地下迷宮と古い手帳
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地下迷宮の事ならリグハーヴス公爵に訊ねましょう。
214地下迷宮と古い手帳
エンデュミオンは王都の司教マヌエルの執務室から、アルフォンス・リグハーヴス公爵の執務室へと〈転移〉した。
「ににゃ!」
一休み中だったのか、ソファーに寝転がっていたアルフォンスの腹の上に座っていた笹かまケットシーのカティンカが右前肢を上げる。
アルフォンスも今回の事でマクシミリアン王を手伝っているので、お疲れのようだ。
「いらっしゃいませ、エンデュミオン」
「やあ、クラウス。これ、アルフォンスが好きな香草茶と霊峰蜂蜜玉とお茶菓子だ」
「有難うございます」
クラウスにラルスの香草茶と蜂蜜玉と菓子が入った紙袋を渡し、エンデュミオンはいつもアルフォンスが座る一人掛けのソファーによじ登った。
「お疲れだな、アルフォンス」
「全くだ。フィッツェンドルフの領主や準貴族から水竜キルシュネライトを連れ出した苦情の精霊便がビュンビュン来ているぞ」
仰向けになったまま、アルフォンスが顔だけエンデュミオンに向けた。
「舟が出せないと言っていた癖に、キルシュネライトが居なくなったら居なくなったで文句を言うのか」
「キルシュネライトが守護竜だと、今頃気付いたんだろう。魚も獲れず、畑の乾きが早くなり、川の流れが荒くなったそうだ」
「ほう。守護竜を信仰もしていなかったのに、今まで土地を守っていてくれただけ有難いではないか。何故無償であれだけの広い土地を守護してくれると思ったのだ?」
「本当にな」
むくりと起き上がり、アルフォンスは膝の上にカティンカを乗せ直した。随分懐かれたようで、大人しくカティンカは膝の上に座っている。
「お持たせですが」
クラウスが葉の形をした緑色のガラスの皿に、花の形に抜かれた桃色の琥珀糖と、水色の流水の形の和三盆を上品に盛り付けたものをテーブルに置いた。
お茶はレモングラスが主体の淡い黄緑色の香草茶だ。
「あー、クラウスも居てくれ」
下がろうとしたクラウスをエンデュミオンは呼び止める。
「確認したい事があってな」
「はい」
クラウスがその場に留まったので、エンデュミオンは香草茶をぺろりと舐めた。相変わらずケットシーに絶妙な温度で淹れてある。
「ほら、カティンカ」
「あ、ありがと」
カティンカがアルフォンスに取って貰った流水の和三盆を、肉球の上に乗せてじっと見詰める。
「カティンカ、エルゼの分はあるから食べるといい」
エンデュミオンはカティンカの前に小さな紙袋を置いてやった。
「ああい。き、きょうのめぐみに」
ぱくりと和三盆を口に入れ、「んんー」とカティンカは頬を肉球で押さえた。可愛い。
和んだ所で、エンデュミオンは話を進める。
「アルフォンスは聖人を知っているか?」
「随分昔だが、うちの古い聖別記録に出ているのを見た事があるな」
リグハーヴス公爵家ではきちんと記録を残していたようだ。その頃は聖人がいれば聖人が就任聖別していたのだろう。
「聖人を知っているなら話は早い。司祭ベネディクトが聖人なんだ」
「……」
「司祭イージドールが〈女神の貢ぎ物〉なのは知っていると思うが、あれは聖人専属の護衛なんだ。聖人と護衛は一緒にしておいた方が良いだろう? だからイージドールを引き抜いたんだが」
「……」
「今は聖人は殆ど知られていないみたいだし、流石にフィッツェンドルフの領主就任聖別は聖女にして貰う方が良いと司教マヌエルと話してきた。それで──」
「よし、一旦待とうか、エンデュミオン」
「うむ」
言われるまま待つエンデュミオンの前で、アルフォンスはカップの香草茶を飲み干した。受け皿に戻されたカップにすかさずクラウスがお代わりを注ぐ。
「で、誰が何だって?」
「司祭ベネディクトが聖人で、司祭イージドールが〈女神の貢ぎ物〉で専属護衛」
「いつからだ、知っていたのは」
「妖精ならベネディクトが聖人なのは気付くぞ。聖属性が垂れ流しなんだから。確信したのは教会責任者会議にうっかり行っちゃった時に、イージドールがベネディクトを守ろうとしたからだな」
「結構経っているではないか! そういう事は気付いた時点で言ってくれないか!」
「ごめん?」
謝ったのだが「なぜ疑問系なのだ!」とアルフォンスに怒られる。
「ベネディクトを表舞台に引っ張り出すつもりはないんだ。聖女の方が実績はあるから、面倒な事になっても困る。ベネディクトには聖別と退魔の能力しかないからな」
聖人は聖属性特化で、それ以外の魔法は殆ど使えない。聖女フロレンツィアのように治癒系の〈祝福〉が使えると思われても困るのだ。
「だから、フィッツェンドルフの領主就任聖別も聖女が担うと?」
「うむ。ベネディクトには遠隔で〈祝福〉して貰えば良いかなと思って」
「ほう。やれるのか?」
「イージドールとシュヴァルツシルトも同時にやれば良いんじゃないか?」
「……詳しく言って貰おうか」
膝に乗っているカティンカがもぐもぐと琥珀糖を食べているので、今一迫力に欠けるが、アルフォンスの紫色の瞳から出ている見えない何かが、エンデュミオンに刺さっている気がする。
「恐らくだが、イージドールとシュヴァルツシルトも〈祝福〉を使えるぞ。元々殆どの属性を持っているし、〈祈り〉を習得しているからな。ケットシーは主の能力を習得しやすいんだ」
聖職者なので聖属性も顕現しているだろう。勿論、この二人は治癒系の〈祝福〉だが。
「〈祝福〉持ちが三人……」
「コボルトに噛まれてもリグハーヴスで治せるようになったな」
じろりとアルフォンスに睨まれる。そういう事じゃない、と。
「聖人に〈女神の貢ぎ物〉は付き物だからな。今回は〈女神の貢ぎ物〉にケットシーが憑いていただけだ」
「聖都や大聖堂が欲しいと言ってくるぞ」
「聖人の〈退魔〉は地下迷宮のあるリグハーヴスに一番必要だろう。それ以外では使い勝手が悪いし、ベネディクトを賭けてイージドールと闘うのはお勧めしないぞ。あれは特級精霊と契約しているからな」
「何処の大魔法使いだ!」
「エンデュミオンは各属性精霊の長に力を借りていたぞ?」
「……この規格外どもめ」
エンデュミオンに常識は通用しなかった。
「司祭ベネディクトに関しては解った。他にはないのか?」
「ある」
和三盆を口に入れ、溶けるのを待って香草茶を飲み、エンデュミオンは「いつ頃だろうな」と呟いた。
「アルフォンスとクラウスが生まれる前で、エンデュミオンがケットシーの里にいた時期かな。目安としては、〈牡鹿亭〉のシュテファンが生まれる一年程前だろう。──地下迷宮で淫魔の〈湧き〉がなかったか?」
エンデュミオンの問いに、アルフォンスとクラウスが目を瞠る。
「エンデュミオンが知らないからその時期だと思う。地下迷宮の氾濫があれば、ケットシーの里でも情報は来た筈だからな。だから地下迷宮内での〈湧き〉ではないかと思ったのだが。シュテファンは平原族だが淫魔との混血で街にいるのだから、母親が淫魔と契ったと解る」
複数の魔物が一度に現れる型の〈湧き〉でも、冒険者がある程度の数居れば捌けるものだが、淫魔は〈魅了〉を使うので始末が悪い。
「被害者はシュテファンの母親だけだったのか? その時、フィッツェンドルフの者が地下迷宮に入って居なかったか?」
「……」
「……」
アルフォンスはクラウスと視線を絡ませた。アルフォンスが軽く頷き、クラウスが執務室を出ていく。
「封じられた話題だったか?」
「淫魔に襲われたとなると、醜聞となる身分の者もいる」
「貴族とそれに連なる者か」
「そう言う事だ。私も地下迷宮に入る歳になった時、父から教えて貰ったのだ」
「お待たせいたしました。御前、こちらを」
クラウスが執務室に戻って来て、鍵付きの手帳をアルフォンスに手渡す。茶色い革表紙の分厚い手帳は使い込まれて色濃く艶やかに変色していた。
「これは前領主だった父の備忘録でな。リグハーヴス内は勿論、國内の主だった災害や事件が書かれている」
手帳の帯に付けられた金具に、アルフォンスが指に嵌めていた領主の印章のある指輪を近付けると、カチリと鍵の外れる音がした。
手帳を開き、アルフォンスがパラパラと頁を繰る。目を通した事があるらしく、それ程掛からず目的の部分を見付け出す。
その間に、カティンカはアルフォンスの膝から下りて、ソファーの上にあったクリーム色の毛布の間に潜り込んだ。眠くなったのだろう。叡智があってもまだ子供なので、難しい話題には向かない。
「この辺りだ。大体エンデュミオンが言った時期だな。今もそうだが、地下迷宮は騎士訓練にも使われる場所だ。冒険者もいるし、比較的浅い層は込み合う為、各領ごと期間を決めて潜る」
「ふむ」
「この時はフィッツェンドルフの前領主率いる騎士団が地下迷宮に入った。この頃はまだ地下迷宮の攻略地図は作られ始めたばかりでな。共有もしていなかった」
昔は冒険者が各自で攻略地図を作り、秘匿していたらしい。今では訓練に入る地下迷宮十五階辺りまでは、各領の騎士団も所有している。それより深い層の地図はリグハーヴスの冒険者ギルドで購入出来るが、騎士団がそこまで深く潜る事はない。
「比較的浅い地下迷宮八層に淫魔の出る地帯がある。当然〈魅了〉耐性の護符を持って向かう場所だ。しかし、ここは奥まった廃砦になっていて、通常なら遠回りで避けて通れるのだ」
「だが、ここで〈湧き〉があったのだな?」
「偶発的な魔力溜まりが出来ていたらしくてな。廃砦の外にまで淫魔が現れた。そこに通り掛かった冒険者やフィッツェンドルフの騎士団が嵌まったんだ」
淫魔は〈魅了〉を使って獲物を捕らえても殺さない。快楽を好む淫魔は、女には精を注いで孕ませ、男からは精を奪うと言われている。
「予定日を過ぎてもフィッツェンドルフ騎士団が地下迷宮から戻らないと管理小屋から連絡があって、父とリグハーヴス騎士団が捜索に入った」
地下迷宮を抱えるリグハーヴス騎士団は、装備をしっかり整えて一層ずつ捜索していったと言う。
「廃砦で聖別された香を焚いて淫魔を遠ざけ、救助したそうだ。淫魔に襲われた人数が多かったから、安全地帯で数日泊まる羽目になったと書いてある。精力や気力を吸われていたものの、死者はいなかったと」
「なあ、アルフォンス。その時、地下迷宮に入った人数と出た人数は確認したか?」
「何だって?」
「魔物は招かれれば安全地帯にも入れるし、地下迷宮からも出られるんだ。淫魔が人化したら、人とは見分けが付かない。魔物だから目の色はマーヤと同じで赤紫色だが」
蝙蝠型の吸血鬼マーヤも人化していれば、可愛らしい幼女にしか見えないのだ。
「まさか、この時淫魔が外に出たと?」
「淫魔は人を殺さない。精が餌だからな。だから、解り難い。フィッツェンドルフ公爵は妻の他に妾を囲う慣習があるだろう? 妾は妻と違って公の場に出る必要はないんだ、アルフォンス」
「待て待てエンデュミオン、領主が淫魔を囲うなど……」
突飛な発想過ぎると、アルフォンスが反論しかけるが、エンデュミオンはニヤリと笑った。
「淫魔に嵌まると抜け出せないらしいぞ。救助まで数日掛かったんだろう? 淫魔に骨抜きにされても解らんぞ? 領主であれば地下迷宮で会った冒険者を気に入ったと理由を付ければ、帰りの同行者を増やせただろう。混乱の中人化してしまえば、大人数の中に紛れ込める」
「魔物を地下迷宮の外に連れ出すなぞ犯罪だ。しかも手続きも取っていないとしたら」
混血児でも居住には領主の許可がいるのだ。吸血鬼のマーヤは弱すぎて無害だったので、街に迎えられた。完全体の淫魔だったのなら、条件付けで聖別された魔道具は必須だ。
「聖別された魔道具を与えたのなら、教会に記録がある筈だ」
「それならベネディクトかイージドールに頼んで、大聖堂の記録を調べて貰えば直ぐ解るだろう。魔道具を渡す魔物などそう居ないぞ」
「確かに……」
アルフォンスはすぐにクラウスに頼み、黒森之國の魔道具の発行記録を精霊便でベネディクトに照会した。
魔道具の発行数が少ない為か、返事は思いの外早く戻ってきた。
「ここ五十年、フィッツェンドルフからは届け出なしだ。淫魔は居ないのか、それとも隠されているのか。もし居たとして、何故今フィッツェンドルフが荒れるんだ?」
エンデュミオンはフンと鼻から息を抜いた。
「アルフォンス、囲われるにあたり淫魔は対価を求めた筈だ。それが領主が代替わりして、対価を貰えなくなったとしたらどうだろう」
「出ていけば良いだろうに」
「黒森之國の淫魔は〈魅了〉以外、大した力はないんだ。本来力比べなら騎士が負けるような魔物じゃないんだぞ?」
「そうなのか?」
アルフォンスは淫魔と闘った事はないらしい。
「対価が貰えなくて、出ていけもしなければ、何処かから餌になる物を吸収したのではないかと思う。例えば、館に出入りする人達の精力などを」
「もしやフィッツェンドルフの領主や準貴族達の気力のなさは……」
「淫魔に精力を吸収されたから、だろうな。知らずに遠隔で精力を少しずつ吸われていれば、自覚がないのも頷ける」
エンデュミオンの結論に、アルフォンスは唸った。エンデュミオンは冷めた香草茶を舐め、ちらりとアルフォンスを上目遣いで見る。
「淫魔との混血なら人を〈魅了〉する性質がある。レベッカと言う末娘が騎士団で団体行動が普通に送れているのなら、混血ではないな」
「近々王が彼女と謁見するから、確認出来るよ。はあ、エンデュミオンの予測通りだとすると参ったな。手続きも取らず淫魔を囲っていたのが本当なら、文字通り首が飛ぶ事態だぞ。気付いた時点で届け出なかったのなら、現フィッツェンドルフ公も同罪だ」
届け出をして、その時点で魔物に聖別された魔道具を与えるか、地下迷宮へ送還するか対処をすれば良かったのだ。きちんと管理が出来ていれば、淫魔でも囲っておけたものを。
「少なくとも王と三公爵、教会関係者には知られるからな。前公爵の淫逸を恥として隠そうとしたのだろうが……」
「領主が淫魔を不正に囲っていたなど、暴動が起きるからそのまま公表は出来まい。心神喪失による蟄居といったところか」
「聖都の近くの海岸のない小島が、罪を犯した王族用の幽閉場所だ。公爵もそこに送られるだろう」
邸もあるし、身の回りの世話をする者も最低限いるが、小島からは一生出られない上、魔法を封じる魔道具を付けられると言う。
「さてと、エンデュミオンはベネディクト達に〈退魔〉と〈魅了〉の護符を作って貰わねばな。直接フィッツェンドルフの領主館に行く者達の分だけで良かろうが、幾つだ?」
頭の中で人数を数え始めるエンデュミオンに、教会への寄付を増やそうとアルフォンスは決めた。
フィッツェンドルフの魔物に見当を付けたエンデュミオンです。
フィッツェンドルフ始末の後半に入りました。