1章 無々篠甘瓜より
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なんにつけてもそうだが、専門外のことというのは、軽々しくやるようなものじゃない。
まあ、こんなことは今更言うまでもなく歴然とした事実である。文系の学生がフェルマーの最終定理を解こうとするのは無謀なことだし、理系の学生が長恨歌を白文で全て読解しようとするなど狂気の沙汰としか思えない。時計職人に彫像は作れないし、パティシエにライトノベルは書けないし、犬の調教師が馬を調教するのは不可能だし、気象予報士に心筋梗塞の手術はできない。分相応、というのとはまたちょっと違うかも知れないけれど、とにかく人という生物には得意不得意とがあるのだから、無理をして不得意なことをやる必要はないのだと、このあたし辺りは思う訳だ。
そんな考えを、こうも堂々と公言できるあたしが、何故にこんな暴挙に出たのだろうか。そこのところだけは、今もって、その暴挙が終了したこの時点をもってしても、矢張り不思議でしょうがない。
事の発端は、多分、今日の昼頃にあった小さな事件だと思う。いや、事件などと銘打ってはみたものの、果たしてあれは世間的に事件だとして、犯罪だとして扱われることがあるのだろうか。その疑問に対する答えは、絶対的に、確定的にノーである。あの程度の小競り合いならば、日本全国で数え切れないくらいに起きているだろうし、いちいち全部立件していったら、警察官と検事と裁判官がいくらいても足りないという事態に陥りかねない。そもそもの話、あの事象を事件へと昇華(或いは堕落)させる為には、被害者であるあたし自身が何らかの形で加害者を訴えなければならない。世間知らずのあたしだってそのくらいは知っているが、生憎あたしは大っぴらにそのようなことができない立場にいる為、あの出来事が事件へと発展することは、未来永劫あり得ないという結論に落ち着いてしまうのだ。
閑話休題。
つまるところ、あたしはあの出来事によって、少なからずイライラしていたのだと思う。
イライラするのが好きだという奇矯な人間もいないと思うが、あたしはイライラすることが大嫌いだ。確か、二番目の兄辺りが同じことを――しかも自分の方がよりイラつくことを嫌っているかのような口振りで――言っていたと思うが、イライラすることが嫌いなことにかけては誰にも負けないという自信があるあたしにとっては、あの兄の言葉は若干横暴のようにすら思えた。…………こんなことで争っても、誰も得などしないのだけれど。
どうせ争うなら、誰かが利益を得るような争いの方が、文字通り生産的というものだ。勝者が利潤を得る代償として、敗者が皆殺しにされる戦争を考えれば、プラスマイナス零のような気がしないでもないが、よくよく考えれば地球上に蔓延る、あまりにも数が多過ぎる人間という有害因子を少しでも減らしているのだということにも繋がるのだから、やっぱり戦争というものは有意義といっても差し支え――――ああ、いや、銃火器などから撒き散らされる二酸化炭素の量を配慮すると、そう変わらないのか? あれ? どっちだ?
再び閑話休題。
あたしと兄と、どちらがよりイラつきを嫌っているかという不毛な議論は置いておくとして――――繰り返すように、あたしはイライラが大嫌いだ。栗のイガイガよりも大嫌いだ。発音が似ているから並べてみたが、なんの意味もないのは見ての通りである。だがまあ、両者はまるで関係無く正反対であることを除けば、凡そ同一だといっても過言ではあるまい。
イガイガは人の肉体を傷つけて。
イライラは人の精神を喰い千切る。
では、イガイガに悩まされることなく栗を食すためにはどうすればいいだろうか。丁度、季節も秋に差し掛かり、焼き芋やら松茸やら銀杏やらの秋の味覚が美味しいこの時期、栗というものも一つの重要な風物詩だ。《人》であろうとなかろうと、日本に生まれたからには、この季節に栗を食べないというのは怪訝しな話だろう。ちなみにあたしは数ある栗料理の中でも栗ご飯が好きなのだが…………不味い不味い、また話が脱線していた。
校庭に栗の木が生えている学校などでは、秋になれば毎年見かけるものなのだが、子供たちが何やら茶色いものを足許に置き、両足で挟むようにして踏みつけているという風景がある。これは何をやっているのか――――言うまでもなく、栗のイガイガから、中身の栗を取り出しているのだ。
そう、栗のイガイガから解放されるには、そのイガイガを破壊する必要がある。
ならば、イライラの方も同じだろう。
イライラの原因となっているものを、ぶち壊せばいい。
ストレッサーを破壊すればいい。
殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して――――殺せばいい。
あたしのような殺人鬼には、一番分かりやすい解決方法だ。
運動やゲーム、趣味などで発散するよりも、よっぽど即効性に富んでいる。
毒を食らわば皿まで、雑草を引き抜くなら根まで。
根本を殲滅してしまえば、このようなイライラも出ては来ないだろう。
――――と、そう意気込んで凶器を調達し、標的の家へと向かう、その道中で。
あたしはそれと出遭ったのだ。
「……………………!」
初めて見たその瞬間、あたしは背筋が震えるのを感じた。
一瞬にしてそれと分かるほどの、濃密で凶暴な殺気。
彼女は、殺人鬼のあたしですら怖気が走るほどの殺気を、まるで呼吸でもするかのように吐き出し続けていたのだ。
刹那で勘付いた――――こいつは、危険だと。
あたしみたいな殺人鬼などより、よっぽど危険だと。
あたしみたいな殺人鬼などより、よっぽど人を殺すと。
あたしみたいな殺人鬼などより、よっぽど――――面白そうだと。
「…………――――っ!」
気が付けば、あたしは懐からナイフを取り出し、女に向かって突貫していた。
イラ立ちから来る破壊衝動に任せた殺刃は、無防備に背中を向けていた彼女の、右脇腹――――人体の急所の一つであり、『沈黙の臓器』とまで呼ばれる肝臓に、死に装束のような真っ白い着流しなど存在しないかのように貫いて、深々と突き刺さった。
紛うことなき、致命傷。
それなのに。
それなのに、彼女は。
「…………ん? なんだ? お前」
「な…………っ!」
平然としていた。
刺されたことなど、まるで気が付いていないように、彼女は平然として平静を保っていた。
ナイフで、内臓を的確に刺されているにも関わらず。
中性的なその顔は、苦痛にもなににも染まってはいなかった。
「な、なんで…………!?」
「ん? あぁ、刺されているな、オレ。そっか、今の衝撃はそれか…………」
自分の身体に刺さったナイフを物珍しげに眺め、それから彼女は、ゆっくりと視線をあたしに移した。
剣呑な風でもなければ、穏やかでもない。
なんでも、ない。
硝子玉みたいな、空っぽの瞳だった。
「……お前か、オレを刺したのは」
「あ、あんた一体――――っ!?」
あたしの台詞は、最後まで続けさせてはもらえなかった。
あたしが彼女の危険性に気付いたのが刹那の間になら、彼女の殺人は、虚空の間に行われたと言ってもよいだろう。ちなみに虚空とは10の20乗分の1のことなのだが…………いや、そんなマメ知識はどうでもよく。
気付いたら――――本当に、気付いたら。
あたしの身体は、彼女の手にしていた小振りなナイフで、数え切れないほどの細かい肉片に変えられていた。
弾指の間に五体を裂かれ。
刹那の間に切り刻まれ。
六徳の間に細切れにされ。
虚空の間に、殺人完了。
「――――…………!」
地面へ向かって落ちていく最中、あたしは思った。
この女は――――危険過ぎて、面白過ぎる。
地面が間近に迫ったその時、あたしは、薄く小さく、ズタズタになった唇で、笑っていた。