酷い過去が駆け巡る2
言いたいことは山ほどあった。
だけど、えくぼを作ったドンドゥルマが「連れて行ってちょうだい」と警備員に言えば、私はすぐに退散を強いられてしまった。
ただの女同士の小競り合いに警備員は対策を取ったりもせず。私も、帰宅しなさいという命令に従って夫のもとへ行く。
ひらりと手を振るドンドゥルマが、私に余裕を見せるためでなく、私の夫に対しての『何か』のつもりなのは分かっていた。
夫の、ドンドゥルマを追う甘い瞳。それに秘かに答えるドンドゥルマの微笑みがいつもあった。だけど今夜は甘い時間がきっと叶わないのだろう。
男は仕方なく妻を見た。
大きな手を振り上げて妻を迎え入れた。
……私は、彼女が許せなくて。
彼女を呪ったのだった。
突然の衝撃音が耳を突き抜ける。
ただの一瞬の出来事なのに、私の心臓はやっぱりしきりに激しく波打った。
息をするのが辛くって、誰かの影が揺れ動くのを視界に入れただけで、身が縮まる思いがする……。
「大丈夫だよ、グラニータ」
軽く肩に触れたのが人の手じゃなくてシーツか何かと思うほど。
「あ……。ごめんなさい」
「謝らないで」
私の肩に手を当ててくれたのは夫。
後方の席でウェイトレスが謝罪をし、割れたガラスの掃除が始まっている。
夫が席に座りなおすと、私たちは向かい合わせになった。そこでも優しい夫は、少し椅子の位置をずらして、正面という場所からはほんの少し外れてくれる。
私たちの間には小さな揺りかごがあった。
私の娘が今はレストランのナフキンを気に入って、ずっと弄んでいたよう。
「食欲は沸かないかい?」
「うん。……でも、少しずつ食べるわ」
「無理はしなくていいからね。僕は大食らいだから二人分のフルコースもペロリだ」
そう言って、メインの肉料理をひと口で食べてしまった。
思わず私は面白くって吹き出した。だってこれじゃ、シェフがこだわり抜いたソースが手付かずだもの。このままお皿をウェイトレスさんに下げさせるのも酷い話。
「じゃあ半分ね」
私は、自分の肉料理を切って、彼のお皿に乗せた。「幼い子供じゃあるまいし」と言われたわけは、肉料理をひと口大に小さく切ってから乗せたからだった。
私の意図が伝わって、今度はちゃんとソースに付けて食べてくれたわ。
「すごいや、味がある!」
「もう。あなたったら……」
やわらかなひと時。
これを幸せと呼ぶのなら、このまま海を渡って私たちだけで過ごしていたいけれど。
『ご乗船の皆様、繰り返しご案内申し上げます。当船はただいま一部設備の不具合により、予定しておりました周回航路を離れ、最寄りの港へ帰港いたしております……』
繰り返し流れるこの案内が言うように、私には元いた場所に帰りなさいと言われているような気がしてならなかった。
見慣れた港。到着してからすぐに私は受話器を持った。番号はあのお茶会の時に聞き出したものがある。震える指でかけてから、どうか出ないでと祈っている矛盾。
「……はい?」
「あ。……ファールーデ? グラニータだけど」
電話相手の声は聞き慣れないものだった。
「グラニータ? 一体どうしたの?」
「うん。ちょっと聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
いつも朗らかな雰囲気をまとファールーデなのに、電話越しだとなんだか冷たいように感じるわ。
私の気になる話を聞いてもらうには彼女しか居ないとおもったのだけど、話してみたらなんだか違うような気がしてしまった。
「えっと……じ、実はクルーズ旅行に出ていたの。それでその時、知らない海上生物を見つけて。イルカ……だったかしら。水の中を泳いでいてよく見えなかったんだけど……」
ダメだわ。あの時のファールーデのように、私は正確な話が出来ない。
こちらからファールーデに種類を聞いておいて、私が実際に見た特徴のようなものは何もかもおぼろげ。これじゃ、ただ話を逸らす嘘だと丸わかりだっただろう。
「グラニータ。ちょっとごめんなさい。分からないわ。海の中ってことならイルカで合っているんじゃない? スナメリとかマナティーとか似ている生物はいるけれど」
「そ、そうね……。そうよね。ごめんなさい」
動物についてファールーデは詳しい。だから私には余計分からない話題だったわ。
そのまま電話を切ろうとすると、ファールーデは待ったをかけた。
「今港にいるんでしょう?」
「ええ。これから家に帰ると思うわ」
「ちょっと会わない?」
「えっ?」
ファールーデは言う。
「ドンドゥルマのことがやっぱり気になるの。あのお茶会の後、やっぱりソルベにも連絡をしてみたんだけど、ドンドゥルマのことは自分が何とかするって言って一方的に電話を切られてしまったの。私……何か大変なことになる気がするのよね……」
電話の向こうで声が震えている。
まさかファールーデが泣いているの?
「た、大変なことって大げさよ」
「大げさじゃないわ。だって私、ドンドゥルマに酷いことをしてしまったから」
酷いこと……。
それなら私も……。
「どうしようグラニータ。私、私ね、ドンドゥルマを呪ってしまったの」
「の、呪うって……心配し過ぎよファールーデ」
そう。大げさ過ぎるのはファールーデのいつものことじゃない。
悲観的になりやすいのも彼女のよくあること。
電話越しに鼻をすするファールーデ。私は聞きながら、しかしこれ以上ファールーデのことをなぐさめる言葉が何も出てこなかった。
ドンドゥルマを呪ったのは私だって、正直に言う?
そしたらファールーデが私のことを酷い人間だって指さしてしまうかもしれない。ううん、それで良いはず。むしろそうされるべきなのに。
「あなたは悪くないわよ……」
中身のない言葉しか口から出てこないのよね。
ただの嫉妬のために、ドンドゥルマに地獄に落ちろと願ったのは誰でもない私。彼女を煽る言葉を浴びせ、ついに彼女が動き出したのは私の言葉がきっかけに違いなかった。
だから本当にファールーデは悪くない。
悪いのは私なのよ。
「あのね、グラニータ。私を嫌いにならないで」
「ならないわ」
「……私、ドンドゥルマに死んじゃえって言っちゃったの」
港から船が出る汽笛が鳴っている。
大きな物音にはいつも体が勝手に反応してしまうのに。
私には何も聞こえない。
何も。
(((次話は来週月曜17時に投稿します
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