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海の街からの移住者達(中)

ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。

リグハーヴスで人気の糸紡ぎ職人は……。


207海の街からの移住者達(中)


 フィッツェンドルフからリグハーヴスへの移住希望者募集要項には、最後に他の領にはない項目がある。それは『フィッツェンドルフで治療不可能な病人とその家族』である。

 アルフォンス・リグハーヴスは己の諜報である〈木葉このは〉から、最近のフィッツェンドルフの医療水準の低下を聞き及んでいた。

 何しろ妊婦や乳幼児には欠かせない薬草魔女ヘクセドロテーアとブリギッテを放逐し、リグハーヴスが受け入れた経緯がある。それとなく調べさせた所、領内に居た魔女ウィッチまでも待遇の酷さからフィッツェンドルフを出ていた。

 魔女は男性でもなれるが、圧倒的に女性が多い職種だ。フィッツェンドルフは元々男性優位の領であったが、現在の領主になってそれが顕著になったのだろうと思われた。

 冒険者の街であるリグハーヴスだが、手に職があり即戦力となる者だけでなく、病人も受け入れるべく移住希望者要項に追記されたのは、その為である。

 他領の民であろうとも、黒森之國くろもりのくにの民なのだから。

 アルフォンス・リグハーヴス公爵とは、そういう男だった。


「移住希望者募集要項……」

 普段は特売のチラシも入らないのに、ビアンカの暮らす小屋のドアの隙間に差し込まれていたのは、ザラ紙よりも少し良い紙に刷られた移住者募集要項だった。

 ビアンカは母親のクラーラに読み書きを習っていたのできちんと読めた。フィッツェンドルフでは読み書きを習うのにはお金が掛かる。だから、貧しい家の子は文字が読めない者も多い。

 ビアンカの家もとても貧しい。父はビアンカが幼い頃に病気で亡くなり、女でひとつで育ててくれた母も今は胸の病で臥せっている。

 ビアンカにうつっていないのでうつる病気ではなさそうだが、咳が酷く出る為、大家に借りていた部屋を追い出され、今は敷地の端にある物置小屋にお情けで置いて貰っている。

 この移住者募集要項を差し込んでいったのも大家だろう。

「リグハーヴスは北だから、雪が降るのね」

 多分、冬はとても寒いだろう。そんな場所でクラーラは生きていけるのだろうか。

 狭い小屋の中の粗末なベッドでは、先程飲ませた蜂蜜湯が効いたのか、母親のクラーラが寝息を立てていた。いつも咳が酷く、良く眠れないのだ。眠れている時は、なるべく音を立てないようにしているビアンカだ。

 静かに溜め息を吐き、それでもビアンカは移住者募集要項を読んでいった。そして見付けた。

「……え、嘘、病気の人も受け入れてくれるの……?」

 お金のないクラーラの診療は、フィッツェンドルフの医者からはもう受けられない。薬もなく蜂蜜湯でごまかしている状態だった。

 病人の場合はギルドを通さず、精霊ジンニー便でリグハーヴスの領主館宛に直送の事、と書いてあった。

 だから、ビアンカは迷わずその紙の裏に現在の状況を記し、なけなしの蜂蜜ホーニック一匙で風の精霊(ウィンディ)に託したのだった。


「ああい」

 その日遊びに来るなり、カティンカはヴァルブルガに白い封筒を差し出した。

「なあに?」

「ア、アルフォンスと、ク、クラウスからおねがい。お、おうしんしてほしいって」

「往診? 領主館の誰か具合が悪くなったの?」

「ううん。フ、フィッツェンドルフ」

「フィッツェンドルフ?」

 意味が解らないまま、ヴァルブルガは封筒を開けた。中には丁寧な文字で書かれた手紙が入っており、魔女ヴァルブルガにフィッツェンドルフへ往診に行き、状況によってはそのままリグハーヴスに患者を連れてきて欲しいと書いてあった。

「……」

 ヴァルブルガは人見知りである。だからと言って、あるじのイシュカについてきて貰う案件でもない。イシュカは魔女でも医者ドクトルでもなくルリユールだからだ。

「どうしたんだ? ヴァルブルガ、カティンカ。二人して困った顔をして」

「エンデュミオン、これ」

 ヴァルブルガは通り掛かったエンデュミオンに、アルフォンスからの手紙を渡した。エンデュミオンは手紙にざっと目を通した。

「あー、今移住者の面接で忙しいみたいだからな。流石にあの二人が病人に会いにフィッツェンドルフ迄は行けないだろう」

 グレーテルも日常の診療がある。その為に補助的な診療を受け持つヴァルブルガに白羽の矢が立ったのだろう。何しろケットシーなので〈転移〉が出来る。問題はヴァルブルガが単独で外出しない事なのだが。

「確実にエンデュミオンが一緒に行くと計算済みなんだろうな」

 手紙の内容は〈お願い〉の形で書かれている。アルフォンスの事だから後でちゃんとお礼をしてくれるだろうが、こんな形で来るのだから随分〈急ぎ〉のようだ。

「ん、もう一枚入ってたの」

 ヴァルブルガが薄茶色の紙を封筒から取り出した。頭を寄せ合い、三人で覗き込む。

 それはリグハーヴス公爵領移住者募集要項の裏に書かれた、希望者からの手紙だった。鉛筆がなかったのか木炭で書かれている。

「母親が胸の病で治療も受けられないのか。確かに急ぎだな。直ぐに行けるか? ヴァルブルガ」

「行けるの。カティンカ、グレーテルに入院患者さん連れてくるって伝えてくれる?」

「ああい」

 ぴょこんとカティンカが右前肢を挙げた。

 エンデュミオンは孝宏たかひろに「出掛けてくる」と伝え、ヴァルブルガを伴いフィッツェンドルフからの手紙に微かに残る魔力の元へと〈転移〉した。


 ぽぽんっ。

「にゃう!?」

「にゃあ!?」

 〈転移〉したのは狭い小屋のベッドの上だった。幸い人の上には落ちなかったが、ベッドの固さにエンデュミオンとヴァルブルガはお尻を押さえてちょっぴり涙目になった。

「な、何!?」

 ベッドの側に蜂蜜色の髪と目をした痩せた少女が立っていた。

「うう、驚かせてすまん」

 お尻を擦りつつエンデュミオンは驚かせてしまった少女に謝る。

「……お尻大丈夫?」

「ケットシーは身体が柔らかいからな。来た事がない場所はこれだからいかん。大丈夫か? ヴァルブルガ」

「うん」

 ヴァルブルガは自分とエンデュミオンのお尻に、さっと〈治癒〉を掛けた。緑色の光がぽわっと灯る。

 そそくさといずまいを正し、エンデュミオンとヴァルブルガは少女に向き直った。固いベッドの上に立っても、少女の方が背が高い。カチヤと同じ位の年頃に見える。

「あの、どちら様でしょう」

「突然失礼した、エンデュミオンだ。こちらはヴァルブルガ。リグハーヴス公爵から往診を頼まれたのだ。移住希望書を送ってきただろう?」

「え、届いたの?」

「ちゃんと届いたぞ。アルフォンスは直接領に来ている移住希望者の面接をしていてな、病人の移住希望者は治療がてらヴァルブルガに託されたんだ。ヴァルブルガは魔女だ」

「ケットシーの魔女!?」

 驚くのも無理はない。

「珍しいが居ない訳ではないぞ。さあ、患者を診せてくれ」

「はい」

 狭い小屋なので、患者は隣のベッドに居た。エンデュミオン達が落っこちてきてからのやり取りを、微笑みながら見ていたのだ。

「診て頂きたいのは母のクラーラです。私はビアンカ」

「クラーラ、と」

 エンデュミオンはヴァルブルガが取り出したカルテに、万年筆でクラーラの名前を書き込んだ。

 クラーラは枕を背中に当て、壁に寄りかかっていた。ベッドだと思ったのは、木箱を並べた上に薄い藁と敷布を敷いた物だったのだ。固い筈だ。

 青白い顔をしたクラーラは、ビアンカと良く似ていた。髪や目の色も同じだ。

「家族はクラーラとビアンカだけ?」

「そうです」

 ヴァルブルガは問診をしていき、エンデュミオンが所見をカルテに書いていく。足りない部分はヴァルブルガが後で書き込むだろう。

「咳はビアンカは出ていない……」

 一通り問診を終え、ヴァルブルガはクラーラのベッドの上に上がった。

「胸の音を聞かせて欲しいの」

「はい、お願いします」

 ヴァルブルガはクラーラの胸に折れ耳をくっ付けた。場所を変えて何ヵ所かの音を聞く。「背中の方もお願い」とビアンカの手を借りて背中の音も聞いてから診断を下す。

「クラーラ、喘息なの」

「ならこの環境は駄目だな」

「最悪」

 むう、とヴァルブルガの鼻の頭に皺が寄る。

 窓もない小屋に藁のベッドだ。南のフィッツェンドルフとは言え、隙間風もあるし、屋根から光が漏れている。雨漏りもしているだろう。

「私の咳のせいで、部屋を追い出されてしまって……」

 布で口元を押さえて咳き込みながら言うクラーラに、ヴァルブルガの緑色の大きな瞳がギラリと光った。

(あーあ、呪われたなあ)

 今頃大家は足の小指を何処かに打ち付けているだろう。死ぬほどの呪いではないし、エンデュミオンは同情しないが。患者の事になると、エンデュミオンよりヴァルブルガの方が沸点が低いのだ。

「苦しいのは今少し楽にしてあげるの」

 ヴァルブルガはクラーラの胸に前肢を当てて〈治癒〉をした。緑色の強い光がクラーラの胸を中心に広がる。

「それから、これ舐めて。喉が楽になるの」

 〈時空鞄〉から霊峰ハイリガーベァク蜂蜜ホーニックの飴の小瓶を取り出し、クラーラの手に乗せる。

「お薬はリグハーヴスに行ってから処方するの。グレーテルの診療所に暫く入院」

「あの、お金が……」

「今は気にしないで良いの。身体を治すのが先」

 ヴァルブルガはお金を気にするクラーラをピシャリと黙らせた。

「エンデュミオン、ヴァルブルガとクラーラは先にグレーテルの所に行くの」

「ああ。エンデュミオンは荷物をまとめたら移住者住宅に寄ってからビアンカを診療所に連れていく」

「うん」

 ヴァルブルガはクラーラの腕に抱き着くと、そのまま二人で〈転移〉していった。

「ええっ!? お母さん!?」

「大丈夫だ。先にリグハーヴスに連れていっただけだから。向こうについたら直ぐに治療してくれる。魔女グレーテルとヴァルブルガに任せておけば安心だ」

 クラーラは体力がかなり落ちていたので、栄養と安静が必要だった。それと気管支を広げる薬が。

「ビアンカは荷物をまとめてくれ。必要なものは全部持っていこう。エンデュミオンは〈時空鞄〉がある」

「そんなに物は多くないんですけど……」

 家具等は売ってお金に変えてしまったので、少しの着替えと僅かな食器がある位だ。木箱の一つにそれらを収めてから、ベッドの影にあった物をビアンカは取り出した。

「ほう、糸車か」

「内職で糸を紡いでいたんです。暖かなフィッツェンドルフだと安い仕事なんですけど……」

 羊毛を糸に紡ぐ下請け仕事をしていたが、随分と賃金は安かった。フィッツェンドルフだと、冬でもセーターは殆ど必要ないからだ。もしかするとビアンカが紡いだ糸は、北のリグハーヴスやハイエルンに売られていたのかもしれないが、ビアンカには回ってこないお金だった。

「私の仕事が下手だっただけかもしれないけれど」

「ふうん?」

 籠に入っていた紡いだ後の糸の束を見たエンデュミオンは首を傾げた。見覚えのある毛糸だったのだ。孝宏が購入している毛糸のような気がする。それはリグハーヴスの服飾ギルドでべた褒めされていた糸紡ぎ職人だった筈だ。

「ほーう」

 ニヤリとエンデュミオンは黒い笑みを浮かべてしまった。

 つまりビアンカは相当低い賃金で働かされ、彼女を使っていた店はかなりの上前を跳ねていたと、そういう事になる。どうやらビアンカはフィッツェンドルフの服飾ギルドを通さずに仕事をしていたらしい。ギルドを通していれば、もっと賃金は高かっただろうに。

「ビアンカ。リグハーヴスに来たら服飾ギルドにまず入れ。そして紡いだ毛糸はギルドに売れ。充分暮らしていける筈だ」

「本当?」

「リグハーヴスでは毛糸は必要不可欠なんだ。冬は寒いからな。特に眠り羊の毛糸は冒険者に需要がある。これで編んだセーターが鎖帷子くさりかたびら並みの強度があるのだ」

 リグハーヴスの服飾ギルドの専属紡ぎ職人になったら、クラーラと二人できちんと暮らせる。

 これは是非とも服飾ギルドのヘルガに知らせなければと、エンデュミオンは肉球をわきわきさせてしまった。

 服飾ギルドはギルド長クリスタも女性だ。職人を不当に扱っていたと知ったら、その商店とは取引を考え直すかもしれない。

 リグハーヴスでは、各ギルド長とリグハーヴス公爵との取り決めで、職人に支払う賃金は最低価格が保証されている。真面目に働けば、毎月暮らせるお金が手に入るのだ。

 病気になれば速やかに雇い主が、職人や徒弟を医師や魔女に診せなければならない。流行り病が広がるのを防止する為の取り決めだが、ここまでする領主はリグハーヴス公爵だけだった。

 まとめた荷物と糸車等を〈時空鞄〉にしまい、小屋の中を片付けたビアンカが大家に挨拶をしに行くのに、エンデュミオンは付いていった。ビアンカに抱っこしてもらったとも言うが。

 何故か足を引きずりながら出てきた大家は、ビアンカに小屋の貸賃を要求したが、エンデュミオンがきっちりと日割りにさせた。

 ドアを乱暴に閉められた向こうで、大家が何かに蹴躓けつまづいた音が派手に聞こえたが、エンデュミオンはさっさとリグハーヴスへと〈転移〉したのだった。


 リグハーヴスへの移住者は、最近増えていた定住する冒険者用になるだろうと建設されていたアパートに部屋を与えられる。

 アルフォンスは手紙の中にビアンカ達の住む部屋の場所を書いていたので、そこへエンデュミオンは〈転移〉した。

 真新しいアパートは黒森之國の伝統的な造りの建物だった。黒い梁や柱が真っ白い漆喰に映えて美しい。赤茶色の屋根も鮮やかだ。

 二階建てだが一階の玄関ドアは共通で、内階段で二階へ上がれる。

「ここの二階だな」

「こんな綺麗な所……」

「空いてる場所がここだったんだろう。最近は冒険者もリグハーヴスを拠点にするパーティーが増えてきたんだ。一階に管理人がいる筈だ」

 エンデュミオンはビアンカとアパートに入り、〈管理人〉と札の付いた部屋のドアノッカーを叩いた。

「はーい」

 出てきたのは三十代に見える女性だった。くるくるとカールした明るい金髪を一纏めに束ねていて、確りした体つきをしていて健康そうだ。背後から子供の声がする。

 アパートの管理人は引退冒険者がやる事が多いので、彼女も子供が出来て引退した冒険者だろう。ビアンカとエンデュミオンの顔を見て笑顔になる。

「あら、エンデュミオンよね?」

「ああ。アルフォンスに頼まれて、今日からここに住むビアンカを連れてきた。母親のクラーラも住む予定だが、暫くは診療所に入院する」

「もしかしてフィッツェンドルフから?」

「そうだ。宜しく頼む」

「こちらこそ宜しくね、フラウ・ビアンカ。あたしはイェニーよ。元冒険者だから、力仕事があったら言って頂戴」

「よ、宜しくお願いします」

 ビアンカの手を握ったイェニーの掌は、剣を長く握っていた者特有の固く厚いものだった。

「住人が来るって領主様から連絡があったから、毛布や敷布なんかのリネン類は部屋に入れてあるわよ」

「有難うございます。あの、代金は少しお待ち頂けますか?」

 ビアンカは本当にお金がないのだ。

「領主様持ちだから安心して。備え付けてあるものに関しては、別途料金は掛からないのよ。消耗品に関しては無くなったら自分で用意してね」

「有難うございます」

「はい、これが部屋の鍵ね。お二人だから二本あるわ。二階の角部屋よ」

 イェニーに部屋の鍵を貰い、エンデュミオンとビアンカは二階に上がった。鍵についていた札に書かれた部屋番号のドアの鍵を開ける。

 そっとドアをあけ、ビアンカは部屋に入った。

「わあ……」

 真新しい木の香りのする部屋だった。しかも家具が備え付けだった。飾り気はないが居間にはテーブルと椅子があり、居間の奥まった場所にある台所にも最低限の食器や調理器具が置いてある。

「居間の他に二部屋もある! それにバスルームまで!」

 各部屋にはベッドや衣装箪笥まであった。ベッドには新品のマットレスの上に、暖かそうな栗色の毛布と真っ白な敷布、枕が重ねてあった。バスルームには石鹸や浴布まで準備されている。

 部屋の中に入ってからはビアンカの後ろを歩いていたエンデュミオンが、衣装箪笥を前肢で叩いた。

「衣装箪笥の中を開けてみてくれ」

「はい。……お布団?」

 衣装箪笥の両開きの扉の中に、ふかふかの掛け布団が入っていた。紅茶色のカバーが既に掛かっている。

「冬用の掛け布団だ。リグハーヴスの冬は寒いから、これが必要になる。我慢せずに寝ていて寒いと感じたら掛けるんだぞ。鉱石暖房の使い方も教えておこう」

 貧しかったビアンカは初めて見る鉱石暖房だったが、リグハーヴスだとこれがなければ冬は過ごせないと言う。夏には鉱石を熱鉱石から冷鉱石に切り替えると冷房にも使えるようだ。

「あとは──一度風呂に入ると良い。持ってきた布類は全部洗ってしまおう」

「洗うのは良いけど、どこに干すんですか?」

マイム風の精霊魔法(ウィンディ)が使えるだろう? ビアンカは適正があるぞ」

「精霊魔法を覚える機会がなくて」

 リグハーヴスでは生活魔法なら、知っている者が使い方を教えるのだが、フィッツェンドルフでは違うらしい。

「そうか、なら教えよう。今日はエンデュミオンが洗ってしまうぞ。クラーラの見舞いが遅くなるからな」

「はい」

 まずはビアンカに布類を全て出してもらい、やり方を見せつつ洗濯をした。それから洗濯した物の中から着替えを取ってビアンカが入浴した。

 ビアンカがバスルームから出てきてから、着ていた服を洗い衣装箪笥にしまう。

 クラーラの着替えは診療所に持っていく為に布に包んだ。

 糸車等の糸紡ぎに必要な道具も部屋に置く。

「さて一息つくといい」

 エンデュミオンはビアンカに台所からカップと皿を持ってこさせ、〈時空鞄〉から魔法瓶と紙袋を取り出した。魔法瓶には香草茶が、紙袋には焼き菓子が入っていた。

「香草茶は〈薬草ハーブ飴玉(ボンボン)〉に、クッキーは〈Langue(ラング) de() chat(シャ)〉で売っているぞ。エンデュミオンの主は〈Langue de chat〉の孝宏だ。ヴァルブルガの主は店主マイスターのイシュカだ」

「じゃあ領主様は?」

「孝宏を庇護して貰っているから、人手が足りなそうな時は手伝ってるのだ。領主としてアルフォンスは信用出来るからな」

 命令されてもエンデュミオンは動かないぞ、とニヤリと笑う。

 美味しい香草茶とクッキーで元気が出たビアンカは、エンデュミオンに濡れた髪を乾かしてもらった。

「風の精霊魔法が使えたら髪も乾かせるぞ」と言うエンデュミオンの言葉は魅力的だった。

 道を覚える為にエンデュミオンと歩いてグレーテルの診療所まで行く道すがら、パンや食料を売っている通りや〈薬草と飴玉〉〈ナーデル紡糸(スピン)〉〈オイゲンの靴屋〉〈Langue de chat〉の場所を教えて貰う。

 漁師の姿が多いフィッツェンドルフと違い、明らかに地下迷宮ダンジョン帰りの冒険者と思しき人々の姿があった。

「ここが市場マルクト広場で〈グレーテルの診療所〉がある。あそこに見えるのが冒険者ギルドで、隣に服飾ギルドがある。明るい内は良いが、暗くなったら一人で歩かない方がいい。騎士団が巡回してはいるがな」

「はい」

 その辺りはフィッツェンドルフも同じだ。

 グレーテルの診療所には患者が居なかった。

「マーヤ」

「はいですー」

 診察室のドアが開き、赤紫色の瞳に明るい茶色の髪の幼女が現れた。

「こちらにどうぞー」

 マーヤの後に付いていくと、居間に出た。そのままマーヤは居間を出る。居間の向こうの廊下に面したドアの一つが病室だった。

 部屋に入った瞬間爽やかな香りがした。

 柔らかな生成りの布地のカバーが掛けられたベッドに、クラーラは横になっていた。

 ベッドの上にヴァルブルガが、脇の椅子に黒髪の森林族の女性が座っていた。

「グレーテル。どうだ? この子が娘のビアンカだ」

「ヴァルの応急処置で命拾いしたね。あれ以上放置していたら危なかったよ。今は薬が効いて眠っているよ。長い付き合いの病気だが、通院と薬さえ切らさなければ大丈夫さ」

 グレーテルと呼ばれた女性は、笑ってヴァルブルガの頭を撫でた。ヴァルブルガが目を細め、四肢と同じ位太い尻尾をパタンパタン揺らす。

「良かった……。有難うございます!」

「診療費は半銀貨一枚だよ。ある時払いで良いからね」

「は、半銀貨一枚!?」

 ビアンカは安さに驚いてしまった。フィッツェンドルフは銀貨で請求される。しかも〈薬草と飴玉〉での薬の処方代も銅貨五枚程になるらしい。こちらも安い。

 クラーラは一週間程入院し、体調を整える次第となった。その間に、ビアンカがアパートの部屋を整える。

 手持ちの金が殆どなかったビアンカだったが、思いがけず収入を得る事になる。

 クラーラの見舞いの帰り道、送ってくれたエンデュミオンの「服飾ギルドに登録に行くなら、紡いだ毛糸を持っていけ」と言う言葉通りにしたら、服飾ギルドの受け付けにいたヘルガに「ぜひ売ってくれ」とお願いされたのだ。

 自分用の毛糸だったので了承したら、ビアンカが吃驚するようなお金になった。「腕がいい職人さんの毛糸は高めに買い取る」と説明されて更に驚いた。ビアンカは自分が腕のいい糸紡ぎ職人だと知らなかったのだ。

 おまけに糸紡ぎの仕事は常にあるからと、眠り羊の羊毛の入った袋を預けられた。つまり、依頼をされたのだ。

「眠り羊の羊毛を紡げる腕の職人さんがリグハーヴスに来てくれて嬉しいわ!」とヘルガに物凄く喜ばれてしまった。

 眠り羊の毛糸はリグハーヴスでは引っ張りだこなのだそうだ。

 エンデュミオンが糸紡ぎで食べていけると言ったのは、この事だったのだ。


 ビアンカが服飾ギルドから懐を暖かくして帰るのを見送り、ヘルガは笑いが止まらなかった。

 エンデュミオンから腕のよい糸紡ぎ職人が移住してくるから、持参する毛糸を買い取ってやってくれと頼まれていた。

 わざわざエンデュミオンが頼んでくるのだから何かあると思えば、フィッツェンドルフからいつも仕入れている紡ぎ手の毛糸だった。仕入値でも決して安くはない毛糸の紡ぎ手は、酷く痩せた少女だった。

 リグハーヴスの服飾ギルドでは取引する時、職人へ支払われる割合もきちんと決める。仲介するギルドや商店がその分を職人へ支払う決まりだ。なのに、ビアンカはフィッツェンドルフで暮らせない程に貧しかった。

 何も知らないビアンカだったが、体裁を整えるため商店から渡された支払い明細書をきちんとためていた。エンデュミオンは引っ越しの時に見付けたそれを、そのままそっくりヘルガに持ってきたのだ。

「職人を不当に食い物にするのは赦せないのよねえ」

 既に報告はギルド長のクリスタに上げてある。

 フィッツェンドルフのとある商店が詐欺で服飾ギルドから訴えられ、未払い賃金が被害者に支払われた事件は、次々と飛び火してフィッツェンドルフの階級主義を揺るがしていくのだった。

暖かいフィッツェンドルフでは、毛糸の糸紡ぎ職人は不人気です。

ビアンカとクラーラは実はリグハーヴスではとても人気の糸紡ぎ職人なのですが、間に入っていた商店にピンハネされてとても貧しかったのです。

それをエンデュミオンとヘルガが赦す筈もなく。

こうしてフィッツェンドルフは優秀な紡ぎ手を二人失うのでした。ヘルガはほくほく顔です。

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