冬の始まりと角笛の妖精犬
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
新たな北方コボルトがやってきます。
218冬の始まりと角笛の妖精犬
黒森之國の中で、リグハーヴスは最初に冬が来る土地だ。
昨日からの冷たい雨があがった朝、エーリカは外套の上に葡萄色のショールを巻き付け、〈麦と剣〉に向かって歩いていた。
雨が鬱陶しくて昨日は買い物に行かず、朝のパンがなかったのだ。
黒森之國ではパン屋は朝から開いている。焼き立てのパンで朝食が食べられるのだから、この寒さも我慢だ。
白い息を吐きながら、息子クルトの家の前を通る。
クルトの家は職人区なので敷地が広い。家と工房が並んで建ち、空いた場所に小さな家庭菜園がある。今は寒さに強い青菜以外は冬じまいしてしまっているその家庭菜園に、見慣れない物を見付け、エーリカは足を停めた。
「……テントかい?」
木の棒を三本地面に三角に立て、そこへ鞣した皮を巻き付け、入り口に布が垂れている簡素なテントだ。布には色鮮やかな刺繍が入っていた。
テントといっても小さい。人族の大人は入れないだろう。
「母さん?」
声に振り向くと、片腕にメテオールを抱いたクルトが、家の前に立っていた。新聞を取りに出てきたのだろう。
「どうしたの? こんな早く」
「おはよう。クルト、メテオール。あそこにテントがあるのはなんだい?」
「え?」
クルトとメテオールが家庭菜園を見て、揃って目を丸くする。
「昨日はなかったんだけど」
「あれはコボルトのテント」
「誰か来たのか?」
しかしリグハーヴス住みのコボルトは皆主がいるか、ちゃんと庇護されている。
クルトはメテオールを抱いたままテントに近付いた。
「わうわう」
メテオールがコボルト言語でテントに話し掛ける。しかし中から返事がない。
「クルト、メテオール中に入ってみる」
「頼む」
地面に下ろして貰い、メテオールはテントの布を捲って中を覗き込んだ。
「わう!?」
テントの中には小麦色の北方コボルトが居た。薄い毛布にくるまってガタガタ震えている、メテオールよりも小柄のコボルトが。
「わうあう!」
「……」
声を掛けても震えているばかりで返事をしない。慌ててメテオールはクルトを呼んだ。
「クルト、大変! 凍えてる!」
「なんだって!?」
メテオールが布を巻き上げた入口から腕を差し入れ、クルトはコボルトを抱き上げた。小さな身体はびっくりするほど冷えていた。
「うわ、冷たい……」
「クルト、その子をこちらに。すぐに温めないと」
「母さん、お願い。グラウにヴァルを呼んで貰って」
「ええ」
エーリカが広げたショールにコボルトを包み、クルトの家へと小走りで向かう。
クルトはメテオールと小さなテントに視線を戻した。
「解体して工房で乾かしておこうか」
「うん」
テントやテントの中にある荷物は、あのコボルトの大切な財産だ。
コボルトの看病はエーリカとアンネマリーに任せ、クルトはメテオールに頷いた。
「アンネマリー、行火を作っておくれ!」
家に入るなり、エーリカは台所にいたアンネマリーを呼んだ。
「お義母さん!? その子はどうなさったんですか?」
「そこの畑にテントを張ってたんだよ。昨夜の冷え込みで凍えちまってる」
「すぐに用意します。エッダ、毛布を持ってきて! グラウはヴァルを呼んできてくれる?」
「はい」
「あいっ」
エッダは予備の毛布のある物入れに走り、グラッフェンは〈転移〉で〈Langue de chat〉へ飛んでいった。
エーリカは居間の鉱石暖房の側に座り、膝に乗せたコボルトの冷えきった小さな四肢を擦った。
「ほら、頑張るんだよ」
恐らくメテオールより若い。クヌートとクーデルカに近い年齢かもしれないコボルトだ。
「お義母さん、行火です」
「有難う、アンネマリー」
内側に火鼠の皮を貼った金属の入れ物の中に熱鉱石を入れた物が行火だ。所謂携帯用の懐炉だ。
火傷しないように布を巻き付けてキルトの巾着に入れた行火を、コボルトのお腹の上に乗せショールと毛布で包み直す。
ポン、と居間にグラッフェンとヴァルブルガが現れた。
「おはよう。冷え冷えのコボルトって聞いたの」
とことことヴァルブルガがエーリカが抱いているコボルトに近付き、冬毛になってきたのか、いつもよりふかふかしている気がする前肢で小麦色の頭を撫でる。
「さっきよりは落ち着いてきたんだけどね。まだ目を覚まさないんだよ」
「うん。診察してみるの」
ヴァルブルガはエーリカとアンネマリーに手伝って貰いながら、コボルトの心音を聞き、四肢の先と耳と尻尾の先も確認した。
「凍傷にはなってないし、命に別状はないから大丈夫。冷えで体力使って眠っているから、このまま暖かくして寝かせてあげて。起きたら温かい物食べさせてね」
「良かった。元気になるまでうちで預かるわね」
ほっとした顔でアンネマリーがコボルトの頭を優しく撫でた。
「お願いするの」
テントを張っていた位なので、リグハーヴスに知り合いは居ないのだろう。これからのリグハーヴスは日毎冬に向かう。いつ雪が降るかもしれないのに、テント暮らしでは妖精でも凍死する。
「あー、寒っ」
「おうち暖かい」
外でテントを解体して来たクルトとメテオールが家の中に戻ってきて、エーリカが抱くコボルトを覗き込んだ。
「震えは治まってきたかな?」
「ああ、落ち着いてきたよ」
見付けた時の震えは消え、コボルトはピスーピスーと鼻を鳴らしながら穏やかに眠っている。
「わう?」
メテオールが前肢を伸ばし、コボルトが首から下げていた首飾りを手に取った。白い三日月型のラッパのような形で、銀色の吹き口が付けられている。それはコボルトの身体に合わせた小さな角笛だった。
「角笛かな?」
「この子、角笛の子だ」
「角笛の子?」
隣に屈んだクルトに、メテオールが説明する。
「一つの一族が同じ集落にいると血が濃くなるから、他の集落に行く子が選ばれる。それが角笛の子。大抵ハイエルンの中の集落に移動するんだけど」
「何でリグハーヴスに来たんだろうね」
「何でかなー」
こて、とメテオールが首を傾げる。
「この角笛鳴るの?」
「鳴るよ。伝説の角笛は吹くと召喚獣出るらしいけど、それを模して作られてる普通の角笛かな? 集落毎に幾つも作られてるし、引き継ぎするから伝説の角笛解らなくなっちゃったんだよね」
「そうなんだ。よし、客間整えてくるかな」
立ち上がったクルトをエーリカが見上げる。
「あたしも泊まらせて貰おうかね。この子の面倒をみよう」
「助かるよ」
エッダは兎も角、デニスとグラッフェンはまだ手が掛かる。特に動き回れるグラッフェンは目を離せない。
「クルト、もしかしたらこの子、熱が出るかもしれないから、熱冷まし出しておくの」
ヴァルブルガが〈時空鞄〉から紙と万年筆を取り出して、処方箋を書く。
「後でラルスの所に行ってくるよ」
「うん。妖精犬風邪予防にカモミールも入れておくね」
「そっか、妖精猫風邪予防にミントも買ってこなきゃ」
「ミントティーだとグラッフェン飲めないかも。ゼリーにしてあげて。果物と混ぜると食べるから」
〈時空鞄〉からミントゼリーのレシピを取り出し、ヴァルブルガがアンネマリーに差し出す。
「ヒロ、頑張ってるな……」
あの手この手で食べさせているらしい。多分ミントはルッツが苦手なのだろう。
ヴァルブルガは処方箋を書き終わると、霊峰蜂蜜玉の瓶を置いて帰っていった。はっきり言って、薬代よりサービスの霊峰蜂蜜の方が高価だった。
コボルトが目を覚ましたのは、昼過ぎで、エーリカはベッドの脇に椅子を置いて編み物をしていた。
コボルトが良く眠っていたので、アンネマリーが持っていた毛糸の余りでコボルトのセーターを編む事にしたのだ。クルトのセーターを作った残りの灰色の毛糸だが、眠り羊の毛糸だ。
眠り羊は地下迷宮で新人冒険者が最初に狩る魔物であり、値段に波はあるが常に服飾ギルドに置かれている。この毛糸は暖かく、丈夫だ。
「……」
もそ、とした衣擦れの音にエーリカは顔を上げた。
「おやまあ」
ぱっちりと目を開けてエーリカを見ているコボルトの瞳は薄い灰色だった。エーリカと同じ〈水晶眼〉持ちだ。
「……」
「ここはリグハーヴスだよ。お前さんがテントを張っていた畑の隣にあった家だ。覚えているかい?」
「……」
コボルトがこっくり頷く。
「朝に凍えていたんだよ。どこか痛いとか苦しい所はないかい」
「……」
ふるふると首を振る。しかし鼻が乾いているので、少し熱がありそうだ。
「それは良かった。お腹空いたろう。温かいものを用意して貰おうね。少し待っておいで。ここにはケットシーもコボルトもいるから安心おし」
編み物をベッドカバーの上に置き、エーリカはアンネマリーの居る居間に行った。
「あの子が目を覚ましたよ」
「一安心ですね。シチューを温め直して持っていきますから、お義母さんは側にいてあげてください」
アンネマリーが台所に向かう。
「おっきした?」
居間のテーブルでお絵描きをしていたグラッフェンが、目をきらきらさせる。
すぐにでも会いに行きそうなグラッフェンを、隣で本を読んでいたエッダがやんわりと止める。
「グラウ、ご飯食べて貰ってから会いに行こうよ」
「そうだね、おやつの時間までゆっくりさせておやり」
「あいっ」
エッダとエーリカにグラッフェンが前肢を挙げる。そして「おとしゃんと、めておにおしえてくる」と工房に〈転移〉していった。
お絵描き途中のまま行ったのは、戻ってきたら続きを描くつもりなのだろう。
「……これはコボルトかね?」
「きっとそうかな」
紙には茶色い色が塗られている途中だった。
角笛のコボルトは突撃兎のミルクシチューを尻尾を振りながら平らげ、アンネマリーを喜ばせた。
おやつにはエッダとグラッフェン、メテオールが林檎を持ってやって来た。
「角笛の子、どうしてリグハーヴスに来た?」
「……」
シャクシャクと噛んでいた林檎を飲み込み、コボルトがふにゃりと笑う。
「エンデュミオン居るって聞いた」
「エンデュミオンに会いに? 魔法使いなのか」
「魔法使いで先見師」
「〈水晶眼〉だものな」
大魔法使いエンデュミオンは、普通の魔法使いからしてみると雲の上のような存在だ。使用出来る魔法も、魔力も桁違い。憧れる魔法使いも多い。
「でぃー?」
不思議そうな顔をしているグラッフェンは、エンデュミオンの凄さを知らない。自分を可愛がる姿しか見ていないからだ。流石に「お前のお兄ちゃん規格外だよ」とは誰も教えない。
「角笛の子、グラッフェンはエンデュミオンの弟だ」
「わう!」
「エンデュミオンはこの街に居るから、元気になったら会いにいける」
「うー、わんっ」
嬉しげに吠え、角笛のコボルトは尻尾を振った。
「エンデュミオンに会ったらどうするんだ? ハイエルンに戻るのか? リグハーヴスに住むなら定住先を決めないとならないぞ。これから冬になるからな」
「角笛の子だから帰る所ない。〈水晶眼〉だから迷惑かける」
「コボルト解放令出たのに?」
「王宮とか教会が来るから」
「主憑きじゃないからか」
「うん」
〈先見〉の出来る〈水晶眼〉は、王宮や教会で種族関係なく欲しがる能力だ。〈水晶眼〉持ちが産まれたと噂になれば、捜しに来て穏やかな集落の暮らしが脅かされる。だからこそ、このコボルトは角笛の子に選ばれたのだろう。
「なんだい、それならうちにおいで。あたしは独り暮らしだからお前さんがいたら楽しいよ」
「……良いの?」
「良いさ。それにリグハーヴスの領主様は、妖精が嫌がる事はしないお人だよ」
「うん」
〈水晶眼〉持ちのコボルトの流出は結構大事だったりするのだが、ハイエルンがコボルトをきちんと庇護していれば起きなかった事なので、まあいいかとメテオールは思う。
「エーリカ、この子に名前着けて」
「んん、何て名前にしようかね。……角笛が似合っているから、ホーンはどうだい?」
「ホーン!」
角笛のコボルトが前肢を挙げる。気に入ったらしい。
「二、三日療養して元気になったら、エンデュミオンに知らせて領主に会わせないと」
アルフォンス・リグハーヴス公爵に繋ぎを取るならエンデュミオンが手っ取り早い。ギルベルトでも良いのだが、元王様ケットシーなのでエンデュミオンの方が気安い。
エーリカはアルフォンスに〈水晶眼〉として会っていないので、エンデュミオンに任せた方が良いだろう。
メテオールとしても同胞は、幸せになって欲しいのだ。
ぱぷーと気の抜けた音で角笛を吹くホーンを、エッダとグラッフェンが拍手している。
賑やかになりそうだと、メテオールは尻尾を振った。
エンデュミオンに会いたくてリグハーヴスにきたホーンです。
何で畑にテントを張ったかと言うと、ハイエルンの集落では、空いている土地にテントを張っても良いのです。誤算は冬用テントと毛布じゃ無かったので、凍えちゃったこと。
ホーンはエーリカと一緒に暮らす事になります。そのうち、魔法使いギルドでクロエのお手伝いをするかも。実はちょっぴり人手不足のリグハーヴス魔法使いギルドです。正職員は、クロエとヨルンだけだったり……。