第32話:月曜日の朝寝坊と、ぬるま湯のような陽射し
目覚ましのアラームは、鳴らなかった。
耳を劈くような電子音も、心臓を直接万力で締め上げるようなバイブレーションの唸りも、薄暗い部屋のどこからも響いてこない。
かつての栞にとって、月曜日の午前六時という時間は、まさに一週間の処刑宣告に等しかった。
目覚ましが鳴る数秒前から、すでに無意識の恐怖が身体を支配し、ドクン、ドクンと冷たい鉛のような血が全身を駆け巡る。冷や汗で湿ったシーツを跳ね除け、強張った四肢に鞭を打って起き上がる。胃の腑は鉛を呑み込んだように重く、歯を磨きながら鏡に映る自分の顔を見れば、そこには目の下に濃い影を落とした、生気を失った女の顔があるだけだった。
――また一週間が始まる。
――またあの理不尽な怒号と、終わりの見えない残業の泥沼に沈まなければならない。
そんな絶望の重圧に押し潰されながら、這うようにして満員電車へと飛び込んでいた日々の記憶。
けれど、今朝は違った。
ふう、と静かな吐息が唇から漏れる。
肌を撫でるのは、肌触りの良いコットンのシーツの滑らかさと、初夏の朝の澄み切った微風だけだった。
ゆっくりと、重みを感じることなく目蓋を持ち上げる。
視界に飛び込んできたのは、レースのカーテン越しに部屋の奥深くまで差し込んでいる、ぬるま湯のように柔らかく、温かな金色の陽射しだった。
窓辺の空気の中で、微細な埃の粒がきらきらと光のダンスを踊っている。
枕元のスマートフォンに手を伸ばし、画面をそっとタップした。
液晶に表示されたデジタル時計の数字は――。
『9:32』
午前九時半。
「…………あ」
声が、ぽつりと零れ落ちた。
午前九時半といえば、普段の月曜日なら、すでにオフィスで嵐のような電話対応に追われ、営業から投げつけられた伝票の束と格闘し、眉間に深い皺を刻みながらキーボードを乱暴に叩き続けていた時間だ。
それなのに、自分は今、まだパジャマのまま、温かいベッドの真ん中にいる。
寝返りを打ってみる。
――サワサワ、フワリ。
掛け布団が身体を優しく包み込み、シーツの温もりが素肌に吸い付く。
もう一度、反対側へコロンと寝返りを打つ。
背中を伸ばし、爪先までぐーっと力を入れてから、ふわりと脱力する。
誰にも急かされない。
誰にも怒鳴られない。
次の予定に怯える必要も、電車の時間を気にする必要もない。
二度寝をしてもいいし、このまま天井を見つめてぼんやりと過ごしても、誰一人として文句を言う者はいないのだ。
「……信じられない」
栞は枕に顔を埋め、くすくすと喉を鳴らした。
ベッドの中でただ手足を伸ばし、時間の流れに身を任せる。たったそれだけのことが、これほどまでに甘美で、魂の芯を蕩けさせるような贅沢だとは知らなかった。
念のため、画面の通知欄を確認してみる。
会社のグループウェアのアイコンは、先週金曜日のうちにアカウントをログアウトし、通知をすべてオフにしてあった。
社内チャットツールの赤いバッジも、上司からの催促メールも、営業からの身勝手な着信履歴も、何ひとつとして届いていない。
画面にあるのは、ただ静かな待受画面の時計と、今日の天気予報だけ。
――完全に、切り離されたのだ。
あの息の詰まるような灰色の牢獄から。
他人の機嫌を取り、他人のミスを背負わされ、自らの尊厳をすり減らし続けるだけの毎日から、自分は本当に抜け出したのだ。
四十日間の有給休暇。
法的に完全に認められた、誰にも侵されることのない正当な権利。
来月末の退職日まで、自分は一秒たりともあのオフィスへ足を踏み入れる必要はない。
胸の奥底から、じわりと温かいものが込み上げてきた。
何年もの間、栞の喉元に突き刺さっていた見えない棘が、綺麗な水に溶かされるように消え去っていく。
呼吸ができる。
胸いっぱいに、澄んだ空気を吸い込むことができる。
「よし……起きよう!」
栞は掛け布団を跳ね除け、身軽にベッドから抜け出した。
素足でフローリングを踏みしめ、窓をいっぱいに開け放つ。
東京の初夏の空は、抜けるように青く澄み渡っていた。吹き込んできた風が、栞の黒髪をふわりと揺らす。
まずは、のんびりとした朝食の準備だ。
湯を沸かし、一杯の白湯をゆっくりと喉へ流し込む。
食パンをトースターでこんがりと焼き、冷蔵庫に残っていた発酵バターと、先週異世界で作ったあのルミナスベリーの特製ジャムをたっぷりと塗る。
サクッとしたトーストの歯触りとともに、口いっぱいに広がる濃厚なバターのコクと、摘みたてベリーの甘酸っぱさ。
立ったまま急いでコンビニのおにぎりを流し込んでいたかつての朝とは、天と地ほどの差がある。
一口一口を丁寧に味わい、美味しいものを美味しいと感じられる心の余裕。
それだけで、身体の奥底から生き生きとした活力が湧き上がってくるのを感じた。
食べ終えた食器を丁寧に洗い、片付けると、栞はクローゼットを開けた。
今日から始まる時間は、週末の一泊二日の逃避行ではない。
何日間でも、気の済むまであの場所で暮らすための、本格的な長期滞在だ。
手入れのしやすいコットンのシャツ、動きやすいワークパンツ、洗いざらしのリネンワンピース、そして予備のインナーやタオル類。
大きなボストンバッグにそれらを隙間なく詰め込んでいく。
さらに、書斎のデスクから、読みかけの文庫本を何冊か選び、手帳とお気に入りの万年筆をバッグの隙間に差し入れた。
アパートの戸締まりを確認し、冷蔵庫の電源以外のブレーカーを落とす。
重たくなったボストンバッグを肩にかけ、スニーカーの紐をきゅっと結んだ。
「いってきます」
誰にともなく小さく呟き、アパートのドアを閉めた。
外の光は、午前十時半の鮮やかな眩しさを放っていた。
駐車場に止めてある愛車――小さな軽自動車のトランクを開け、ボストンバッグを積み込む。
運転席に乗り込み、エンジンキーを回す。
ブロロ……と静かなアイドリング音が響き、カーステレオから柔らかなアコースティックギターの音楽が流れ始めた。
ギアをドライブに入れ、ハンドルを切る。
目指すのは、中央自動車道。そして、山梨の山あいの集落。
首都高速へと合流した瞬間、栞は目を見張り、思わず小さく息を呑んだ。
「……すごい、本当に空いてる」
フロントガラスの向こうに広がっていたのは、信じられないほどスムーズに流れる道路だった。
土曜日の朝であれば、行楽地へ向かうファミリーカーや観光バスで幾重にも渋滞し、ノロノロ運転のテールランプが果てしなく連なっているはずの高速道路。
けれど、平日の午前十一時。
視界にあるのは、等間隔で整然と走る物流の大型トラックと、数台の営業車だけだった。
ブレーキを踏む必要すらほとんどなく、アクセルを一定の力で踏み込み続けるだけで、愛車は滑るように前へと進んでいく。
調布を抜け、府中を過ぎ、八王子へと向かう道。
窓を数センチだけ開けてみる。
――ビュォォォッ……と、勢いよく初夏の風が車内へと雪崩れ込んできた。
アスファルトの熱気を帯びながらも、どこか山からの青葉の香りを微かに含んだ、力強く爽快な風。
その風を浴びながらハンドルを握っていると、胸の奥から、くすぐったいような、奇妙な感情が湧き上がってきた。
――背徳感。
世間の人々が、今この瞬間も、満員電車に揺られ、窮屈なオフィスでキーボードを叩き、上司の機嫌を窺いながら必死に働いている、月曜日の真昼間。
それなのに、自分はこうして、平日の空いた高速道路を一人で走り、どこまでも自由な旅に出ている。
まるで、学校をずる休みして秘密基地へ向かう子供のような、後ろめたいほどの快感。
けれど、走りを重ねるにつれて、その微かな背徳感は、みるみるうちに別の感情へと塗り替えられていった。
――違う。
ずる休みなんかじゃない。
私は、十年間、一度もサボることなく身を粉にして働いてきた。
理不尽に耐え、他人の尻拭いをし、終電まで残業を重ねて、誰にも文句を言わせない完璧な引き継ぎマニュアルまで残してきたのだ。
これは、私が自分の力で勝ち取った、正当な私の時間なのだ。
高尾の長いトンネルを抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
コンクリートの街並みは消え去り、目の前に迫ってきたのは、どこまでも深く、幾重にも重なり合う甲信の山々の緑だった。
新緑の淡い黄緑から、初夏の力強い深緑、そして遠くの山並みを青く霞ませる青碧色。
幾千、幾万もの樹木が太陽の光を浴びて輝き、生命の熱気を放っている。
車内の空気が、完全に変わった。
都会の埃っぽさと排気ガスの匂いは完全に霧散し、車内を満たしたのは、針葉樹の鋭いアロマと、清らかな土の匂いだった。
「…………あぁ」
栞の口から、深く、長い溜息が漏れ出た。
何かが、身体の奥底ですとんと腑に落ちたような感覚。
背徳感は跡形もなく消え去り、代わりに満ちてきたのは――圧倒的なまでの『安堵感』だった。
取り戻したのだ。
誰かに奪われ続けていた、自分の人生の、かけがえのない時間を。
生きるということは、理不尽に耐えることではない。
自分の行きたい場所へ行き、自分の食べたいものを食べ、自分の愛する人たちのために腕を振るうことなのだと、風が教えてくれているようだった。
笹子トンネルを抜け、甲府盆地の広大な景色を眼下に見下ろしながら、勝沼のインターチェンジへと滑り降りる。
国道から県道へ、そして果樹園の広がる斜面を縫うようにして、車は山あいの細い一本道へと分け入っていった。
両脇に生い茂る木々の枝が、頭上で緑のトンネルを作っている。
木漏れ日がフロントガラスの上をチラチラと走り、まるで愛車の進行を祝福するように光の粒を散りばめていた。
午後一時過ぎ。
砂利を踏みしめるタイヤの音とともに、愛車は祖父の遺した古民家の前庭へと静かに滑り込んだ。
エンジンを切る。
訪れたのは――息を呑むほどの、圧倒的な静寂だった。
車のドアを開け、外へと足を踏み出す。
平日の昼下がりの山あいの集落は、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。
人工的なノイズは一切ない。
聞こえるのは、裏山の竹林を渡る風のサラサラという擦過音と、どこか遠くの軒先で鳴る風鈴の音、そして梢のあちこちで競い合うように鳴く山雀や鴬の澄んだ声だけだった。
「……ただいま」
空に向かって呟き、栞はトランクからボストンバッグを下ろした。
石段を上がり、母屋の玄関の木製引き戸に手をかける。
ガラガラ……と懐かしい音を立てて引き戸を開けると、ひんやりとした古い土間の空気がふわりと出迎えてくれた。
干し草と白檀のお香が混ざり合った、祖父の家の落ち着く匂い。
黒光りする廊下を抜け、土間の奥へと進む。
靴を脱ぎ、スニーカーを持って土間の上がり框を降りる。
その突き当たり。
薄暗い土間の奥で、重厚な欅の一枚板で作られた納戸の板戸が、変わらぬ佇まいで静かに鎮座していた。
太い木目、黒光りする真鍮の金具。
現代の他人が見れば、ただの古い物置の扉にしか見えないその板戸。
栞はジーンズのポケットへと手を差し入れ、指先を滑らせた。
触れたのは――冷たく滑らかな金属の感触。
取り出したのは、祖父の形見である、あの透かし彫りの真鍮鍵だった。
手のひらに載せると、まるで見えない熱源を宿しているかのように、じわりと柔らかな温もりが伝わってくる。
栞は鍵を握りしめ、板戸の前に立った。
胸が、トクン、トクンと力強く高鳴っていた。
これまでは、金曜日の夜遅くに駆け込み、土曜と日曜のわずかな時間を惜しむように過ごし、日曜の夕方五時が近づくたびに胃を痛めながら現代へ逃げ帰らなければならなかった。
常に「終わりの時間」を気にしながらの、束の間の逃避行。
けれど――今日からは違う。
月曜日の昼間。
明日も、明後日も、その次の日も、仕事はない。
誰にも邪魔されることなく、何日間でも、この扉の向こうに滞在することができるのだ。
平日限定の静けさに包まれた、あの木漏れ日の森。
誰もいないテラスで、心ゆくまで鳥の声を聞き、裏の清流で汲み立ての水を使って珈琲を淹れる至福の時間。
――『平日の森』が、私を待っている。
その事実に、全身の血が歓喜に沸き立つような高揚感が込み上げてきた。
栞は息を吸い込み、真鍮の鍵を、板戸の十字の鍵穴へと真っ直ぐに差し入れた。
――カチリ。
吸い込まれるように、鍵が奥まで嵌まり込む。
右へと、ゆっくりと手首を捻る。
――カチャリ……。
澄み渡るような硬質な金属音が土間に反響し、密閉されていた空間の圧力が、ふっと抜けた。
取っ手に手をかけ、横へと滑らせる。
すうっ……と隙間から溢れ出してきたのは、熟れた野果実の甘やかなアロマと、冷涼な針葉樹が織りなす、あの愛しい異世界の風だった。
栞の唇に、満面の、迷いのない笑顔がこぼれ落ちた。
「……こんにちは、私の森」
敷居を跨ぎ、栞は陽光の降り注ぐ扉の向こうへと、軽やかに足を踏み出していった。




