5.巡礼と必然 <男> シャルル=イグナス・サンソン
その日を境に、水面に小さな波紋が広がり続けた。
鐘の音は、午後の光を震わせるように街に広がり、心をざわつかせた。
足は、無意識のうちに、再び同じ通りへと向かっていた。
理性は、偶然など期待すべきではないと告げていたが、体は動いた。
通りを、今日も静かに歩いた。
信心深い男は、祈りではなく、その歩みによって答えを探そうとした。
道を敷き詰める石畳の隙間に溜まった夜の雨の名残が、陽光をはじく。
2日連続の散歩など、いつぶりであろうか?
しかし、足取りは一定で、石畳を踏む音さえ祈りの言葉のように整っている。
ムーン=チャック通りは、いつものように静か。
昨日と同じ時刻ではあるが、古書店の前に、彼女は居なかった。
5分、10分・・・いや、かなりの時間を、彼は、そこで過ごした。
ひび割れた器に、水が注がれることはなかった。
通りを行き交う人々を観察しながら、彼女の姿を探す自分に、苦い笑みが浮かぶ。
愚かだ・・・彼は、思った。
彼は、矛盾を自覚していた。
教会の鐘が鳴った。
帽子を脱いで十字を切る。
その仕草は、いつもよりもゆっくりであった。
そうして、巡礼が始まった。
彼の祈りは、もはや神だけのものではなかった。
同じ時間帯・・・今日は、彼女がそこにいるのか、いないのか。
翌日の昼、古書店の前には、干した香草の匂いをさせる老婆の背中だけがあった。
またしても、かなりの時間をそこで過ごし、彼は、落胆し続けながら、石畳を数えた。
まもなく、老婆は、歩き去った。
鐘の音が、むなしく響いた。
午後の光は、刻々と角度を変え、店の軒先に吊るされた銅の看板の縁を鋭く照らした。
彼女の姿は、ない。
胸に生じた苦みは、焦燥へと変わり、祈りの言葉は、乾いた砂の味をしたまま、喉を通り抜けて消えた。
四日目の午後、空は、鉛色をしていた。
細かな霧雨が、石畳を濡らす。
外套の襟を立て、濡れた空気を吸い込むたびに、心に広がる不安が、鉛色に膨らむのを感じた。
彼女は、この街を去ったのではないか。
もしかすると、病に伏しているのではないか。
名だけを知る女の安否を案じる自分を、彼は、戒めた。
俗世の恋慕に心を乱されるなど、許されぬはずだった。
それでも、店の前を通る人を見るたび、視線は、彼女を探した。
五日目、珍しくムーン=チャック通りは、騒がしかった。
親子連れ・・・子どもが、通りで木製の輪を転がしていた。
駆ける足音と、大きな笑い声が、石畳に反響していた。
彼は、その無邪気さに、胸を刺される思いがした。
騒がしさが、静かさを好む彼女を遠ざける・・・そんな気分であった。
彼は、歩を進めると、古書店の前で立ち止まり、表から見える書棚に並べられた本の背表紙を眺める。
あの時、彼女が見ていた書棚だ。
木枠に、手を触れた。
木の感触が、掌に伝わる。
なぞるように、つぅぅと手を動かし、棚の本に手をかけようとして、彼は、その動きを止めた。
ふっと目を閉じ、そして3秒だけ数えて、目をあける。
そのまま、踵を返すと、親子連れに目もくれず、彼は、ムーン=チャック通りを後にした。
六日目の朝、彼は、目覚めた瞬間に確信していた。
今日、彼女に会うだろう・・・と。
理由はない。
ただ、胸の奥が静かに震えている。
午後、鐘が鳴る。
彼は、いつもよりわずかに早くその足を動かした。
石畳は、昨日よりも明るく、空は澄み渡っている。
そして、通りは、静かであった。
古書店の前。
居たっ・・・
一瞬、その足を止めた。
1冊の本を手にした女が、優雅に振り返る。
女の横顔を雲間からの日が優しく照らし、金色に輝く髪が、ふわりと空気を揺らした。
髪色が違った。
表情が違った
店の前に、彼女は居なかった。
胸に、小さな穴が開く。
自分の感情を、観察する。
寂しさ、焦り、そして淡い希望。
祈り、願う自分に気づき、苦笑にも似た息を吐く。
希望を持つことは、弱さか?
それとも、人としての証か・・・
答えを自分は知らない。
「神よ・・・」
主に問いかけるも、答えは無い。
『アンヌ・ド・ブリュイ』
胸によぎるのは、一つの名前・・・
静かな部屋で膝を折り、長く目を閉じた。
彼女の名が、胸の奥で揺れる。
その灯を吹き消すことは、できるのか。
自分は、ただ一人の影を追い求めるだけの愚かな存在ではなかったはずだ。
だが同時に、この愚かさが、自分を生きた人間にしているような気もした。
七日目。
決意した。
今日も居なければ、もうこの場所を通るのはやめよう。
そうして、彼は、すぐに思い出した。
昨日の昼も、同じ決意をしたことを・・・
その日の街は、平凡な空気をただよわせていた。
柔らかな陽光は、家々の壁の上を滑り、通りへと降り注いでいる。
彼は、いつもの刻限に歩き出した。
足取りは、重い。
ムーン=チャック通りに差しかかったとき、彼の胸は、小さく跳ねた。
店先に吊るされた銅の看板の下、陽光を受けて淡く輝く栗色の髪。
彼女が、立っていた。
アンヌは、白い指で書棚に手を伸ばしていた。
視界が、光の眩しさで、かすんだ。
六日間の空白が、ガラリと音を立てて崩れ落ちる。
振り向いた彼女と目が合った。
距離を、1歩2歩と縮めた。
小さく会釈をする彼女。
「お久しぶりです。サンソン様。」
彼女は、公的な呼び方を選んだ。
その慎重さが、ありがたかった。
彼もまた、礼儀正しく応じる。
「ご機嫌よう・・・ド・ブリュイ嬢。」
「あら、美しい青ですね。」
胸のポケットからのぞく彼のハンカチに、彼女は、視線を向けていた。
「今日の空の色です。」
彼は、答えた。
短い会話、一週間の巡礼・・・そこで、彼が得たもの。
それは、再会という必然であった。




