1
濃霧の月、金の日。
「ねえ……見て」
井戸で水汲みをしていた女が、言った、家の修理のために屋根に登っていた男が顔をあげた。
そしてーーー。
小さな声でつぶやいた。
「どうして北の森が紅いのかしら……」
噂は少しずつ、少しずつ……。
だが確実に、サーラ国を支配し、浸透していった。
民は普段、北の森には入れないから、誰も確かめに行くことはできず、憶測だけが飛び交う日々が続いていた。
この現象は、最近とくに頻繁に目撃されるようになっていた。
* * *
濃霧の月の終わりになって、ネオンが回復した。それを待って、聖月の宮には不思議な赤い光を確認するという意見が一致し、リアスが再び集まっていた。
「私とカリ、そしてシアで行く。他のリアスは各々の宮で待機。月姫の巫女様のお部屋そばでチェザ、お前が警護しろ」
「……え? おれ?」
「そうだ」
長のイーザは、それ以上を言わなかった。ごたごたしている今、もっとも大切にすべき月姫の巫女を、イーザはチェザに託したのだ。まだリアスになったばかりのチェザを。
責任という言葉よりも、そのときのチェザには戸惑いのほうが大きかった。
「おまえは一番仲がよかっただろう。月姫の巫女様と。まだお小さくあられる方だから、チェザが月姫の巫女様を助けろ」
「う、うん……っ!」
おもわず敬語も忘れて、チェザは無心で頷いた。
イーザたちはチェザからそのほかのリアスに視線を移した。
「俺の代わりを頼む、ネオン」
「承知しております。お気をつけて、イーザ様」
三人の背中を見送ったあと、リアスたちはすぐに散らばった。残ったリアスたちとてやるべき仕事はたくさんあるのだから。
聖月の宮に二人のリアスとチェザを残し、あとは民の不安を取り除くために各家を訪問していく。国中の民にひとりひとり。民のために、月姫の巫女のために動く、それがリアスであるのだから。
とは言っても、サーラは狭い。実際のところ、それほどの苦労はないのである。
そして、チェザは月姫の巫女の部屋を訪れていた。
「エ……月姫の巫女さま」
おもわず本名を、今はもう家族しか呼ぶことのできないエリェルという名を、一介のリアスの身で呼びそうになった。彼女は振り向くと、チェザの顔を見て安心したようにほっと息を吐いた。
「よかった、チェザに会えて。銀の御剣が不安そうなんです」
昔とさほど変わらぬ口調で話しかけるから、チェザには彼女が月姫の巫女ではなく、ただのエリェルに見えてしまう。システィザーナ・エリェル・ルーシファーというその名を忘れかけてしまう。
「……銀の御剣が?」
それでも彼の中にもリアスとしての自尊心や理性がある。丁寧な口調を努めた。
リアスであるチェザでも、御剣の哀しみや不安を理解することはできない。たった五歳という幼さでも、彼女は月姫の巫女。代々のシスティザーナの名をもつ乙女の記憶を受け継ぐ、ルーシファーの娘なのだ。いまさらながらにチェザは驚愕を覚える。それと同時に落胆をも……。
なぜだろう。
月姫の巫女はこのサーラ国にはなくてはならない存在であるのに。
「わからないの、まだ。あたしにはまだわからないけれど。……だって未来はもう視えないのだから」
決して悲観的な口調ではなかったけれど、そこにはたしかに悲痛な想いがあったのだと思う。
失われた金の御剣。
それと同時に、サーラは未来を失った。
彼女の金色の瞳には、今どんな過去が、そして現在が映っているのだろう。
そして、どんな未来を予測しているのだろう。
「でも……だからってーーー」
おもわずチェザの口調から敬語が消えた。
「うん。まだ大丈夫」
まだ、大丈夫。
それはチェザにというよりは、銀の御剣に向かって言った言葉であっただろう。
「大丈夫です。リアスがいるんだからーーー」
「月姫の巫女様っ! チェザっ!」
慌てた様子でチェザの科白を遮ったのは、同じくリアスのフィーザだ。続いて、部屋の戸口にかかる布を掻き分けて現われた彼女は、月姫の巫女とチェザを交互に見つめた。フィーザの役目は聖月の宮の別室で待機することだったはずだ。
「失礼いたします、月姫の巫女様。リシーが……。リシーがどこにもいないんですっ!」
「なんだって!」
月姫の巫女の前にいることも忘れて、チェザはおもわず驚きの声をあげる。
彼はイーザに聖月の宮からの外出を禁じられている。それはリュシルエールが危険で監禁しなければならないというのではなく、隠しようのない金色の髪と金色の瞳でサーラ国を歩けば、いくら彼の存在を公表したとはいえ、民が同様するばかりか憶測や噂ばかりが無駄に飛び交うことになるからだ。
そして、サーラにいた数ヶ月間、不自由さは感じていたかもしれないが、チェザやフィーザと楽しく過ごしていたし、逃げ出すそぶりなどまるで見せなかった。
「探しに行かなきゃ」
「チェザはダメよ!」
すぐにでも走り出しそうなチェザを、フィーザの鋭い一言が制した。疑問の瞳を向けるチェザに、フィーザはわざと冷静な声で告げる。
「だって、イーザ様からのご采配に従わないつもり? チェザはここから離れてはダメよ。リシーはフィーザたちでも探せるけど、月姫の巫女様を今守れるのは絶対にチェザだけだもの」
はっとして、チェザは振り向いた。
正論だった。正論すぎて、言葉も出なかった。
そんな簡単なことにも気づかなかった。チェザもリアスだが、フィーザもまた月の紋章を宿す者として、月姫の巫女のために民のために行動できるリアスなのだ。
同じように額に輝く証を持っているのにーーー。
フィーザの表情がいつもよりずっとずっと大人に見えて、チェザは少しだけ悔しさを覚えた。
だが、それを悟られまいと唇を引き結んだ。
「月姫の巫女様をお願いします、チェザ」
「……あ、ああ」
強い口調に押されて、去って行く彼女の背中にそれしか言えなかった。