ラルスと水竜
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
薬草師ラルスとその家族。
211ラルスと水竜
ラルスの朝の日課はエンデュミオンの温室に行って、〈精霊水〉を汲んでくる事だ。
「む?」
薬缶を持って温室に〈転移〉し、ラルスは左右で色の違う瞳を瞬かせた。
〈精霊の泉〉を囲む苔むした丸い石の上に、青い鱗の水竜が丸くなって寝ていたのだ。
「いつの間に水守が来たんだ? 昨日は居なかったよな。んー、何か持ってたかな」
ラルスは〈時空鞄〉に前肢を突っ込み、おやつがないか探った。
フィッツェンドルフで長く暮らしていたラルスは、薬草魔女のドロテーアと一緒に湾に棲んでいた水竜の祠に時々貢ぎ物を置いていた。だから、自然に水守らしき竜におやつを置いてやろうと思ったのだ。
〈時空鞄〉の中には先日ルッツに貰ったお土産のロクムが入っていた。〈暁の砂漠〉名物の餅菓子のようなものだ。
薔薇のロクムを一欠片取りだし鼻先に置こうとしたところで、水竜が目を覚ました。
「……」
水竜はロクムとラルスを交互に見る。
─くれるの?
「うむ。ここの水守になったんだろう? 貢ぎ物としては体裁が整っていなくて悪いが」
─有難う!
水竜はラルスから薔薇色のロクムを受け取り齧りつく。
─もちもちして美味しい! ケットシーの里から来たの?
「いや、ラルスはエンデュミオンの幼馴染みで、この近所の〈薬草と飴玉〉の薬草魔女ドロテーアとブリギッテと暮らしているんだ。ラルスは薬草師だ」
─ふうん。キルシュネライトは昨日フィッツェンドルフから来たのよ。
「フィッツェンドルフ!? もしかして湾に棲んでいた水竜か?」
─そうよ。フィッツェンドルフが嫌になったから、エンデュミオンに連れてきて貰ったの。あのままだと討伐されそうだったし。
はぐはぐとキルシュネライトがロクムを食べながら、思念を飛ばしてくる。
「ラルス達もフィッツェンドルフから追い出されたのだ。あそこの領主は相変わらずなのか」
─近いうちに領主代わりそうよ? 王が動いてるみたいね。
「……代わりなぞ居たか?」
ラルスが首を傾げる。
─ヴィクトアの腹違いの妹が居るわよ。レベッカだったかしら。
「女公爵か……」
黒森之國の場合は結婚しても女公爵が領主のままだが、誰と結婚するかで周囲が騒がしくなりそうだ。レベッカが妾腹ならば、優位に立とうとする準貴族が出てくるだろう。その前に王が婿を指定しそうだが。
「よいせ」
ラルスは薬缶を〈精霊の泉〉の中に沈め水を汲む。
─行っちゃうの?
「ラルスは薬草師の仕事があるのだ。暇なら遊びに来るか?」
─わあい、行くー!
キルシュネライトがラルスの黒い毛に覆われた頭の上に飛び乗る。
「待て、知らせないと」
頭の上にキルシュネライトを乗せたまま、ラルスは薬缶を〈時空鞄〉にしまってから温室を出た。
〈Langue de chat〉の裏庭に敷いてある煉瓦道を歩いて、台所のドアにあるノッカーを叩く。上下に別れたドアの下の方にドアノッカーが付いているのだ。ケットシーの前肢はノックに不向きなのである。
「はーい」
直ぐに返事があって、ドア全体が開いた。店に出す菓子の準備を始めていたのか、孝宏が開けてくれた。
「おはよう、ラルス。キルシュネライトも一緒なんだ」
「おはよう、ヒロ。キルシュネライトをうちに遊びに連れていっても良いか?」
「大丈夫だと思うけど。用事があったらエンディが〈薬草と飴玉〉に行くよ」
「うむ。頼む」
これで伝言は済んだ。ラルスは孝宏に右前肢を挙げて挨拶し、〈薬草と飴玉〉へと〈転移〉した。
「ただいま」
店へ戻ったラルスは、薬缶をカウンターの内側にある簡易台所の作業台に置いた。それから店舗と続きのドロテーアとブリギッテが薬草飴を作る作業場を通ってから一度廊下に出る。作業場の隣のドアが台所と居間がある部屋なのだ。
〈薬草と飴玉〉にあるドアは、全てラルス一人でも開けられるドアに改造されていた。何しろケットシーは身体が小さいのだ。
「お帰りなさい、ラルス。あら、お客様?」
腸詰肉と目玉焼きが乗った皿を、台所のテーブルに並べていたドロテーアが微笑む。笑うと眼尻に皺が寄るようになったが、若い頃と変わらず美人だとラルスは思う。
「エンデュミオンの温室の水守になった水竜のキルシュネライトだ。フィッツェンドルフの湾内に居た水竜だよ、ドロテーア」
「まあ。私達も少し前まではフィッツェンドルフに居たのよ。ご縁があるのね」
ドロテーアは洗い立ての柔らかい布巾をテーブルの一角に広げた。その上にラルスは頭の上から下ろしたキルシュネライトを乗せる。
「果物はお好きかしら」
ブリギッテがクルミやアーモンド、レーズンや干し無花果が入った小皿と、小さく切った梨と半割りにした緑色の葡萄の小皿を、キルシュネライトの前に置く。飲み物は〈精霊水〉で淹れた香草茶だ。
「卵と腸詰肉は要るか?」
─ううん。
キルシュネライトは頭を左右に振り、目の前の〈貢ぎ物〉を見詰めた。
温室に連れてこられた昨日も、孝宏とエンデュミオンはキルシュネライトに美味しい果物と木の実を用意してくれたのだ。そして今日はラルスがご馳走してくれる。
「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」
─今日の恵みに。
食前の祈りを唱え、朝食が始まる。
キルシュネライトの一口大に切られた梨は甘く瑞々しく美味しかった。葡萄も半割りにして種まで取ってある。
─美味しい。
「沢山食べろ。後で鱗を薬湯で拭いてやろう。艶々になるぞ」
─うん。
信仰が乏しくなり、貢ぎ物も減ったキルシュネライトの鱗はすっかりくすんでいた。薬草師のラルスはそれを見逃さなかった。
─このお茶も美味しいわ。
「ラルスが調合したものなのよ。気に入って下さって嬉しいわ。ジャムを入れて甘くしても良いのよ」
─うん。少し入れて欲しいな。
ドロテーアにお茶にジャムを入れて貰い気に入ったのか、キルシュネライトの尻尾が揺れる。
「温室に戻りたくなったら送っていくから、ゆっくりしていくと良い」
─有難う。
〈Langue de chat〉は子供も居るから、煩く騒ぐほどでは無いとはいえ賑やかだ。その点〈薬草と飴玉〉は大人しかいないので静かだ。
はしゃいでいるように見えるが、キルシュネライトはグリューネヴァルトに比べると痩せているし、鱗の艶もない。
フィッツェンドルフは漁業をしているのに、随分と水竜をなおざりにしていたらしい。
前肢を器用に使って葡萄を齧るキルシュネライトを見守りつつ、ラルスは鼻からふーと息を抜いた。
キルシュネライトはドロテーア達が朝食の後片付けの後で妊婦の往診に向かうと、ラルスに付いて店に来た。
「うちは薬草魔女だから、魔女の診療所よりは忙しくはないんだ」
─そうなの?
「引き初めの咳や鼻水程度ならうちでも治せるが、普段は魔女グレーテルの患者の調薬が殆どだな。あとは子供がおやつを買いに来る」
〈薬草と飴玉〉では薬草飴以外にも、子供がおやつに買える飴も置いている。
「弟のシュヴァルツシルトが使っていた籠があるから、のんびりしているといい」
ラルスはカウンターの壁側に作りつけられた棚の一つに置かれていた籠に、キルシュネライトを入れた。柔らかい毛布が敷き込んである。
「ラルスは薬草の在庫の整理をしてくる。客が来たらそこのベルを振って貰ってくれ」
カウンターの上に、銀色のベルが伏せて置いてあった。
─解ったわ。
ラルスが奥に行き、キルシュネライトはふかふかの毛布に鼻先を埋めた。毛布にはラルスに似た匂いが少し残っていた。
シュヴァルツシルトは司祭イージドールに憑いている。
普段は一緒にくっついて聖務をしているのだが、たまに教会の外に遊びに行く事もある。
今日はイージドールにベネディクトののど飴を買ってきてくれと頼まれた。秋になりベネディクトが咳き込むようになったからだ。
風邪の引き初めのような症状だと、〈治癒〉は効かない。のど飴や薬湯で咳を抑え、栄養のある消化の良い物を食べて、暖かくして寝るのが一番だ。
ぽんっと〈薬草と飴玉〉に〈転移〉してきたシュヴァルツシルトは、誰も居ない店内にこてりと首を傾げた。
奥にラルスの気配がするので、在庫を整理しているのだろう。直ぐに戻ってくるだろうから、シュヴァルツシルトはそのまま店番をする事にした。
階段式の踏み台をえっちらおっちら登る。一般的なケットシーより身体が小さいので、前肢も使わないと登れない。
「……にゃ?」
何かの気配を近くに感じ、シュヴァルツシルトは首から提げていたレンズを服の中から引っ張りだし、青い目の前に翳した。
「りゅう」
棚の中にあるシュヴァルツシルトの昼寝用の籠に、青い鱗の水竜が丸くなって寝ていた。
すうすうと寝息を立てる水竜は、何だか元気がなく見えた。
「にゃんっ」
シュヴァルツシルトはぽむっと前肢の黒い肉球を合わせた。
「こにょもにょに、ちゅきにょめがみしるゔぁーにゃのしゅくふくを」
きらきらと銀色の光が水竜に降り注ぐ。
「にゃんっ」
むふーとシュヴァルツシルトは口元を膨らませた。イージドールやベネディクトがやっているのを真似したのだ。上手く出来た気がするので、棚の縁に座り鍵尻尾を揺らす。
─……。
キルシュネライトは毛布に半ば埋もれたまま、目の前のラルスによく似た黒いケットシーを窺っていた。
誰か現れたなと思ったら、いきなり〈女神の祝福〉を繰り出したのだ。奇跡扱いされる〈祝福〉をしたのは誰かと思えば、小さなケットシーだった。胸にシルヴァーナの紋章を刺繍した司祭服を着ていたが。
ケットシーで司祭とはこれいかに。
「お、来てたのかシュヴァルツシルト」
ラルスが奥から戻ってきて、小さなケットシーに声を掛ける。
「あい」
「今の時季ならベネディクトののど飴か。朝と夜に飲む薬草茶も持っていけ。霊峰蜂蜜の蜂蜜玉もあるから」
「あいっ」
一包ずつ紙の上に薬草茶を分けていくラルスを、キルシュネライトは思わず呼び止めた。
─ねえ、ラルス。
「どうした?」
─この子、今〈女神の祝福〉使ったわよ? 司祭なの?
「シュヴァルツシルトの主が司祭で一緒に聖務をしているんだ。それに主席司祭のベネディクトが〈女神の祝福〉を無意識に発動しているからなあ」
ケットシーは主や回りにいる者のスキルを習得する傾向にある。シュヴァルツシルトがベネディクトの〈女神の祝福〉を習得しても不思議ではない。ラルスはイージドールも使えるのではないかと疑っているが。ベネディクトより器用そうなので、意識して発動を抑えたりしていそうだ。
「キルシュネライトの身体には良かったんじゃないか? 少し鱗の艶が出た気がするぞ」
─え、ええ。
確かに身体に力が戻ってきた気がしないでもない。
「ふむ。シュヴァルツシルト、イージドールと毎日水竜キルシュネライトにお祈りをしてみてくれ。元気になれーってな」
「あいっ。おいのりしゅる」
ラルスは手際よく分包した薬草茶を茶色い紙袋に入れ、色々な味を詰めたのど飴の瓶も追加する。
シュヴァルツシルトが差し出した財布から銅貨を数枚取り、領収書を入れて返す。
「咳が治まらなかったり熱が出たら、直ぐにグレーテルかヴァルブルガに診せるのだぞ」
「あいっ」
紙袋と財布を〈時空鞄〉にきちんとしまわせてから、ラルスはシュヴァルツシルトに、水色のラムネ味の棒つき飴の瓶も持たせた。中に白いラムネを混ぜてある最近の新作だ。
「孤児院の子達と食べろ」
「ありがと」
ラルスに頬擦りしてから、シュヴァルツシルトは教会に戻っていった。
─可愛がっているのね。
「歳が離れているからな。里から出てしまうと滅多に会えない方が多いんだが近くに居るし。シュヴァルツシルト、可愛いだろう」
エンデュミオンもグラッフェンを可愛がっているし、何もおかしな事はない筈だ。
─エンデュミオンの弟ねえ。
「柄は似ているが、性格は似ていないな。家具大工の娘に憑いたから、大工職人になりたいらしい」
─ケットシーが職人。
「同じ家にコボルトの大工職人が居るんだ」
─リグハーヴス、変わってるわね……。
フィッツェンドルフでは妖精自体見掛けない。昔は──随分昔は妖精も竜も各地にいたのだが。
「少しずつ戻っていくのではないかと思うがな。〈柱〉が一つしかない黒森之國では、塔や竜が居なければ土地は守れまい」
─そうね。〈柱〉はリグハーヴスを選んでしまったものね。
以前は國の中心に〈柱〉があったからこそ、守護竜や妖精が姿を隠しても國は傾かなかった。しかし、今や違う。
フィッツェンドルフだけではなく、他の領も舐めていれば痛い目に遇うだろう。
「キルシュネライト、薬湯風呂に入るか? 香りが良いやつにしよう」
─良いの? 鱗ぴかぴかになるかしら。
「ああ、血行が良くなるからな。エンデュミオンにも入れて貰うと良いぞ」
しかしながら、他領の事は他領でどうにかするものだ。
ラルスはリグハーヴスの為にも、新しい水守の水竜をもてなすのだ。
後にリグハーヴスの河川の水質が上がり、氾濫もしなくなったのは、少なからずとある薬草師ケットシーの助力の成果だったのだが、それは誰も知らない物語だ。
癒し手であるドロテーアのケットシーのラルスもやっぱり傷付いたものを見ると放っておけません。
そしてシュヴァルツシルトも同じく司祭(仮)なので、放っておけません。
シュヴァルツシルトはケットシーなので、正式な司祭職に着いている訳ではないのですが、イージドールにくっついて聖務をしています。
噛み噛みでも発動する〈女神の祝福〉です。
これからキルシュネライトは温室に居るか、〈Langue de chat〉の室内に居るか、ラルスの頭の上に居るか、になります。