とげ(後)(☆)
「最近彼氏さん来ないですねえ。お忙しいんですか?」
「ああ、別れたからー」
あっさりした口調になってるといいなと思いつつそう報告すると、背後でまいちゃんが息をのんだのが分かった。
「――ごめんなさい」
「えっ、ちょっと、まいちゃんがあやまらないでよー、ごめん、先に云っておくんだったねえ、お客さんだもんねえ。小早川てんちょー、そんな訳なので、すいませんがお客さん一人減っちゃいましたー」
「分かった」
大昔の元彼は、普通にそう返してくれた。
恋が破れたあとの仕事って辛いかな、って思ったけど、前の時とおんなじで、仕事してる方が気が紛れた。多分お客さんには見破られなかったと思う。
バレンタインのチョコは、そのままゴミに捨てた。彼の私物も、予告通り。
ついでに模様替えと断捨離をして、部屋の中で思い出のあるものを見るたび悲しくなる回数を減らしてやった。
いつかは『あんな恋をしたな』って、穏やかに思い返す時が来るかも知れないけど、今はまだサバイバルしている気分。一日一日が、戦いめいている。
忙しくしている日中はいい。問題は、心が油断している時に不意に思い出しちゃうことだ。
お風呂上がりにうっかり『希実子ちゃん』っていう呼び声が勝手に再生されて、マットの上でぽたぽた滴を落としながらうずくまって泣いちゃうことがある。夢で『別れてない私たち』が楽しそうにおしゃべりしたあと、現実の朝を迎えてしまうこともある。
ああ、二人で通ったあの飲み屋さん行きたいなあ。おやじさんの串焼き食べながら西鍛冶さんの悪口いーっぱい云ってやりたい。
――あそこには、あの人を連れてくの? 私とすげ替えにしても、おやじさんや常連さんはなんとも思わないで祝福するの?
そんな、嫌な風にばかり考えるのを、止められない。
今の自分は、ひまだと駄目な方へ駄目な方へどんどん落ちて行ってしまう。
今日も家で暗ぁいことばっか考えちゃうかな、と思いながら帰り支度を済ませて、「お疲れ様でしたー」とあいさつすると、小早川店長が「お疲れ。明日休みだし、少し飲んでくか」と云った。
「あ、店長のおごりならー」
にっこりとそう返すと、「それでいいよ、どこ行く?」とこれまた普通に返される。
「……嘘ですよお、ちゃんと払いますー」
「多少ごちそうするくらい何でもないくらいには給料貰ってるから遠慮するな」
「あじゃーす!」
「中村、お前今日は前島さんが迎えに来るって云ってたろう」
「ちぇー」
そんなやりとりに、少しだけ嘘笑いじゃなくちゃんと笑えた。
――あれ? 私、まいちゃんも来る前提で、オッケーしたんだけど。それをこの人、一刀両断的にスパンて切ったね。てことは、二人だね。
てか、最初に誘う時、わざと『柳井』って云わなかったね。この、腹黒……!
じろって睨んだら、悪ぅいお顔でにやりとされた。むかつく。
「行くぞ」
久しぶりに飲んだお酒は、どうやらよくない酔い方になってしまったらしい。何を云っても冷静な店長に、めちゃくちゃ絡んでしまった。
「だいたい、こばやかわさんが悪いんですよ――」
「ああ」
「私の男運のなさって、そこからだもんー」
「その通りだ」
「おんなをあっちでもこっちでも踏み台にしやがってー」
「すまない」
「誠意を感じなーい、もういっかーい」
「……すまない」
何年も前のことでねちねち云いがかりつけて、なのに小早川店長はくいくいお酒飲んでるくせにちっとも云い返したりしない。
むかついて、ますます愚痴を云っちゃう。
「あーもう、西鍛冶さんちに突撃して、大事にしてたスニーカー全部窓からぶん投げて捨ててこようかなー」
「お前はそういう事の出来るキャラじゃないだろ、諦めろ」
「だってー」
「いいから、もう好きなだけ今日は飲め」
「じゃあ、つぎ、萬寿くださーい!」
明日の二日酔いなんか知るもんか。
一日じっとしてれば、そのうち治まる、二日酔いなら。でも、失恋はそうはいかないよね。
うずくまって、泣いて、痛んで、仕事して、またうずくまって、泣いて。
そうしているうちに、何日も何か月もかけてやっと少しずつ楽になってく。恋から離れていく。もう恋なんて絶対しない、なんてラブソングみたいなこと思って、都合良く絶対とか使う自分をばかだなって嗤う。
でも、それでもね。
「……いちばんだいじに、なりたいなあ」
テーブルに突っ伏して呟いた言葉は、別に慰められたくて云った訳じゃない。
大事にしてもらえたら、その倍大事にするよ。
だからちゃんとかわいがってよ。二股も嘘もなしで。
そんなのはもう、おなかいっぱいだよ。
でも、私じゃ駄目なのかな。そんな資格、ないのかな。ばかっぽいから? 実際、ばかだから?
そんなことないって、誰か云ってよ。
私のそばにいて優しくしてよ。
なかなか懐かないけど、信じるのも好きになるのにも時間がかかるけど、そうしたら私、飛び込んでいける。
ふ、と目が覚めると、そこは見覚えのない場所で、ってかカラオケボックスで、状況が把握出来ないままゆっくり身を起こした。それと同時にバサッと音がして、ぬくもりが消える。――自分のじゃないコートが、床に落ちていた。
「おはよう」
「……はよ、ございます……」
「昨日はずいぶんかっ飛ばして飲んでたけど、体調は大丈夫か?」
そう云われて身体がはじめて気がついたように、おなかの底からぐっと吐き気がこみ上げてきた。
無精ひげの小早川店長は、スマホから視線を上げずに「トイレは出て右をまっすぐいったところだから」と告げた。
口とおなかを押さえて、よろよろとそこへ向かう。
おなかの中を空っぽにして、口をゆすいで、メイク直して、――さんざん泣いて、腫れたまぶたは見ないふり――自分がしでかしたことを思い出しながら、ゆっくり部屋に戻る。
飲み屋さんを二つはしごして、『好きなだけ飲めとは云ったが、もうやめた方が良くないか』と小早川店長に云われて『うるさーい!』って反論した。
『……送るから』と申し出されても、『やだ! い、今帰ったら泣いちゃうもんー!』って云いながらすでに泣き出して、店長の差し出したハンカチで涙とか洟とか拭いまくった。
酔いと涙で前が見えないくせにふらふら歩くから、支えられて街を徘徊した。
小早川店長は、そんな私を見捨てて帰らなかった。
呆れた風にも、皮肉な風にもならなかった。その上、私の『なんか泣ける歌、歌ってください』という無茶ぶりにも応えて、こうしてカラオケにも来てくれた。いい声で色々じょうずに歌い上げた店長の向かい側からそれを聴いて、タンバリンを叩きながらまた泣いた。
――そこで、記憶が途切れている。美声に包まれて寝ちゃったんだろうな。
……小早川店長は、なんでそこまでしてくれるんだろう。
放っておけないほど、昔の女が哀れだったかな。そう思うと、愉快なような、惨めなようなよく分からない気持ちになった。
でも、とりあえずお詫びとお礼を云わなくちゃね。
覚悟を決めて部屋に戻ると、私がトイレに立った時には普通にスマホをいじってた店長が、腕組みをしてすうすう寝ていた。寝てても無精ひげはえてても端正なんだよね。やっぱりむかつくわ。
寝てた間、私に掛けてくれてたコート。床に落としたあと、拾ってたたまれているそれを今度は持ち主に掛けようと広げると、なじみのある香りを鼻が見つけた。
まだ、この香水使ってるんだ。
都合のいい頭ふわふわ女だった私がむかーし贈ったやつ。『恭ちゃん』に似合うからって。
こんな風に今でも使われてるだなんて。しかも、ひっそりと香るそれは、秘めた恋心みたいだって思っちゃう。ちゃーんと違うって分かっていてもね。
やだな。慰めたり混乱させたり、この人いやだわ。
でも小早川店長がいなかったら、思いっきり酔って思いっきり泣くこともなくて、まだ家で重たいばっかりの夜を過ごしていたんだろうな。
リミッターなし(安心見守り付き)の夜を経て、私はほんの少しだけすっきりしてる。重たいまぶたと引き換えに、不条理な悲しさや西鍛冶さんを詰りたい気持ちは、埃が床に溜まるみたいに静かに積もった。もう、舞い上がらない。
それをさみしいと思う気持ちも、どこか他人事だ。
コートをそっと掛ける。ちょうどそのタイミングで、店長の上半身がゆらりと傾く。慌ててしゃがんで支えようとすると。
「!」
「……そんなに簡単に心を許すな」と、耳元で唇だけが器用に囁く。
「……は? 許してませんけどー?」
「今、俺がお前の肩にそのまま頭を乗せて動けなくしたらどうするつもりだったんだ」
「……別に、どうもしませんよー」
「寝てるふりして、もっと凭れてたら、首に吸い付くくらい容易いって分かってるか」
「……だってしないでしょうー?」
「まあ、さすがに今日はな」
「だったら、なんにも問題ないじゃないですかー」
「お前になくても俺にはある」
凭れてた身体が私から離れて、向き直った。
ぐ、と両方の二の腕を掴まれる。ちっとも眠そうじゃない目に捉えられる。
「弱ってる女をみすみす逃してやるほど優しくはない。他人の付けた傷を舐めるのは業腹だけど、チャンスである事に代わりはないから」
ああ、秘めた恋心。
なんてぼーっと思う。
淡々と脅しておきながら、あっさりと離れていった手と身体。
私が卑屈になる前に「云っとくけど、散々弄んでひどいやり方で捨てた女を面白おかしくいじってやろうだとか、遊ぶのにちょうどいい女だとかは思ってない。今も昔も」
「――こわー……」
私の考えてることって、顔にでかでかと書いてるんじゃないのって、思わずほっぺたをさすってしまう。
「昨日寝落ちする前に聞いた」
よかった。いやよくないよ昨日の私め。
ほっとしたり突っ込んだり忙しい私の耳に、小早川店長は。
「お前は、ばかなんかじゃない。ばかっぽいしゃべり方でもない。今回もその前も、お前に落ち度は一切ない」
「……」
「俺はお前のそばにいて、望むだけ優しくしたい、今度こそ間違えずに、ちゃんと」
「っ、」
「どれだけ時間がかかってもかまわないから、」
いつもなら『お前』もしくは『柳井』と動くはずの唇は、『希実』という形を作りかけていて、私はそれを止めたいのか止めたくないのか分からなくって、結局みすみす呼ばせてしまい、それで心は容易く動揺した。
こんな風につけ込んでくるなんて卑怯、ああ、でもチャンスって云ってた、と思いながら、狭いカラオケボックスの中でほんの何センチか距離を詰められて、ぐっと心臓を掴まれたみたいな気になった。そのまま下がってドアを開ければかんたんに部屋を出られるのに、動けなくって。
いつもの冷静沈着な顔も、暗黒面もかなぐりすてて、「逃げないのか」って聞いてくる小早川店長は、『恭ちゃん』みたいな顔で、自信満々に見えるくせ、ほんのすこしおびえているのが分かっちゃって、そんなの分かっちゃう自分が忌々しくって――
その時、夢に割り込んできた目覚ましみたいに、壁掛けの電話がプルプル鳴った。縋るように飛びついて出たら『お時間一〇分前でーす』ってのんきに告げられた。
「時間切れか。出るか」と何でもないようなテンションに戻った店長にあわせて「はーい」って云いつつ、内心、リングにタオルを投げ入れられたようにほっとした。
――って、そもそもなんで私が焦らなきゃいけないのよ。おかしいでしょ。
怒りながら歩くから、私にしては早足になる。でもおみ足の長い小早川店長は難なく横に並んできて「朝定食の店とコーヒースタンドとパン屋とモーニング出す喫茶店、どこがいいんだ」なんて聞いてくる。
「どこへも行きませーん。帰って洗濯回して寝ますー」
「そうか」
そう云うと、ピタリと止まったスニーカー。そしておみ足はくるりと回れ右を描いた。
「じゃ、気をつけて帰れよ。お休み」
「――おやすみなさい」
私の返事に振り向いて笑う顔は、朝のひかりに縁取られているせいかやたら優しいから、ひどい態度で突っ放したような、悪いような気持ちになる。ほんっと、単純。
優しくされたってなびいたりなんかしない。
私はまた、とげだらけになったんだもん。しかも前よりパワーアップしたもん。とげを難なく、ううん、おいしく食べられる人じゃなきゃ、きっと攻略は無理。
別に攻略されたくないくせに、そう強がった。
おいしくいただかれたのは、それから数ヶ月後だった。
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