54_真っ暗な街
――魔神が復活しました。
兵士の言葉に、エリスたちは硬直する。
魔法救皇が万能な魔力を授けられた、一番の理由。それが魔神との戦いだ。
この真っ黒な空の変異も、その影響なのだろうか。
それともアシュレイの心境だけを示しているのだろうか。
(いえ、空の心配をしている場合ではないわ……)
大昔に優れた大魔導士である十聖たちが封じた魔神は、定期的に封じ直さなければならないのだ。
伝説によれば、魔神が目覚める時は大量の魔物が大移動を始め、やがて魔神はゆっくりと動き出し――放っておくと、当然魔神は移動したり気まぐれに魔力を放っていくので、人類への被害は甚大なものとなる。
特に、長く眠らされたせいで鬱屈としている場合は、積極的に人類の数を減らそうとしてくるらしい。
アシュレイは暗い顔で、「こんな時に……」と俯いていたが、やがて言った。
「魔神……面倒だな」
「え」
「もう封印なんてしないで……てしまえばいいのに」
最後の方は聞き取れなかった。
エリスがアシュレイの顔をただ見つめていると、彼は何やら決意したようで、
「じゃあ、行ってくるね」
と、あっさり姿を消した。
東の空に、真っ黒な雲が渦巻いていた。
◇◇◇
王都からでも見える東の山の麓には、魔神の一体が眠っている。
六百年前に十聖が封じた巨大な魔物。水を司るその魔神は、凶暴性もさることながら、『埋めておけば水脈や雨の恩恵を得られる』という理由で、倒されずに眠らされている魔神だった。
「消滅させちゃいけないんだよね……」
アシュレイは一人、逃げ惑う民の上空に浮きながら、ゆっくりと身体をもたげていく『真っ黒な水でできた山のようなもの』を眺めていた。
一番麓に近い住民は、事前に転送魔法を街ごと掛けてあるので、一定以上の魔力の揺らぎを感じた時点ですでに避難が終わっている。今逃げているのは、まだ十分に距離があるものの、万が一の時の場合には魔神の進行方向に位置する地域の民たちだ。
(思ったよりも大きいな……)
民たちも同じことを思っているのだろう。本当に大丈夫だろうかと心配にもなる。あれが暴れでもしたら王都は壊滅、それどころか国の半分すら一時間と経たずに更地にされかねない。
(……僕が倒さなかったら大陸ごと壊滅するのかな)
まさに『山』の規模だ。
文献で見るのと実際に見るのでは、印象がまったく違う。
生かさず殺さず、ぶん殴り、弱らせ、そしてまた封じ直すことを推奨とされている。
「……おじいさま」
アシュレイはちいさく呟き、国宝の一つである長い魔杖を転移魔法で取り寄せた。
ぱっと現れたそれを握ると、「本番ですよ」と声をかける。
「……アシュレイか」
魔杖はどこか眠たそうに、掠れ気味の声を出した。
「ああ、良かった、起きていらしゃった。最近ずっと寝ているから消えちゃったかと思いましたよ」
「……消えかけの幽霊に何か用か? ……うわ、魔神じゃねえか」
「寸前まで寝てたんですか?」
魔杖をぶんぶんと振ると、「うわ、やめろ」と青年らしい声で文句を言う。
「……というか、お前、雰囲気変わったな? 何か怒ってるのか? ……運命の乙女はどうなった?」
「喧嘩中と言いますか……エリスさんが兄さんと結婚しかねない瀬戸際と言いますか」
「どうして兄に取られかけてんだよ」
「まったくですよね、僕にもわかりません」
ぶんぶんと心の動揺を反映するように魔杖を振り続けるので、「やめろ、やめろって!」と魔杖が声を荒げた。
「で、おじいさま、あれはぶん殴って弱らせればいいんですよね?」
「そうだな。『有益だから後世に残す』と十聖が決めた一体だ。……というかあれだけの質量のものを万が一倒せた場合、世界への影響は計り知れないぞ。数秒は超重力の渦ができて根こそぎ吸い込まれて消滅するとか何とか……難しいことはわからんが、俺の時もただ封じ直しただけだ。……感謝しろよ、俺の時は完全に一人で、相談相手もいなかったんだったからな。先代の幽霊なんて俺が初めてだ」
「はい、ありがとうございます」
気のない感謝を述べると、「お前、本当に何か雰囲気変わったな?」と魔杖がアシュレイを窺うような素振りを見せる。
アシュレイは静かに魔神を見つめ続けていた。
「一人、か……」
ぽつりと呟き、そして自嘲するような笑みを見せる。
「誰もいませんね、本当に」
そう言って、アシュレイはまっすぐに前方に続く街を見渡した。
アシュレイが魔法で手伝ったこともあって、すでに避難は終わり、暗雲で真っ暗な影が掛かった街にはもう誰もいない。ひどく静かで、まるで偽物の世界のように見えた。
今は無傷な建物たちも、もしここへ魔神が来れば、廃都となる。
誰も戻っては来られないだろう。
「静かだなぁ」
この世界の命運がこれから決まろうという時に、自分だけがここにいる。
「みんな見てなくていいのかな。僕が逃げてしまったら、どうするんだろう。見張らなくていいのかな」
「……おい」
「逃げませんよ。逃げないけど……」
アシュレイは、まだゆっくりと、本当にゆっくりと身体を起こしていくような寝起きの『真っ黒な水でできた山』のような魔神を遠くに見つめる。
「……誰も見てないなら、もう好きにやっていいと思うんですよね」
「……ん?」
魔杖は怪訝そうに聞き返した。アシュレイは魔神に視線を向け続けたまま、ぶつぶつと心の内を吐き出す。
「だって、封じ直しても、また次の代の魔法救皇の時にも目覚めるんでしょう? ――なんでしたっけ、あんまり何百年も眠らせておくと魔神の鬱憤と魔力が溜まりすぎて反動がすごいことになるから、百年単位で破れるくらいの封印にしないといけないんでしたよね? で、これを延々と、魔神が起きたら殴りまくって弱らせて封じて、魔神の魔力が溜まったらまた封印が破られて起きて、また封じたらまた起きて――世界の最期まで人類はやり続けるってことですよね? なんだか馬鹿らしいと思いませんか? どこかで区切りをつけるべきだと思うんですよね」
「おい、まさかお前――」
魔杖は、息を呑んで、それから言った。
「倒すとか言うんじゃないだろうな」
「あれ、うちの城の番犬にしようかな」
「……は?」
二人の言葉はちょうど被った。魔杖はもう一度、おそるおそる聞き返す。
「……おい、今、なんて言った?」
「あ、犬じゃないな。……何だろうあれ、竜? まあなんでもいいけど飼ってみよう……あ、でも、エリスさんは猫派かもしれない。猫以外は嫌かな? ちゃんと聞いておけばよかった」
「……さっきから何を言ってるんだ、お前は」
魔杖の混乱をアシュレイは気にも留めていないようだった。魔杖の方をまったく見もしない。
「だっておよそ百年とはいっても、多少はずれるし、いつ目覚めるか心配しておくのも面倒でしょう? 次代が可哀想だ。だからもう眠らせなくていいと思うんです。ずっと起きていていい。恩恵って言ったって、水脈とか降雨量の話でしょう? 僕が調節しますよ。だからあいつは城に繋いでおく。そうしてエリスさんと暮らすんです。……ねえ、そうしたら兄さんも城には近づけないでしょう?」
「…………」
仄暗い感情の見える提案に、魔杖は言葉を失う。それから戸惑いながら、なんとか彼の心に寄り添おうと言葉を選んだ。
「それはお前……なんというか……魔神が城の前に寝そべっていりゃあ、出入りできるのなんて、魔法救皇のお前くらいだが……」
「でしょう? 名案だと思いませんか?」
弾むように笑みすら浮かべたアシュレイに、「お前、ぶっ壊れたのか?」と遠い親戚である魔杖は本気で心配そうな声を出す。
目を覚ませ、と頬を突こうと、その手から逃れてぴょんぴょんと跳ねるが、アシュレイはさりげなく躱すだけで、笑顔で魔神の動きを眺め続けている。
「僕はこの日が来たから、やっと重荷がおろせるんです。この時のための万能な力。兄さんがあと何百倍か魔力を持って生まれていれば、魔法救皇なんかいらなかったのに。……僕はここで一人きり、こうして静かに、誰もいない街にいなくて済んだのに」
「……俺もいるぞ」
「はい、ありがとうございます」
アシュレイは返事こそしたが、あまり感情はこもっていなかった。
ここには兵士すらいない。非常時のための打ち合わせは十年も前に済んでいる。アシュレイは『誰も寄越すな』と強く厳命した。だから一人で、魔神を眺めている。
「腹が立つな……やっぱり封じ直して終わりじゃ嫌だな……僕の城の番犬にしよう……」
「……大きすぎないか?」
「魔法で縮めますよ」
「ああ、万能だったな。さらっと言うからびっくりしたぞ……いや、しかし、そんな無茶な変化をさせて、周りに影響が出たらどうするんだ?」
「……さあ、その時考えますよ。どうせ僕の城の周りは人が住んでいない辺境なので」
思わず魔杖は動揺した。今までなら、この青年は周りに影響が出るかもしれないのに、「その時考える」なんて投げやりなことを言うような人間ではなかったからだ。
行き当たりばったりの、生気のない返答だ。
魔杖は先ほどから抱いていた違和感の正体に気付いた。
「……お前、何かに絶望したのか?」
静かな問いに、ようやくアシュレイは、魔杖に視線を向けた。
「だって、結局僕は、人間の『外側』にいるから」
アシュレイはくしゃりと泣きそうに表情を乱した。
「……みんな、僕がいらないくせに。僕がここで何をするか見ていないくせに。僕が生まれていなくたって、気づかなかったくせに」
「アシュレイ……」
魔杖は、慎重にアシュレイに話しかけた。
「なんというか……あれか……運命の乙女と喧嘩したんだったか? それで自棄になってるんだな……?」
魔杖の問いに、アシュレイは答えない。
「大丈夫だ、俺は何度も言っていただろう、運命なんかなくても恋愛はできる。初恋で挫けたからって人生は終わらない。誰だって一回や二回は失恋するものだ」
「……おじいさまは結局運命の乙女と結婚したじゃないですか」
「そうは言っても新婚二年目からは背中を踏まれまくっていたぞ……ゴミを見るような目で『私の視界に入るな』とかも命じられていたからな……」
アシュレイはじとりと魔杖を一瞥した。
先代の『運命の乙女』の気の強さ、苛烈さは有名な話だ。平民出身で、擦り寄る貴族をすべて侮蔑の目で見下し、なにより夫である魔法救皇への容赦のない拒絶は尋常ではなかった。それこそ周囲の貴族が『運命の乙女なんて見つからないほうがいい』と思うほどの厳しい皇后だったらしい。
だが――。
「でも愛されてたじゃないですか。幽霊なら知ってるでしょう? あなたが死んだあと、『稀代の悪后』はあなたの後を追って亡くなったんですよ。『あいつがいない世界なんて意味がない。あいつが望んだから皇后になってやったのに』って言ったらしいですよ。愛されてたじゃないですか」
「いや、それとこれとは――」
はっきりした否定でもない言葉は、今のアシュレイにはつらかった。
「愛されてたくせに。もうおじいさまもいらない」
転送魔法で魔杖を古城に放り込んだ。




