嵐の前に
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
黒森之國に嵐の気配です。
202嵐の前に
「こんなものかねえ」
賽子状に刻んだ根菜とひよこ豆のスープの味見をし、エーリカは焜炉の火を落とした。
グラッフェンの好物の、絶叫鶏と林檎のグリル用の鶏肉の下拵えも済んでいる。
今日のエーリカは息子のクルトの家で子守り兼留守番だ。
クルトとメテオールはネーポムクと共に家の隣の工房で仕事をしているのだが、アンネマリーとエッダが留守にしている。
今日はエンデュミオンの温室から行けるケットシーの里にある温泉が、〈女の人の日〉なのだ。女性陣の場合は、お昼ご飯のスープを作り、入浴後夕方に帰宅する。
〈女の人の日〉特典としては、入浴後に孝宏のお菓子とお茶がおやつに出る。そこでお喋りをして息抜きが出来ると好評だ。
エーリカが街の外にある長男の畑に行っている間、産前産後のアンネマリーを手伝えなかったので、久し振りにゆっくりしておいでと送り出したのだ。
居間からはグラッフェンとデニスの声が聞こえている。
「これは、でぃー」
「あうー」
グラッフェンは先程からお絵描きをしていて、描き上がった絵をデニスに見せているようだ。グラッフェンは〈弟〉のデニスをとても可愛がっている。
ケットシーは親子の縁が淡泊なのは有名だが、兄弟仲は良い。グラッフェンは兄のエンデュミオンを「だいしゅき」と言って憚らないし、ラルスとシュヴァルツシルトも仲が良い。
ちなみに契約もしていない妖精に気に入られるのは、それだけで幸運なのである。デニスの場合、三人のケットシーに〈祝福〉を受けているので、これを知られると貴族から養子にと望まれる程には希少である。
精霊便でその事をクルトに知らされたエーリカは「絶対に他言しないように」と、慌てて返信したのだった。
「さてと……」
そろそろおやつに桃でも剥いてあげようかと、エーリカは台所から居間に出た。
「っ!」
不意に目の前に見えている居間の風景に、もう一枚映像が重なった。
エーリカの持つ〈水晶眼〉による〈先見〉だ。〈先見〉の映像の方が色が薄いので見分けがつくのだが、予兆なく訪れる為毎回驚かされる。
(あら、グラッフェンが泣いてるわ)
〈先見〉の映像で、居間にいるグラッフェンがエッダに抱き付いて泣いていた。背後の窓の外は薄暗く、大粒の雨が叩きつけられている。時折光るのは雷だろうか。
(嵐が来るのね。かなり大きな嵐ね)
「おばあちゃん」
はっと我に返ると、子供用の椅子に座って糸綴じのお絵描き帳を持ったグラッフェンが、エーリカを呼んでいた。可愛らしい姿に、エーリカは微笑む。
「グラウ、何を描いていたの?」
テーブルに近付き、エーリカはグラッフェンの柔らかい毛で覆われた丸い頭を撫でた。エンデュミオンと良く似た鯖柄だが、グラッフェンは口元や手足の先が白い。
「でぃー」
お絵描き帳の開いた頁には、鯖虎で黄緑色の瞳のケットシーが描かれていた。叡知があるケットシーでもグラッフェンはまだ幼児であり、描かれた絵も幼い手だったが、良く特徴を掴んでいた。これは誰が見てもエンデュミオンだと解るだろう。
「エンデュミオンね。上手に描けたわね、グラウ」
「あい」
「あう」
テーブルの横に置かれていた揺り籠にいたデニスも声を上げた。先程おしめを変えたばかりなので、ご機嫌だ。
「グラウ、紙を一枚貰って良いかしら。手紙を書きたいの」
「あい。おてまみ」
グラッフェンは快く道具箱に入っていた薄い紫色の紙をエーリカにくれた。
グラッフェンの道具箱に入っている色鉛筆や紙類は、〈Langue de chat〉を出る時に贈られた物だ。ルリユールと言う職業柄、揃えられたのだろう。これだけ見ても、いかにグラッフェンが可愛がられていたのかが解る。
「有難う、グラウ」
エーリカは椅子に座り、グラッフェンから鉛筆も借りて、「近い内に嵐が来るので時期を特定して、エンデュミオンと領主に知らせて欲しい」と手紙を書いた。手紙を風で開かないように折り畳み、宛名にギルベルトの名前を書く。
なぜギルベルトなのかと言えば、エンデュミオンは〈黒き森〉の温泉にいるかもしれないからだ。
開いている窓の外を通り掛かった風の精霊に、テーブルの上の小皿に載っていた花の形に抜かれた桃色の琥珀糖と手紙を託す。風の精霊は大喜びで琥珀糖を食べ、手紙を持って飛んでいった。
孝宏に教わり、エッダは風変わりな菓子を作っては持って帰ってくる。これは倭之國にあるかもしれない菓子らしい。
(ギルベルトとエンデュミオンに任せれば、何とか領主様を動かせるかねえ)
エーリカの〈水晶眼〉だと、いつ起こる事柄なのか正確には解らない時がある。ギルベルトの〈先見〉の方が正確に視える筈だ。
収穫期の嵐は冬支度に影響する。農村部での収入の減少にもなり、冬の長いリグハーヴスやハイエルンには死活問題だ。
「にゃにゃー」
グラッフェンが歌いながら、ヴァルブルガらしきケットシーを描いている。黒や茶の斑の場所を正確に描いているので解りやすい。
「あーう」
グラッフェンの歌に、デニスが手足を動かす。
基本的に機嫌の良いデニスだが、グラッフェンやメテオールが子守りをすると、格段にご機嫌だ。妖精は子守りの才能があるらしい。
「グラウ、おやつに桃を剥くかい?」
「あいっ。ぐらっふぇん、ももたべたい」
「ふふ、少し待っておいで」
グラッフェンの頬を撫で、エーリカは台所に向かう。
幼いケットシーは人族の子供と何ら変わらない。クルトやアンネマリーも、グラッフェンを息子同然に扱っていた。
家族との縁が薄かったクルトだが、優しく育ったのはネーポムクと彼の妻のお陰だとエーリカは思って感謝している。
「冷えたかしら」
エーリカがクルトの家に来る前に買ってきた平べったい桃は、保冷庫で冷やしていた。取り出して、ナイフで薄い皮を剥いていく。
(余り被害が出なければ良いのだけれどね)
〈先見〉が出来ても、エーリカには嵐に対抗する手立てはない。ならば、対抗する手段を持つ者に早目に託すのが一番だ。
主持ちのケットシーでも、エンデュミオンとギルベルトは桁違いの力を持っている。領主との伝手もあるとクルトからも聞いている。
秋の実りを失う事は、領主にとっても大きな痛手になる。他領に借りを作らねばならなくなるかもしれないからだ。
窓から見える秋晴れの薄青い空からは、まだ嵐の気配は微塵も感じられなかった。
「む?」
開いていた窓から微風と共に入ってきた風の精霊が、座布団の上に転がっていたギルベルトの顔の上に手紙を落とした。
既に甘い物を貰っていたのか、用事を済ませた風の精霊はそのまま外に出ていってしまった。
むくりと起き上がり、ギルベルトは顔からお腹の上に落ちた薄紫色の手紙を前肢で拾いあげた。
初めて見る筆跡でギルベルトの名前が丁寧に書いてある。
「グラッフェンの匂い……?」
紙から微かにグラッフェンの匂いがした。エンデュミオンと匂いが似ているので、間違いない。と言う事は、グラッフェンの家族からだろう。グラッフェンはまだ大きな文字しか書けない筈だ。ケットシーは前肢の形状から、慣れないと細かな作業は難しい。
折り込まれていた紙を開き、手紙を読む。薄紫色の紙の内側には、近く嵐が来る筈なので、時期を調べて欲しい。それが解ったらエンデュミオンと領主に知らせて欲しい、と書いてあった。
「署名は〈水晶〉か」
つまり〈水晶眼〉だ。グラッフェンの家族に〈水晶眼〉が居たかな? とギルベルトは首を傾げた。クルトとエッダ、アンネマリーには会っていたが、〈水晶眼〉ではなかった。
「むー」
ギルベルトは半眼になり、〈先見〉をする。目の前に現れた風景をじっと観察した。
(大きな嵐が来る。一週間後。このまま何もしないと、作物は駄目になる)
「しかも黒森之國全域か」
どうやらリグハーヴスだけに知らせれば良い訳では無さそうだ。
ギルベルトはとことこと、リュディガーとマリアンのいる寝室へと向かった。ベッドのシーツを掛け直している二人に声を掛ける。
「リュディガー、マリアン。ギルベルト、出掛けてくる」
「エンデュミオンの所? 今日温泉じゃないのか?」
今日は女性が温泉に招かれている日で、アデリナも出掛けている。
恐らくエンデュミオンは案内人としてついて行っているだろう。
「そうなんだが、一寸エンデュミオンと一緒にアルフォンスに会わなければならなくなった」
「え、何かやったの?」
リュディガーが真顔になった。
「まだ何もしてない」
「これからする予定なのかしら?」
訊ねるマリアンに、ギルベルトは首を傾げた。
「するのはエンデュミオンだな。いや、グリューネヴァルトかな? 少し急ぎだから行ってくる」
「解った。行ってらっしゃい」
「気を付けてね」
ギルベルトはまずエンデュミオンの温室に〈転移〉した。
「ん? ギルベルト」
エンデュミオンは里の手前にある広場に居た。女性陣が出てくるのを待っているのか、広げた敷物の上に座っていた。
「エンデュミオン、〈水晶眼〉は誰だ?」
「会った事ないか? クルトの母親のエーリカだ。それがどうかしたのか?」
「これを」
ギルベルトはエンデュミオンに手紙を渡した。エンデュミオンはそれにさっと目を通し、鼻の頭に皺を寄せた。
「どの位の規模だ?」
「何もしなければ作物は壊滅的だな。黒森之國全土で」
「収穫期だからなあ……。エンデュミオンが出なければ駄目か?」
上目遣いでエンデュミオンはギルベルトを見上げた。散々色んな事をしているが、本人は目立ちたくないらしい。
「アルフォンスを通して王に知らせる必要はあるだろうな。エンデュミオンが守れるのはリグハーヴスだけだろう」
「命懸けじゃないと國土全部は無理だな」
「そこまでする必要はない。本来國を守る采配をするのは王だ。嵐からの守り方を教えれば良いだろう」
「食糧難だけは困るものなあ」
溜め息を吐きエンデュミオンは、敷物を縞々の尻尾でパシパシ叩いた。それから「よいせ」と呟いて立ち上がった。
「孝宏に出掛けてくると伝えてくるから待っててくれ」
「うむ」
一度目の前から消えたエンデュミオンは、直ぐに戻ってきた。
「よし行こう」
ギルベルトはエンデュミオンを抱き上げ、領主館に〈転移〉した。
「アルフォンス!」
突如現れたギルベルトとエンデュミオンに、アルフォンスは飲み掛けたお茶に噎せた。
「げほっ、な、何だ!?」
「む、休憩中にすまん」
執務室で休憩している途中だったアルフォンスを驚かせてしまったようだ。
執事のクラウスに背中を擦って貰い、アルフォンスが落ち着くのを待って、ギルベルトとエンデュミオンは応接用のソファーに移動した。
「驚かせてすまない、アルフォンス」
「いや、それより二人で来るなんてどうしたのだ?」
アルフォンスも正面のソファーに移動し、腰を下ろす。ケットシーが現れる時は、大概何かをやらかすと、いい加減アルフォンスも学習している。
ギルベルトがパチリと大きな緑色の瞳を瞬いた。
「一週間後に大きな嵐がやって来る。何も対策をしなければ多大な被害が出る」
「それはリグハーヴスだけか?」
「黒森之國の全域だ。多分その内、聖都や聖堂の〈水晶眼〉も〈先見〉をするだろう」
「ギルベルトの〈先見〉程精度が高い〈水晶眼〉は今居ないぞ」
「いや、ギルベルトより〈先見〉の早い〈水晶眼〉に知らされた」
「何!?」
ぎぎっとアルフォンスの視線がエンデュミオンを捉えた。エンデュミオンが慌てて「違う」と前肢を左右に振る。
「エンデュミオンじゃないぞ。リグハーヴスの街に〈水晶眼〉が居るんだ。聖職者じゃないのが」
アルフォンスはこめかみを指先で押さえた。
「……父から以前聞いた事がある。リグハーヴスには野良の〈水晶眼〉がいると。大災害の前には精霊便が届くらしい。それが何故ギルベルト経由で来たんだ?」
「解決法を持っていると判断されたらしい」とギルベルトはけろりとした顔で宣った。
「解決法と行っても嵐を反らす訳には行かないのだぞ」
迂闊に反らせば他國に被害が出る恐れがある。
「そうだろうな。だから直撃を受けるしかない。耐えられるのか? エンデュミオン」
自分の膝の上に座らせたエンデュミオンの頭を、ギルベルトが大きなピンク色の肉球で撫でた。
親代わりに育てられたギルベルトに撫でられ、エンデュミオンは黄緑色の目を細めた。子供扱いされてもギルベルトには逆らわない。
「エンデュミオンが守れるのは、リグハーヴスだけだぞ。他領は他領でやって貰わないと」
「方法が解れば、他領に知らせる」
「竜だな」
簡潔にエンデュミオンが答えた。
「エンデュミオンはグリューネヴァルトに頼むが、他領にも主持ちの竜が出来ただろう」
「竜騎士か。しかしまだ幼い竜だぞ」
「竜騎士の竜に、各領にいる野良の成竜に頼んで貰えばいいのだ。大体、街や村単位で集落や畑は固まっているから、外出制限を掛けて嵐が過ぎるまで防護壁で隔離だな。事後で構わないから、お礼に竜が好む果物でも贈れば良い。頼むのなら木竜が良いだろう。川が近い場所は水竜も頼むと氾濫を防いでくれる」
「まさか竜騎士の使い方とは──」
ニヤリとエンデュミオンがアルフォンスに笑った。
「本来災害時に使われるのが竜騎士だぞ。竜騎士を育てなくなったのが愚かだと言うのは、そういう所だ」
内乱がなくなり、儀礼用にしか孵されなくなった竜は、今や主持ちの成竜が殆ど居ない状況だ。
「リグハーヴスの場合は、ゲルトとイグナーツの極東竜がいるがまだ幼竜だしなあ」
「極東竜だと、なんなのだ」
「天候を操れる筈なんだ。嵐を小さく出来たり──したかもしれない。幼竜だと無理だぞ。力が足りないから」
「そうか」
ちょっぴりここ数代の王を呪いたくなったアルフォンスだった。
まずは王に面会し、聖都と聖堂から〈先見〉のお告げがあったのかを確かめなければならない。
「すまないが、一緒に来て貰えるか?」
アルフォンスの頼みに、エンデュミオンは撫で肩の肩を更に落とした。
「仕方がない、〈転移〉でツヴァイクの所へ跳ぶか。ギルベルトも一緒に来てくれ」
「うむ」
その日、アルフォンス・リグハーヴスはこれから来る災害を報せるため、王の執務室、司教の執務室、聖女の執務室とエンデュミオンに連れていかれる事になった。
そして全ての場所で元王様ケットシーのギルベルトの出現に驚かれたり、そもそも執務室に直行出来るエンデュミオンの交友関係に頭を抱える羽目になるのだった。
ケットシーが来たら何か起きる(起こす)と、学習してきたアルフォンスです。
公爵家は元々王族の血筋なので、人族の中では権力があるのですが、妖精には意味がありません。
エンデュミオンは王も司教も聖女も顔見知りなので、直接会いに行きます。
マクシミリアン王の近くに跳ばなかったのは、誰かと謁見中だったら困るかな、という配慮ですが、そもそもツヴァイク(王の側近)は殆ど王と一緒に居るので、あまり意味がない……。