レベッカとフィッツェンドルフ
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フィッツェンドルフの領主館へ向かいます。
215レベッカとフィッツェンドルフ
レベッカは前フィッツェンドルフ公爵の妾の娘である。
正式な側妃を持てるのは王と公爵だけだが、複数の側妃を持てる王と違い、公爵の側妃は一人である。しかし妾を持つ事は金に余裕があるものなら可能だった。
リグハーヴス公爵が代々妻一人しか娶らないのが珍しい位で、他の公爵達には側妃がいるし、フィッツェンドルフ公爵に至っては妾も数人囲っていた。
しかし、正式な妻と認められる側妃と違い、妾の立場は不安定だ。大概が身分の低い者が妾になるから、多少の手切れ金を渡して終わりだ。
レベッカのように、母親が手切れ金を受けとる前に病死した場合は、そのまま館に残れる場合もあるが。
とは言え、レベッカは妾の娘であり、正妃の子であった兄姉とは当然区別されて育った。暮らす棟も違えば、食事も別だ。
ただ、妾の娘だが学がないのは恥だと言う考えを持っていた前領主が、レベッカを学院に入学させてくれたのは有り難かった。
学院を卒業時間際に前領主が亡くなった。治療を存分に受けられる環境にいる割には早いような気もしたが、兄とレベッカの年齢が離れていたので、寿命だったのだろう。
葬儀には参列したが、兄姉とは疎遠だったので妹とも思われていないのは解っていたが、学院を卒業してもフィッツェンドルフで雇用する気はないと言われた。
庶子なのに学院に行かせて貰えたし、遺言があったかは知らないが、遺産を貰う気もなかったので、二つ返事で王都に戻った。
元々階級差や平原族以外の種族が暮らし難いフィッツェンドルフだったが、兄のヴィクトアが領主になってから拍車が掛かったようだ。
先日の嵐でも、フィッツェンドルフだけがやたらと被害が大きかったと聞く。だと言うのに、領民への対応は進んでいないと噂が聞こえてきていた。
ヴィクトアも姉のヘレーネも、レベッカが領の政に口を出すのは許さないに違いない。
しかも、ヘレーネはハイエルンからフィッツェンドルフに移籍した騎士と結婚したが、夫となった騎士はヴィクトアに不興を買ってまで忠告するような男ではない。何しろ、領主館に同居しているのだから。
「はあ……」
「何溜め息吐いてんだ? 飯が冷めるぞ」
「解ってる」
テーブルの向かいに座る相棒のエルヴィンに指摘され、スプーンで掻き回していたスープを掬う。
騎士は最低でも二人一組で行動する。レベッカの相棒はハイエルン出身の人狼エルヴィンだ。黒い髪に同色の狼の耳と尻尾を持つエルヴィンは瞳の色が金色なので、初対面の者には威圧感を覚えさせるらしい。そもそも平原族の女としては高めの身長のレベッカより頭ひとつ背が高い。
レベッカも母親譲りの赤毛に青灰色の瞳なのでやはり目立つ。あえて目立つもの同士組ませたのではないかと上層部を疑いたくなったものだ。
「レベッカ、エルヴィン。飯食ったら団長の部屋に来いってさ。お前ら何かやったのか?」
「してません!」
朝食の載ったトレイを持った先輩騎士に通りすがりに伝えられ、レベッカとエルヴィンは声を揃えてしまった。
「……報告書の出し忘れはないよね、エルヴィン」
「この間のは一緒に出しに行っただろ」
「だよね。何だろう」
既に食べ終えていたエルヴィンは、レベッカが食べ終わるまで、自由に食べられるパンと林檎を追加で食べていた。人狼の男は良く食べるのだが何故か肥らない。
朝食を終えて食器をカウンターへ返し、レベッカとエルヴィンは騎士団宿舎から、実務を行っている騎士団本部の棟へ移動し、団長ハインツの執務室へと向かった。
「レベッカとエルヴィン、参りました」
「入れ」
ドアをノックして名乗ると、すぐにハインツが入室を許可した。
「失礼致します」
エルヴィンがドアを開け、見えた室内にレベッカは目を瞠った。
「へ、陛下!?」
普段ならハインツが座っている執務机の椅子に、銀髪に紫色の瞳をした男が座っていた。騎士ならば任命式でマクシミリアン王に会うため、顔を知っている。
マクシミリアンの両側には、片方には黒い騎士服の肩に光竜を乗せたツヴァイクが、もう片側には白い聖騎士の制服を着た蜜蝋色の髪の青年が立っていた。彼の腰の剣帯には剣ではなく大振りなナイフと、鎖に繋がった真鍮製の〈星を抱く月〉が下がっていた。
腰から鎖で〈星を抱く月〉を下げているのは聖職者である。
人狼は最も優先すべきは己の番、と言う種族なので王ですら畏れない。しかし立場は弁えているので、エルヴィンはレベッカと同時にマクシミリアンの前に片膝を付いた。
「固くならなくてよい。そちらに座ってくれ」
「は、はい。失礼致します」
二人はマクシミリアン達と向かい合う場所に置かれた椅子に腰を下ろす。団長のハインツが、壁際に立っているので落ち着かないが、王が座れと言うのだから仕方ない。
「……ふむ」
声変わり前の少年の声と共に、マクシミリアンの膝の上から灰色の鯖虎柄をしたケットシーが顔を出した。机の盤面から黒っぽい前足の先と顔だけ出して、レベッカ達をじろじろと確認するように見詰める。黄緑色の大きな瞳をしているが、少々目付きの悪いケットシーだった。
「大丈夫だな。影響を受けてはいないようだ」
「ならば良い。わざわざ来て貰ってすまないな、エンデュミオン」
「ケットシーに〈魅了〉は効かないからな。片付くまで手伝うさ」
「それは有難い」
鯖虎柄のケットシーはエンデュミオンだった。噂では聞いていたが、本当に大魔法使いエンデュミオンが復活していた。マクシミリアンが認めたのだから間違いない。
しかし、一体何の理由で呼ばれたのか解らず、レベッカは背中に嫌な汗をかいてしまった。隣に居るエルヴィンは、ケットシーのエンデュミオンが現れた瞬間尻尾を左右に揺らしていたのだから暢気である。
「さて、そなた達を呼んだのは、他でもないフィッツェンドルフ公爵領の件だ。風の噂で聞いているであろうが、現状は芳しいものではない。場合によってはレベッカに次代公爵になってもらうつもりだ」
「発言をお許し下さい、陛下」
「許す」
「フィッツェンドルフで何が起こっているのですか?」
学院に入ってからは殆どフィッツェンドルフに戻っていないレベッカには、兄達がマクシミリアンから見限られる理由が解らない。
マクシミリアンは毛並みの良さそうな、エンデュミオンの頭を撫でながら言った。
「確実な事はこれから確認するのだが──そなたは前公爵の夫人達を全て知っているだろうか」
「私の母は平民の妾でしたので、他の奥方達とは別棟で暮らしておりました。お顔を拝見していない方もいらしたと思います」
「そうか……。司祭イージドール、この二人にも〈退魔〉の護符を」
「はい、陛下」
聖騎士は司祭だった。イージドールはレベッカとエルヴィンに紐が通った木札を渡した。木札には聖句が赤いインクで書かれている。
「これを首から下げて服の中に入れておいてください」
「これは凄いな。高位の聖職者が〈聖別〉したのか」
エルヴィンが木札を手に耳をピンと立たせた。
「では、参ろうか。ハインツ、配備は終わっているな?」
「はい、領主館の周囲は固めております」
軽く頭を下げるハインツに、エンデュミオンは呆れた声を出した。
「マクシミリアンまで出張るのか」
「領主解任は王の仕事だからな。一々王都まで連れて来るのは時間が掛かるだろう」
「仕方ない。このままエンデュミオンを連れていけ。まとめてフィッツェンドルフまで運んでやる。借りているイージドールを無事に帰さないとならないしな」
「助かる」
マクシミリアンがエンデュミオンを抱いて椅子から立ち上がる。王も黒い騎士服を身に付けていた。ツヴァイクと同じ色なのはお忍びだからだろう。
「レベッカとエルヴィンだったか? こっちに来い」
王と同時に立ち上がっていたレベッカとエルヴィンを、エンデュミオンが手招く。当然同行するハインツの近くに移動した二人に、エンデュミオンが「よし」と頷いた。
「これからフィッツェンドルフの領主館の前に〈転移〉する。動くなよ」
前触れもなく足下に銀色の魔方陣が広がった。そして周囲の景色がぶれて瞬きした時には、レベッカには見慣れたフィッツェンドルフ公爵の領主館が目の前に建っていた。
「ええっ、速い!」
「魔法使いギルドを経由すると面倒だろう」
レベッカの感想に、あっさりとエンデュミオンが答えた。そう言う問題ではないのだが。
「大魔法使いとは規格外なのだ」
「失礼だな、マクシミリアン」
しみじみと呟いたマクシミリアンの腕を、ばしばしと肉球でエンデュミオンが叩く。ツヴァイクとイージドールが同時に吹き出したので、エンデュミオンの規格外さをこの二人も既知なのだろう。
「で、居るのか?」
「ああ、居るぞ。間違いない」
尻尾でマクシミリアンを叩きながら、エンデュミオンが半眼になった。
「これは凄いですね」
イージドールにも何かが見えているようだが、レベッカ達には領主館がただ建っているようにしか見えない。
「やはりイージドールにも見えるか。聖水があるなら他の者にも見えるようにしてやってくれ」
「承知しました」
剣帯に付いていたポーチから取り出した小瓶の中身を指先に付け、イージドールは「失礼しますね」と各人の目蓋に塗り付けてから聖句を唱えた。
「これで一時的に目の魔力が上がります」
「おー、見える。うん、気持ち悪いね」
率直なツヴァイクと同じものが、レベッカにも見えた。
フィッツェンドルフ公爵の領主館は大きく、主棟の他に左右の翼と中庭には物見の塔がある。その物見の塔から、クモの巣のような黒い糸が敷地に広がっていた。
「レベッカ、物見の塔には誰が居るのだ?」
「物見の塔の鍵は領主しか持っておりません。私も登った事はないのです。現在、鍵は兄のヴィクトアが所持していると思います」
「そうか」
マクシミリアンはエンデュミオンの頭頂部を軽く突いた。
「開けられるか?」
「ふん、エンデュミオンを誰だと思っている。どんな鍵でも開けられるぞ」
「……お前が盗賊でなくて良かったよ」
「何を言っている。他人の金は他人の物だろう?」
至極真っ当な意見をエンデュミオンは不思議そうな顔で言う。
「エンデュミオンは良い子だなあ。煮干しをあげよう」
「ふうん?」
良く解らん、という顔のまま、エンデュミオンがツヴァイクに貰った煮干しを齧る。
何故ツヴァイクが煮干しを持ち歩いているのか謎である。
「陛下、このまま領主館に向かわれますか?」
ハインツに問われ、マクシミリアンが首肯する。
「行こう。この糸のような物は、精力を吸収しているのだろう? エンデュミオン」
「そうだな。微量だが吸収している。マクシミリアン達は聖別された護符を持っているから、心配せずとも大丈夫だぞ」
「あの、何が、どういう……?」
レベッカは自分の実家で何が起きているのか理解出来なかった。
「何か居るのは解る」
すん、と鼻を鳴らしエルヴィンが顔を顰めた。
エンデュミオンがニヤリと笑った。
「流石に人狼は鼻が利くな。レベッカ、あの塔には淫魔が住んでいる。無許可のな」
「無許可!?」
信じられない言葉に、レベッカは高い声を出してしまった。無許可で魔物を地下迷宮から連れ出すのは重罪だ。
「連れ出したのは前領主だろうが、きちんと飼われていた間はまだ良かった。今は餌を貰えていないようだな。契約を反故にされたから、淫魔が自力で餌を獲っているのが現状だ。ではレベッカ、無許可の魔物所持及び未報告の罰則はなんだ?」
「……極刑もしくは幽閉かと」
「そう、こんな風に周囲にも被害を与えるかもしれないからだ。下手をすればフィッツェンドルフ公爵領が沈む程度にはな」
「そこまで……。兄は気付いていないのでしょうか」
「淫魔に精力を常態的に取られて行くと、思考力が落ちるんだ。気力が減少するしな」
淫魔だって命懸けだからな、とエンデュミオンは前肢の先で頭を掻いた。
「陛下が私を次代にと仰ったのは……」
「淫魔の影響を受けていないフィッツェンドルフ家の者はそなただけだからだ」
ヴィクトアとヘレーネは、前公爵が亡くなった後もここに住み続けている。ヴィクトアが淫魔と取引をしなくなってから、とも言えるが。
「陛下、領主館周辺の人払いは済んでおります」
「ハインツは外で他の騎士達と待機を。合図を送ったら突入してくれ」
ハインツに指示を出すマクシミリアンに、エンデュミオンは首を傾げた。
「んー、面倒だから物見の塔以外の建物に居る者達は眠らせるか?」
「そうしてくれると助かる。下手に怪我をさせたくないしな」
「解った。風の精霊、木の精霊、一寸淫魔以外を寝かせてきてくれ。これはお駄賃だ」
エンデュミオンが〈時空鞄〉から砂糖菓子を取り出すと、周囲に居た幾つかの精霊が反応し、砂糖菓子を受け取ってから、ふわっと館に向かって飛んで行った。
「エンデュミオンが居ると仕事が早いな」
「出張費が欲しいところだが、キルシュネライトを貰ったからな。相殺にしてやる」
マクシミリアンに対等な口を利き、エンデュミオンが尻尾の先を揺らす。
「そろそろ中に入っても良いぞ」
「では行くか」
王は全ての家屋に入る権限がある。つまり不法侵入にはならないのだ。
護符を持つ彼らの回りから黒い糸が避けていく。
そうしてレベッカの知らない館の深部へ向かうのだった。
フィッツェンドルフの次代公爵予定のレベッカとそのパートナーのエルヴィン登場です。
エンデュミオンは自分の財産は自分(と孝宏のもの)、他人の財産は他人のもの、という考えです。
ツヴァイクの煮干しは、自分で食べたり、光竜や遊びに来るコボルト兄弟にあげていると思われます。
イージドールは聖職者連れて行きたいけど、戦える聖職者ってあんまりいないんだよねーって事で、借りてきています。ベネディクトにはシュヴァルツシルトがくっついてるので大丈夫。
教会への寄付と、孝宏のお菓子を孤児院の子供達に作ってあげるのがレンタル料。
護衛任務の時は、イージドールも聖騎士の制服を着ていますが、叙爵されている訳ではないので、剣は持っていません。そして、聖職者なのでナイフの刃は鈍らです。生身でも普通の騎士よりは強いです。
マクシミリアンも大分エンデュミオンと打ち解けてきたようです。