イージドールと〈木葉〉
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イージドールの密かなお仕事。
212イージドールと〈木葉〉
ヨハネスはフィッツェンドルフの準貴族エメリヒに雇われている〈木葉〉である。雇われているといっても、元々は親がエメリヒの邸の使用人だったので、恩があるのだからと無給である。財布の紐が渋すぎる。
ヨハネスは修道士で助祭なので、聖務以外での臨時収入は誉められた事ではないので、その点は構わないのだが。
エメリヒは王宮の文官だが、彼の妹がマクシミリアン王の側妃カサンドラである。
最初の頃はカサンドラの王宮での社交の為の情報を集めるよう指示されていた。それからリグハーヴスに降臨した〈異界渡り〉の作るお菓子について。そして──。
「どういう事だ?」
就寝の間際に来た精霊便には、司祭ベネディクトの〈女神の祝福〉について調べろと書かれていた。
〈女神の祝福〉は高位の〈祈り〉を持つ聖職者が到達すると言われる奇跡だ。月の女神シルヴァーナの代行として〈祝福〉を与えられる能力。
現在〈女神の祝福〉が使えるのは聖女フロレンツィアと司祭ベネディクトだけだと言われている。
流石に王族の聖女フロレンツィアを調べる訳にはいかないのだろうが、〈女神の祝福〉を調べてどうするのだろう。ああいう奇跡は女神様に認められた者のみが行使出来るのだろうし、司祭ベネディクトに至っては無意識に発動している気がするのだ。
──司祭ベネディクトは善人過ぎる。
〈木葉〉としての勘が、触れてはならないとヨハネスに知らせている。ベネディクトは憑かれてこそいないものの、リグハーヴス在住の妖精達に好かれている。これが何を意味するかと言えば、ベネディクトに危害を加えれば彼ら全員から呪われるのだ。下手をすれば人生が詰む。
コンコン。
部屋のドアがノックされ、ヨハネスは慌てて手紙を修道服の袖の内側に入れた。
「はい」
「イージドールです」
「今開けます」
ヨハネスがドアを開けると、司祭イージドールが立っていた。蜜蝋色の髪をした背の高い青年。珍しい〈暁の旅団〉出身の修道士だ。昔ながらの慣習で、王と主教会の〈人質〉とされた。所謂、〈女神の貢ぎ物〉。
部屋の中に入り、イージドールは後ろ手にドアを閉めた。
「今、精霊便が来ましたね」
修道士同士は丁寧な言葉を使う。友人同士であるベネディクトとイージドールは気安い言葉使いをしていたが、ヨハネスには丁寧な言葉使いをしていた。
その穏やかなイージドールの言葉に、ヨハネスは驚いた。
離れた場所に居た筈のイージドールが精霊の動きを感知していたからだ。もしかしたら彼に憑いているケットシーのシュヴァルツシルトが気付いたのかも知れないが。
そのシュヴァルツシルトの姿は、いつものイージドールの頭巾のフードの中にはなかった。
「『司祭ベネディクトの〈女神の祝福〉について調べろ』ですか」
「な……!?」
驚愕するヨハネスに、イージドールは薄く笑った。
「兄弟ヨハネス、精霊にも感情はあるんですよ。〈お礼〉をくれない相手と、〈お礼〉をくれる高位精霊の契約者だと、どちらのお願いを聞いてくれると思いますか?」
広いとは言えないヨハネスの部屋の空気が変わっていく。息苦しい程の──浄化だ。
イージドールの周囲に一つ二つと色の異なる光の玉が増えていく。黒森之國の主要七属性の光が揃い、精霊たちは人型に姿を変えた。
「特級精霊……」
イージドールの周囲に現れたのは、全て成人した姿の精霊だった。
主要属性全ての特級精霊と契約出来るなど、大魔法使い並みの魔力だ。
「僕の正式な名前はイージドール・モルゲンロートと言います。元は現族長の次に継承権を持っていました」
「ど、どうして修道士に……」
「弟が可愛かったからですよ」
テオを教会へ入れるには幼すぎたから、イージドールが代わりに〈人質〉になったのだ。族長になれる素質を、テオも持っていたから。
「〈暁の旅団〉からの〈女神の貢ぎ物〉が闘えない筈がないでしょう。要人警護の壁になるのだから」
時として王族の壁になる事もあるのが〈女神の貢ぎ物〉だ。
〈女神の貢ぎ物〉が誰を警護するかは、王と司教が決める。今回はエンデュミオンの意見を通した形になっているが、王も司教も、敵対しないリグハーヴス領の教会に居る、誰の息も掛かっていないベネディクトの存在を重視したのだ。それほど〈女神の祝福〉が使える聖職者は稀有だ。
「兄弟ヨハネス、僕が守っているのはベネディクトなんですよ」
「……」
ごくりとヨハネスの喉が鳴る。微笑んでいるイージドールの顔が恐ろしい。いつもはヘイゼルの瞳が鮮やかな緑色に変化している。
「僕の邪魔をするのなら、覚悟して下さい。後悔させますよ、色々と」
色々とはなんだ、色々とは。
「ちょ、待って下さい、司祭イージドール! 私はまだ死にたくないんで!」
「おや、女神様の御元に急ぎたいのかと思いましたよ」
「違います! 今回の手紙の指示は私も受ける気が無かったんです。何がしたいのかさっぱりで。司祭ベネディクトは善い方ですから、変な事に巻き込みたくありませんよ」
幾ら〈木葉〉でもヨハネスはその程度の分別はある。腐っても聖職者なのだ。
「……そうですか。ならば、フィッツェンドルフからは手を引いた方が身の為です。これから大鉈が振るわれますからね」
「まさか……」
「王が動きます」
通常世襲性の領主だが、目に余る内政をした時には王が任命権を発動出来る。これは『王が國民を領主に預けている』からであり、その任務を全う出来ていないと判断された領主は解任されるのだ。
「今手を打たなければフィッツェンドルフは沈みますよ」
「そんな」
「先日の嵐、既にフィッツェンドルフは沈みかけたんですよ? 湾内に水竜がいたからあれで済んだんです。もう水竜はいませんから、次の守護竜が来ないまま再び嵐が来れば沈みます」
イージドールの隣にいた水の精霊が首肯した。嘘ではないのだ。
「兄弟ヨハネスの依頼主には、生き残りたければ余計な動きをするなと伝えなさい。何の罪もない第一王子の立場をこれ以上悪くしたくなければね」
ヨハネスの依頼主を、イージドールは既に知っていた。ならば最早、王の耳にも入っているのだろう。
いつの間にか、部屋からイージドールの姿は消えていた。冷たい汗が背を伝う。
あれは、無理だ。殺せない〈女神の貢ぎ物〉だ。
ベネディクトを全属性持ちの大魔法使いが守護しているようなものではないか。しかも〈暁の旅団〉の者ならば、生身でも闘える強さがあるのだ。おまけにケットシー憑きとくる。
「殲滅された上に呪われるだろ……」
生き残れる気がしない。
だからヨハネスはペンを取り、一言だけ紙に書いてエメリヒに精霊便を送った。
──『時、既に遅し』と。
ヨハネスの部屋から出たイージドールは特級精霊を還し、ベネディクトの部屋へ向かった。
ベネディクトはラルスから貰った薬草茶が切れたら途端に熱を出したのだ。ヴァルブルガを呼ぼうと思った所に、精霊便らしき風の精霊が近付いて来たので呼び止めたら、何やら不穏な内容だったので動いたのである。
イージドールは、ヨハネスが外部と情報のやり取りをしている事には気が付いていた。
精霊は上位の精霊の頼みは聞いてくれるので、毎回先に読ませてもらっていたのだ。通常こんな手は使えないが、特級精霊と契約しているイージドールだから使える。
特級精霊と契約している事は、王も司教も知らないのだが。ベネディクトも精霊が見えないので、知らない。ケットシーであるエンデュミオンには知られているだろう。
静かにベネディクトの部屋のドアを開けて滑り込む。
部屋の中では往診に来ていたヴァルブルガが、ベネディクトの胸の音を聴いていた。
「夏の疲れで体力落ちて掛かる風邪。咳止まらなければグレーテルかヴァルブルガ呼べって、ラルスに言われなかったの?」
「いわれた」
ベネディクトの代わりにシュヴァルツシルトが答える。
「何故呼ばないの」
「すみません……」
ベネディクトが咳き込みながら謝る。
むうっと鼻の頭に皺を寄せて怒る魔女ヴァルブルガは、可愛いがちょっぴり怖いのだ。
ベネディクトの胸に前肢を置いて、〈治癒〉で肺や気管支の炎症を抑えてから、ヴァルブルガは処方箋を書いてシュヴァルツシルトに渡した。
「時間遅いけど、シュヴァルツシルトならお薬貰えるよね」
「あいっ。いってくりゅ」
ポンッとシュヴァルツシルトが〈薬草と飴玉〉に〈転移〉していく。
ヴァルブルガは〈時空鞄〉から白い布と青い糸を通した針を取りだし、刺繍をしていく。
手早く〈保冷〉の〈魔方陣〉を縫い上げ、イージドールに手伝わせてベネディクトの枕を覆わせる。
枕に頭を乗せたベネディクトが、ほうと息を吐いた。
「ひんやりして来ました」
「熱が下がるまでは動き回らないの。熱が下がっても二、三日は安静に。お祈りとか寝ていても出来る聖務だけにして」
「寝たままでお祈りは……」
「お祈りはお祈りだから、女神様気にしないと思うの」
そういうものらしい。
「ミサは僕が代理で執り行うよ」
いつもは主席司祭のベネディクトが取り仕切っているが、副司祭のイージドールもミサを行える。
「お願いするよ」
「信徒の皆が心配するから、早く良くなれ」
イージドールはベネディクトの若白髪混じりの鋼色の髪を、くしゃくしゃと撫でた。
シュヴァルツシルトが薬草茶の茶葉を持って帰ってきたのでベネディクトを見ていて貰い、イージドールはヴァルブルガと台所へ薬草茶を淹れに行く。
薬缶でお湯を沸かし、ティーポットに入れた薬草茶の上に注ぐ。ラルスの薬草茶は飲みやすく香りも良い。ふわりと立ち上った湯気に含まれる薬草茶の香りに、ヴァルブルガが鼻をひくつかせた。
「そっちはどうなったの」
「へし折れたと思います。……ベネディクトを調べてどうするつもりなんでしょうね」
「〈女神の祝福〉は女神シルヴァーナの代行と言われる奇跡だから、誰かをベネディクトに〈祝福〉させたいのかも。でも相応しくない者はベネディクトでも〈祝福〉出来ないから無駄」
ティーポットにティーコージーを被せ、ヴァルブルガは〈時空鞄〉から蜂蜜玉が入った瓶を取り出す。
蜂蜜玉はコボルトが持ち歩き用に作り出したもので、最近冒険者でも手に入るようになってきた物だ。
ハイエルンの商人や上位貴族に囚われていたコボルトが、領主の解放宣言により人狼に保護されてから、自由に生産が出来るようになったので流通が変化したらしい。
ヴァルブルガの場合はクヌートやクーデルカ経由で手に入れているのだろうが、コボルトと知り合いだとこういった生産品を入手しやすい。
「聖都のお膝元なのに、随分と杜撰ですね」
「水竜キルシュネライトへの信仰も殆どなかったみたいなの」
成竜なのに驚くほど力が落ちていると、エンデュミオンとラルスが二人で頭をくっ付けてこっそり話しているのをヴァルブルガは聞いていた。
〈Langue de chat〉や〈薬草と飴玉〉に居れば、無意識にお世話され〈貢ぎ物〉を与えられるので、回復はそれほど遠くないだろう。
じっくり茶葉を蒸らした薬草茶をマグカップに注ぎ、そこにヴァルブルガは蜂蜜玉を一つ落とす。
「これは霊峰蜂蜜の蜂蜜玉。薬草茶に一つ入れてベネディクトに飲ませてあげて」
「有難うございます」
霊峰蜂蜜は本来とても高価だ。ベネディクトが寝込むとラルスやヴァルブルガは何処からともなく取り出しているのだが、これもコボルト経由に違いない。
「じゃあ、ヴァルブルガは帰るの。薬草茶は食後のお茶がわりに飲ませてね」
「遅くに有難うございます」
イージドールは診察代の半銀貨一枚をヴァルブルガに渡した。霊峰蜂蜜代は受け取ってくれないのだ。
「何かあったらいつでも呼んで」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
ポンッと音を立ててヴァルブルガが台所から消えた。
「……ヴァルブルガがエンデュミオンに伝えてくれるだろうし、大丈夫かな」
イージドールは湯気の立つマグカップを持ってベネディクトの元へ戻る。
「薬草茶持ってきたぞ」
「有難う。シュヴァルツ寝ちゃったみたいだ」
ベネディクトの枕元でシュヴァルツシルトが仰向けで寝息を立てていた。
「いつもなら寝ている時間だからな」
ベッドに起き上がったベネディクトの温もりが残る場所へと寝返りを打ち、シュヴァルツシルトは満足そうに敷布に顔を擦り付けている。
少し冷えて来たのかもしれない。
「ラルスの薬草茶は飲みやすくて有難いよ」
マグカップで掌を温めながら、ベネディクトが薬草茶を啜る。大抵の薬草茶は飲み難いのだ。薬効によっては、ラルスが作る物でも苦い薬草茶があるらしいが。
「ベネディクト、マダム・キトリーのフェーブは持っているか?」
「何だい? 唐突に。あれなら机の引き出しの中にある小物入れに入っているけど」
「一寸失礼」
イージドールはベネディクトの書き物机の引き出しを開け、古びた木の小箱の中を確かめる。
小箱の中にはシャツの予備釦や、シュヴァルツシルトがケットシーの里で拾って来てベネディクトにあげた緑色の魔石と一緒に、陶器の指輪が入っていた。陶器の指輪には紫色の羽を持つ蝶の絵付けがされている。
イージドールは〈時空鞄〉から魔銀の細い鎖を取り出して指輪を通し、ベネディクトの首に掛けた。
「このフェーブは悪くないモノみたいだから、身に付けていた方が良い。ベネディクトを守ってくれるだろう」
「そうなのか?」
「うん」
イージドールはテオから不思議なフェーブの話を聞いていた。孝宏が以前お菓子に入れて客に配った物の中には、探し物をしてくれるフェーブや、赤ん坊が泣くと鐘がなるフェーブなど、人を助けるフェーブがあると。
確かに微かに魔力を感じるので、切っ掛けがあれば〈何か〉が起きるかもしれない。
「お守りだと思って」
「そうだね」
ベネディクトが薬草茶を飲み終わり、ベッドに横になっても、イージドールはそのまま部屋に残った。床に膝を付き、書き物机の椅子に軽く組んだ手を乗せて、夜の祈りを捧げる。
最早聖書を開かなくても空で口に出来る聖句を唱え終え、イージドールは吐息を漏らした。
放浪癖に近い性質のあるテオが聖職者にならなくて良かったと思う。どう考えても教会の生活には馴染めなかっただろう。
いつの間にか、ベネディクトの寝息が深くなっていた。イージドールの聖句が子守唄代わりになったのだろうか。
眠るベネディクトの隣で、もぞもぞとシュヴァルツシルトが動く。
「……いーじゅ?」
「ここにいるよ」
「だっこー」
目を覚ましてしまったシュヴァルツシルトをベッドから抱き上げ、ベネディクトを起こさないように、ベッド脇の小物箪笥に置かれた魔石ランプの明かりを弱める。
すんすんとイージドールの匂いを嗅ぎ落ち着いたのか、シュヴァルツシルトが腕の中で再び眠り始めた。
「……この者達に月の女神シルヴァーナの祝福を」
部屋の中に銀色の光がチラチラと舞い降りた。窓からの月の光を受けて、青く煌めく。
〈女神の貢ぎ物〉──。
それは〈暁の旅団〉出身で、月の女神シルヴァーナと聖人に仕える専属の聖職者。
民族的戦闘能力の高さから王族等の要人警護に用いられる事が多いが、本来は聖人の護衛である。
聖女は王族の未婚女性の中から選出されるが、聖人は民間人の中から現れる〈女神の奇跡〉を行使出来る者を差す。
聖人は〈女神の貢ぎ物〉自身が選び、聖人が死ぬまで主替えをしない。
いつからか王と主教会が〈暁の旅団〉を〈暁の砂漠〉に封じる為の〈人質〉となったが、聖人の守り人という役目は遥か昔から一族で担っていたらしい。
聖典にも説話集にも記されず、〈女神の貢ぎ物〉自体が、就任した時に神託を受けるまで知らされない役目なのだが。昔過ぎて〈暁の旅団〉でも失われていた伝承だった。
神託を受けたイージドールすら、聖人が存在するのか危ぶんだのだが、神学校時代にあっさりベネディクトを見付けた。しかし、見付けたと思っても今度は簡単には教会を異動させて貰えない立場なのには参った。ヴァイツェアとリグハーヴスでは遠すぎる。
近くに行くまでベネディクトが無事でいるのかやきもきしてしまった。その辺り、女神様は残念ながらご助力してくださらないのだ。
エンデュミオンが司教と知り合いで、イージドールを引き抜いたのには驚いたが感謝したい。彼の目には何か他とは違うものが見えているのかもしれない。
(とは言え、聖女が居るからな……)
埋もれた伝承の聖人と違い、王族出身の聖女フロレンツィアが居る。
フィッツェンドルフの新しい領主が正式に任命されたら、彼女が聖別の儀式をするだろう。
「おやすみ、ベネディクト」
聖人の存在が明らかになるまで、イージドールは一人、ベネディクトを守り続ける。
久し振りの人を書こうで、助祭ヨハネスさん。特に悪人ではありません。
イージドールは本当は〈暁の旅団〉の継承者でしたが、教会に入りました。その際、テオに継承権を譲渡しました。
テオは特に精霊契約はしていませんが、頼めば特級精霊が来てくれます。
イージドールは継承放棄したので、遠慮なく特級精霊と契約しました。大魔法使いフィリーネ並みの能力がありますが、気付いているのはエンデュミオン達妖精だけかも。でも、知らない魔法は使えないので、〈転移〉なんかは使えない気がします。でもシュヴァルツシルトがいるので気にしない。
クラウスとイージドールは敵に回したら駄目です。
マダム・キトリーのフェーブ。忘れた頃に出て来るかも……。