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4.祈りの中で <男> シャルル=イグナス・サンソン

薄い壁に囲まれた小さな窓の静かな部屋。


外の喧騒は遠く、ここには、風がすり抜ける音と、小さく響く雨音の余韻しかない。


シャルル=イグナス・サンソンは、その夜、祈りに集中できずにいた。


蝋燭の炎は揺れ、祈祷書の文字は、何度も同じ場所を行き来する。


いや、祈祷書など見ずとも、そこに書かれた文字を諳んじることは、たやすい。


口では、聖句をなぞりながら、彼の心は、別の場所にあった。


『アンヌ・ド・ブリュイ』


その名が、祈りの合間に浮かび上がっては消え、消えてはまた現れる。


「ただの女だ。行きずりの視線だ。忘れよ。」


彼は、それを振り払おうとした。


祈りの場に世俗の感情を持ち込むことは、彼にとって許されぬことだった。


しかし、名を消そうとすればするほど、閉じたまぶたの裏に浮かぶのは、あの時、光を受けて頬に落ちた彼女の睫毛の影。


祈れば祈るほど、彼女の面影が・・・その像が、鮮明にうつしだされる。


古書店の前での微笑み、紙片を受け取るときの指先の動き、彼の名を聞いたときに一瞬、揺れた眼差し。


そのどれもが、彼の内なる場所に刻み込まれていた。


彼は、祈祷書をたたむと、机の上に置いた。


もう一度、彼女に会いたい。


これは、欲望ではない。


衝動でも、逃避でもない。


もっと静かで、抗いがたい何か・・・


彼は、自分の心に、鎮まるように言い聞かせた。


「神よ・・・」


思わずつぶやく。


「これは試練でしょうか?」


答えは、なかった。


彼は、声に出さずに祈った。


いつもの沈黙が、同じようにそこにあった。


神が、彼を拒絶しているようには感じられない。


むしろ、岐路の選択を委ねられているような、神聖な重みを持っていた。


ざわつく心をおさえつけ、紙を広げ、ペンを取った。


いくつかの書類に目を通す必要がある。


しかし、筆が進まない。


止まったペン先の文字が、滲む。


栗色の髪・・・そして、澄んだ湖のような瞳。


小さなインクのかたまりは、やがて黒い染みとなり、広がった。


その形さえ、どこか彼女の横顔に似て見える。


思わずペンを置き、こめかみを押さえた。


壁に囲まれたこの小さな部屋に座る自らの内側に、こんなにも広い空間がある・・・


その空間を満たすのは、アンヌ・ド・ブリュイの面影だった。


ペンを置き、食事の準備を始める。


パンは、固く黒かった。


握る右手に軽く力を込める。


その黒い塊を砕きながら、心の中の何かも砕ければよいと願う。


しかし砕けるのは、黒いパンだけで、胸の塊は・・・その火は、むしろ勢いを増すばかり。


「もし、再び会えたならば、私は、何を語るのだ。」


つぶやいた自らの問いに、恐れが混じる。


そもそも、再び会い、何かを語る資格などない。


だが、「会いたい」「語りたい」という欲求が、ここに確かにある。


深夜。


細い月明かりが、窓から差し込み、床に淡い影を作った。


浅い眠りは、夢を呼ぶ。


ムーン=チャック通り。


陽光が降り注ぎ、空には白い綿帽子が浮かぶ。


女が、立っている。


風に揺れる衣。


栗色の髪が、光を弾く。


「アンヌ・ド・ブリュイ・・・」


声は、震えながらも、確かに届いた。


「私の名を呼んで、いったいどうなさるの?」


その静かな問いに、言葉を失う。


「ただ、あなたを思い出すために。」


「思い出すだけで、足りるのですね・・・」


女の瞳が揺れ、その奥に、かすかな哀しみが見える。


何も、答えられない。


夢は、そこで崩れ、ベッドの冷たさが、背に伝わった。


「思い出すだけで、足りるはずがない。」


小さな窓を見つめ、そうつぶやかずには、いられなかった。


月の光りを求め、窓辺に立つ。


空は、薄紫に染まり始めていた。


新しい一日。


それは、祈りの時間であった。


祈祷書を持つ手が震える。


「思い出すだけで、足りるのですね・・・」


胸の奥では、女の問いが繰り返された。


ただ、時間だけが、過ぎゆく。


やがて、窓からは、朝の光が差し込み、男の影を細く伸ばす。


その影は、どこかムーン=チャック通りのあの古書店へと続いているように見えた。

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