第41話:鎧を脱いだ騎士の独白
――ザザァァァァ……と、原生林を濡らす雨脚は、衰える兆しを見せていなかった。
屋根を叩く無数の水滴の音は、時折、風に煽られて低く重たい唸り声をあげ、山小屋を深い海の底へと沈めていくかのような錯覚を覚えさせる。
テラスの厚い防水カーテンの隙間からは、昼間とは思えないほど暗く煙った灰紫色の森の輪郭が滲み、雨だれが軒桁から規則正しく落下しては、ポーチの石畳を打っていた。
けれど、閉ざされた扉の内側――赤々と爆ぜる薪ストーブの前には、外界の冷気を拒絶するような、濃密で静謐な時間が流れていた。
オレンジ色の炎が、パチリ、と小さな火の粉を散らす。
その光が、革張りソファに深く腰を沈めた大男の横顔を、静かに照らし出していた。
先ほど飲み干した深煎りマンデリンの空のマグカップを、両手で包み込んだまま。
レオンハルトは、ストーブの耐熱ガラスの向こうで踊る炎の先端を、瞬きも忘れたようにじっと見つめていた。
その唇から零れ落ちた「俺は、王都の生まれだ」という言葉の余韻が、雨音に混ざり合って、ゆっくりと部屋の隅々へと溶けていく。
「……アクスベル王国の王都に、ヴァルク侯爵家という古い家系がある」
男の口から紡ぎ出されたのは、普段の部下たちを下知する峻厳な声でも、栞に感謝を伝えるぎこちない声でもなかった。
それは、胸の奥底の最も深い暗がりに長年封じ込めていた重たい記憶の蓋を、錆びついた鍵で無理やりこじ開けたような、掠れて、乾いた、静かな独白だった。
「代々、王国の軍部と貴族院に深く根を張り、数代前の大戦では武勲を立てて爵位を上げた……絵に描いたような武門の門閥貴族だ。俺は、その現当主の次男として生まれた」
レオンハルトの大きな指先が、白い陶器のカップの縁を無意識に強く擦った。
擦れる微かな乾いた音が、静寂のリビングに落ちる。
「……幼い頃の記憶にある王都の邸宅は、息が詰まるほど豪華で、そして吐き気がするほど冷え切っていた。広大な大理石の回廊、贅を尽くした夜会、金糸で刺繍された豪奢な礼服。だが……そこにいた人間たちの眼差しは、すべて澱み、濁りきっていた」
男の銀の瞳が、過去の幻影を追うように細められた。
炎の明かりを浴びながらも、その瞳の奥には、陽の光すら届かない冷徹な氷の城が映し出されているかのようだった。
「父にとって、子供は家の威信を保ち、他家との権力闘争に勝利するための『駒』でしかなかった。長男である兄は跡継ぎとして過剰なまでの英才教育を施され、次男の俺は、兄に万が一のことがあった際の『予備』……あるいは、どこかの有力貴族の娘へと婿入りさせて政略の道具にするための、値踏みの対象でしかなかった」
淡々と、感情を押し殺すように語られる出自。
けれど、言葉の端々から滲み出る冷淡な現実に、栞は胸をぎゅっと締め付けられるような痛みを覚えた。
華やかな貴族社会。
物語やおとぎ話の中では誰もが憧れる煌びやかな世界。
だが、その絢爛豪華なカーテンの裏側に広がっていたのは、親子の温かな情愛など微塵も存在しない、ただ冷酷な損得勘定と血統の重圧だけが支配する無機質な檻だったのだ。
「思春期を迎える頃には、その澱みはさらに醜悪なものへと変わった」
レオンハルトの奥歯が、ギリ……と微かな音を立てて噛み締められた。
「兄と俺の間に、家督を巡る陰湿な暗闘が持ち上がったのだ。俺自身には、家督を継ぐ野心など爪の先ほどもなかった。武芸を磨くことだけが、あの息の詰まる邸宅で己を保つ唯一の手段だった。だが……周囲の取り巻きの貴族どもや、親族の者たちがそれを許さなかった」
男の喉仏が、苦々しげに上下する。
「『次男の方が剣の腕が立つ』『いや、長男の血筋こそが正統だ』……無責任な大人たちが勝手な派閥を作り、互いの足を引っ張り合い、あることないことの中傷を撒き散らした。誰が味方で、誰が敵かも分からない。昨日の晩餐で笑顔を向けてきた親族が、翌朝には俺の失脚を画策して毒の入った噂を流す。朝起きて口にする食事のすべてに、毒見役をつけねばならぬ日々。……一族の血を引く者同士が、互いの喉笛に刃を突きつけ合うような空間に、俺は心底から嫌気がさしていた」
激しい雨音が、屋根の上でひと際大きく爆ぜた。
原生林を揺らす風が、テラスのカーテンをバサリと大きくはためかせる。
レオンハルトは小さく息を吸い込むと、自らの両の掌を見つめた。
無数の刃傷が走り、硬いタコに覆われた、武骨な戦士の手。
「二十歳を迎えた年、俺は家督の継承権をすべて正式に破棄した。父の怒声も、兄の疑り深い視線も、親族どもの嘲笑も、すべて背中に捨てた。……そして、自ら志願して王都を出たのだ。最も過酷で、最も死に近く、王都の貴族どもの誰もが寄り付こうとしない……このアクスベル王国の最北端、辺境警備隊へとな」
「…………」
栞は言葉を挟まなかった。
ただ、スツールの上で背筋を伸ばし、男の言葉のひと粒ひと粒を、取りこぼさないよう両の手で受け止めるようにして、静かに耳を傾け続けていた。
相槌すら打たなかった。
安易な「大変でしたね」という同情も、無責任な「辛かったですね」という共感も、この男が背負ってきた年月の重みに対しては、ただの不敬でしかないと分かっていたからだ。
今、この男に必要なのは、気の利いた慰めの言葉ではない。
誰にも見せることができなかった心の傷口を、ただあるがままに晒し、それを裁かれることなく受け止めてもらうための、静かな安全地帯だけだった。
「……王都の者たちは笑ったよ」
レオンハルトの口元に、自嘲の薄い笑みが浮かんだ。
「『名門の次男坊が血迷った』『どうせ三日も持たずに泣きついて逃げ帰ってくる』とな。だが、俺にとっては、あの腐りきった宮廷の空気より、吹き荒れる吹雪と魔獣の咆哮の方が……遥かに清々しく思えたのだ」
けれど、と男は言葉を継いだ。
その声音のトーンが、一段と低く、沈痛な重みを帯びていく。
「……現実は、そう甘くはなかった」
男の視線が、再びストーブの炎の奥深くへと沈み込む。
「辿り着いた北の境界線は、生と死が紙一重で隣り合わせの、地獄のような泥濘だった。冬になれば零下数十度まで冷え込み、手足の感覚は凍りつき、魔獣の群れは容赦なく砦を襲う。そして何より……王都の貴族どもは、辺境を守る俺たちを『使い捨ての防壁』としか見ていなかった」
拳が握り締められ、指の関節が白く浮き上がる。
「防衛予算は削られ、支給される武具は錆び、送られてくる糧食は家畜の餌にも劣るような石炭まがいの乾パンと、腐りかけた塩漬け肉。……そんな劣悪な環境の中で、俺は実力だけで部隊を這い上がり、やがて第三小隊長という立場を任されることになった」
第三小隊長。
百人の荒くれ者の兵士たちを束ね、最前線の防衛を担う最高責任者。
その肩書きを手にした瞬間から、レオンハルトの背中には、貴族の家督争いなどとは比べものにならないほどの、冷酷で残酷な重圧がのしかかることになったのだ。
「……部下の命だ」
男の声が、微かに震えた。
「百人の兵士……その全員に、親がおり、兄弟がおり、故郷がある。若くして前線に送られてきた二十歳そこそこの少年たちも大勢いた。……俺の判断ひとつ、俺の振るう剣の一撃、俺の下す命令ひとつで、あいつらの命が明日も続くか、それとも冷たい泥の中で肉片に変わるかが決まるのだ」
レオンハルトは目を伏せ、唇を噛み締めた。
「怖かった」
ポツリと零れ落ちた、あまりにも小さく、脆い告白。
『氷の番犬』。
感情を殺し、冷徹に大剣を振るい、魔獣を屠る無敵の騎士。
そう呼ばれ、恐れられ、崇められていた大男の口から漏れた、剥き出しの恐怖の吐露。
「毎夜、目を閉じるたびに、魔獣の爪に引き裂かれて死んでいった過去の部下たちの顔が浮かぶのだ。あの時、俺がもう一歩早く踏み込んでいれば。あの時、別の索敵ルートを選んでいれば。……あいつは死なずに済んだのではないか、と。……眠ろうとすれば、冷や汗が吹き出し、動悸が止まらなくなる。一度眠りに落ちれば、二度と目覚めぬのではないかという恐怖と……俺が眠っている間に、夜間哨戒の部下が奇襲を受けて全滅するのではないかという妄執が、脳を焼き尽くす」
だから、眠れなかったのだ。
不眠症という病名などでは片付けられない。
自分の命よりも重い部下たちの命を背負い、一瞬の油断も許されない極限の緊張の中で、自らの神経を意図的に張り巡らせ続け、自らの精神をすり減らし続けていたのだ。
「部下の前で、弱音を吐くことなど許されない。隊長である俺がわずかでも迷いを見せれば、小隊全体に動揺が広がり、士気は崩壊し、死者が増える。……だから俺は、感情を捨てた。『氷の番犬』という仮面を被り、無表情で、冷徹で、誰をも寄せ付けぬ厳格な指揮官を演じ続けた。……それが、あいつらを生かして故郷へ返すための、唯一の方法だと信じていたからだ」
男はそこで言葉を切り、深く、重たい息を吐き出した。
胸の奥底のすべての澱を吐き出し尽くしたかのように、その肩がわずかに落ち、背中が丸められる。
静寂。
窓の外では、雨が原生林の木々を叩き続けている。
静まり返った室内には、薪ストーブの樫の薪がパチリと爆ぜる音と、時折吹く風が煙突を揺らす低い音だけが、どこまでも優しく響いていた。
栞は、静かにスツールから立ち上がった。
音を立てないよう、細心の注意を払いながらキッチンスペースへと歩み寄る。
棚から取り出したのは、先ほど挽いたばかりの、あの漆黒のマンデリンの粉。
陶器のドリッパーに新しいペーパーフィルターをセットし、山盛りの粉を入れる。
銅製のドリップケトルを手に取り、裏の湧水から沸かしたばかりの熱湯を注ぎ入れた。
――ジュゥ……。
静かなキッチンに、再び珈琲の粉がふっくらと膨らむ音が響く。
立ち上る、深く力強いビターチョコレートと大地の香り。
栞は無言のまま、祈るようにケトルのノズルを傾け、細い湯の筋を中心からゆっくりと円を描くように落としていった。
言葉で励ますことなど、自分にはできない。
他国の、それも平和な世界でOLをしていただけの自分に、命のやり取りをしてきた彼の過酷な人生を真に理解することなど、到底不可能なのだ。
けれど。
この温かな一杯に、心を込めることならできる。
誰にも弱みを見せられず、孤独に耐え抜いてきた男の冷え切った魂を、少しでも温め直すことなら、自分にもできるはずだった。
抽出を終えたサーバーから、立ち上る濃密な湯気。
栞はサーバーを手に取り、足音を忍ばせてストーブの前へと戻った。
そして――。
レオンハルトが両手で包み込んだままになっていた、冷めかけた白い陶器のマグカップへと、熱々の黒褐色の液体を、静かに、たっぷりと注ぎ足した。
――トトトトト……。
澄んだ音が落ち、冷えかけていたカップの縁から、再び真っ白な温かな湯気がふわりと立ち上る。
香ばしい深煎りのアロマが、男の鼻腔と頬を優しく包み込んだ。
「…………っ」
レオンハルトがハッと息を呑み、伏せていた顔を上げた。
目の前に立つ、エプロン姿の栞。
栞は何も言わず、ただ慈愛に満ちた柔らかな微笑みを浮かべ、男の大きな手の甲の上から、自分の温かな両手をそっと重ねた。
――じわり。
手のひらを通して伝わってくる、確かな体温。
男の硬直していた指先が、ビクリと震え、それからゆっくりと脱力していく。
男の喉仏が、大きく上下した。
そして――。
我に返ったように、男の白皙の肌の耳たぶが、みるみるうちに赤く染まり上がっていった。
歴戦の騎士として、あまりにも情けない素顔を晒してしまったことへの、猛烈な動揺と羞恥。
男は慌てて視線を逸らし、両手でカップを握り締めながら、自嘲するように深く俯いた。
「…………すまない」
絞り出されたのは、消え入りそうな掠れ声だった。
「……他国の……それも、民間の女相手に……つまらない愚痴を……みっともない弱音をこぼした。……忘れてくれ」
俯いたまま、耳まで真っ赤にして身を縮める大男の姿に、栞の心は、胸が締め付けられるほどの愛おしさで満たされていた。




