて後頭部を撫でた。痛いとは言わなかったので驚いただけだろう。
「フラウ・メラニーもゼクスがお腹にくっついているとは思わなかっただろうからなあ」
「はいー」
ゼクスナーゲルもお尻を掴まれるとは思わなかっただろうが。
「あら、座っていてくれて良かったのよ」
グラッツェルが入ってきたのとは別のドアから、メラニーがお茶の道具とお菓子が乗った盆を持って部屋に入ってきた。
「やっぱり妖精が居たのね」
メラニーはゼクスナーゲルを見て、表情を緩めた。
「さっきはごめんなさいね。驚いたでしょう」
「だいじょぶ」
謝って貰えればそれで良いのか、ゼクスナーゲルはこっくり頷いた。
「お詫びにシュプリッツクーヘンはいかが?」
シュプリッツクーヘンとは絞り出しケーキと呼ばれる揚げ菓子だ。これは上に白い粉砂糖がたっぷり掛かっている物だった。
ぐうーとゼクスナーゲルの腹が鳴った。グラッツェルが片付けをしてから喚んだので、昼を過ぎていた。
「たべる」
「お茶を淹れるわね。ミルクはたっぷり?」
「たっぷり」
ゼクスナーゲルがおやつを貰う気になったので、グラッツェルはソファーに腰を下ろした。ゼクスナーゲルは隣に座らせ、首巻を取ってやる。
「ゼクスナーゲルのお茶は温めでお願い」
「ケットシーって熱いもの苦手なのね」
「そうみたいだ」
孝宏がケットシー達にお茶を淹れる時、温度に気を付けていた。熱ければ熱いで、自分達で冷ますらしい。
「きょうのめぐみに!」
ちゃんと食前の祈りを唱え、ゼクスナーゲルは両前肢で持ったシュプリッツクーヘンに齧りついた。
「んんー」
美味しかったのか、太い尻尾がピンと立っている。
グラッツェルもメラニーが淹れてくれたミルクティーを一口飲んだ。
「何処で知り合ったの?」
「昨日リグハーヴスに行ったんだ。ほら、魔力回復薬の飴を見せて貰いに。そうしたら魔法使いギルドにコボルトは居るし、薬草店にもケットシーが居るしで、素材を融通して欲しいって頼んだら──縁あってゼクスナーゲルが俺に憑いたんだよ」
詳しく話すとエンデュミオンの温室についても話さなくてはならなくなるので、その辺りはぼかす。
「ケットシーが憑いたら、確かに一番安全なのはリグハーヴスよね。じゃあ向こうでお店を出すの?」
「俺は護符を主に作るから、店を出す程じゃないよ。護符は〈Langue de chat〉や魔法使いギルドに卸すかな?」
「〈Langue de chat〉って、大魔法使いエンデュミオンが居る店でしょう!?」
「そのエンデュミオンに勧誘されたんで」
「エンデュミオンに取られたんなら仕方ないわねえ。王都の冒険者ギルドにも卸して貰えないかしら」
グラッツェルは唸ってしまった。素材を譲ってくれるのは妖精達なので、一応彼らの意向を聞かなければ。
「エンデュミオン達が構わないと言えば」
「達? 何人の妖精と取り引きするの?」
「あー、リグハーヴス中の妖精達と、かな」
「ハア!? 専属なの!?」
「何だかそうなっちゃってて」
「ねー」
シュプリッツクーヘンを食べ終えたゼクスナーゲルが肉球に付いた粉砂糖を舐めながら相槌を打つ。
「しかも、この子〈錬金術師のケットシー〉じゃないの」
「〈錬金術師のケットシー〉?」
「仕事柄、私は昔の資料も読むんだけど、初代の錬金術師ギルド長に憑いていたケットシーは、六本指だったそうよ。だからそう呼ばれるの」
ゼクスナーゲルは粉砂糖を舐め終えた後は、水の固まりを出して前肢を洗い乾かしている。それから六本指でしっかりとマグカップを持ち、ミルクティーを舐め始めた。
ちゃむちゃむとゼクスナーゲルがミルクティーを舐める音が部屋に響く。こういう姿は幼い。
「〈黒き森〉や地下迷宮があるから、戦闘能力がない錬金術師はリグハーヴスに行かないものねえ。少し前まではリグハーヴスだって、街に妖精は居なかったし」
「そうだね。こんなに可愛いのに」
「全くね。ハイエルンでコボルトが解放されて本当に良かったわ」
解放宣言があったからこそ、コボルトはリグハーヴスにも出てくるようになったらしい。
メラニーは大きく溜め息を吐いた。
「正直言ってグラッツェルの護符が全く手に入らないのは辛いのよ。こっちにも回してくれるようにお願いしてくれる?」
「護符作る錬金術師って他にいないっけ?」
「あのね、グラッツェルの護符は下級錬金術師の仕上がりじゃないの。上級並みなの。リグハーヴスに行ったら、直ぐに上級錬金術師に昇格出来るわ」
そんな事をエンデュミオンも言っていた気はする。
グラッツェルは「検討する」と答えるに留めた。エンデュミオンに相談だ。
帰りはメラニーが応接室からリグハーヴスへの〈転移〉を許してくれたので、有り難くゼクスナーゲルに〈転移〉して貰った。
「たまには遊びに来て頂戴」と笑ったメラニーが、王都冒険者ギルド副ギルド長だという事実をグラッツェルはまだ知らない。
物置に住んでいたグラッツェルです。
素材を持っていないのは、必要な分だけ買って護符を作ってはギルドに納品していたから。
冒険者ギルドのメラニーはグラッツェルには下級素材でも、質の良い素材を回してくれていました。
護符の依頼を食べるのに困らない様に依頼してくれていたのもメラニー。
護符は冒険者だけではなく、一般の人もお守りとして買ったりします。
メラニーは(外見が)若くて副ギルド長やっているので、グラッツェルは気付いていません。
実は結構強いメラニーさんです。元冒険者。