とげ(前)(☆)
美容院シリーズ。「クリスマスファイター!」内の「とげとげマシュマロ」及び「ハルショカ」内の「とげとマシュマロ」に関連しています。
二号店のオープン時から毎月通ってくれている西鍛冶さんという男性のお客様にシャンプーをしていた時、何の前触れもなく「や、柳井さん、好きです!!」と大音声で告白された。
お店は、聞こえないポジションがない程度にはコンパクトだし、この日はフルメンバーでの出勤だったから、当然それはまいちゃんにも小早川店長にも届いてしまった。――めんどくさいなあ。
「とりあえず、今はお仕事中なので、お返事はあとでさせてくださいねー」と髪をじゃぶじゃぶすすぎながら小さく告げた。
私にしては珍しいこのささやかなアクシデントは、まいちゃんからLINEで一号店のメンバーにも伝えられてしまい、ポーカーフェイスのくせに恋愛トークが大好きな福原ちゃんからは『なにそれ』『二号店楽しそうですね』『そのイベント生で目撃したかった』『近日中に詳細教えてください』などなど、鬼のようにメッセージがやってきたことは云うまでもない。
「ごめんなさい」
さて、私はこのお断りの言葉を、最初にシャンプー台で告白された日からもう三回ほど繰り出している。そろそろ諦めていただけないでしょうかお客様。
『シャンプー台や店内での告白は、正直云って迷惑なんですよー』
はじめて告白された日、お見送りに出た路上でにこやかにそう伝えると、西鍛冶さんは『あっじゃあ次からは、このお見送りタイムでさせてもらいますね!』と即座に打ち返してきて、私がうっと云いよどんだ間に『じゃあ、また来月よろしくお願いします!』と予告して帰って行った。
西鍛冶さんは、フットサルが趣味だという爽やか系サラリーマンだ。
営業職についているというせいか、押しも強ければやすやすと引きもしない。それが、思ったよりいやじゃないことに驚いた。だからって好きには直結しないけど。
ルックスも爽やか男子だから、なにもこんな面倒な自分にいつまでも引っ張られていないで、とっとと他に行けば入れ食いだろうに、なんて残酷なことを思う。
口を付けなければどんどん冷めていくばかりのホットチョコレート同様、ふたたび熱くなることは出来ない自分。さて今回はどう断ろうかと思っていたら、西鍛冶さんがきゅっと切なそうに眉を寄せて見つめてきた。
「柳井さんのお気持ちは、分かっています。でも俺、諦められません」
「……困ります」
「絶対ご迷惑は掛けませんから、好きでいることを許してもらえませんか」
「……」
「柳井さん、」
「無理です。じゃー、伝えることも伝えたんで、失礼しますねー。ありがとうございましたあ」
意図しなくても伸びてしまう語尾を、わざともっと伸ばして嫌な感じに振る舞ってみても、彼は宣言通り諦めてはくれず、告白はそのあとも止まなかった。
「あなたはただ、自分になびかない女っていうものにムキになってるだけなんじゃないですかー?」
「柳井さん、だいぶ俺に対して辛辣になってきましたよね」
「ごめんなさーい、これが地なんですよー」
「いいですいいです、俺そういうの嬉しい」
「っ……」
「今舌打ちしました?」
「あっ聞こえちゃいましたあ?」
「はは……! やべえ、超楽しい」
「私は楽しくないんですけどー!」
「まあまあ」
月一で通ってきては懲りずに路上で告白して、速攻でごめんなさいするっていうのも、だんだん定番になってきた。
その上、「お騒がせしたお詫びにおごりますよ」なんて丸め込まれて、告白された日の夜は駅の向こう側にある、彼の行きつけの飲み屋さんに連れ立つのにもすっかり慣れてしまった。焼き鳥のおいしいお店に行くこと自体は、楽しみなんだけどね。
相手が望むものを与えてあげられないくせ、あけすけなやりとりは風通しが良くって、すごく楽でここちいい。彼も、気持ちのいい人だし。
「西鍛冶さーん、恋愛対象じゃなければ友人枠で今一番好きですよー」
「うっわ、嬉しくねえそれ!」
がははと笑いながら、そんな失礼もビールと一緒に飲み干してくれる。
そんな宙ぶらりんな関係が一年続いて、また例によって告白&ごめんなさい後の飲み会をしている最中に、「……あの、嫌だったら答えてくれなくて全然いいんですけど」という、彼にしては珍しく遠回しな言葉で問いかけられた。
「あ、じゃあヤですー」
「はえーな! ……柳井さんは、一体どうしてそんな、恋愛関係閉じちゃってんです?」
「聞いたら泣いちゃいますよー西鍛冶さん」
「男の子だから泣きませんよ」
成人男性のくせに自分で自分のこと男の子だなんて云うから、笑ってしまった。ま、いーか。ドンビキしてくれたらそれはそれで。
砂肝を串から外して食べながら、話す。
「以前付き合ってた同僚が、こっちと同時進行でお店のオーナーの奥さんと不倫してました。で、その人に私は下半身の欲望処理担当って云われました。それが各方面にばれて、オーナー夫妻は泥沼離婚、私と同僚もそのまま別れましたー」
「……それはまた、なんていうか……」
「だから好きすき云われても、どうせ嘘だよねって思っちゃうんですよねー。もう一〇〇パーセントの気持ちで誰かに向かおうと思えなくって。なので、諦めてくださーい」
「やです」
「西鍛冶さーん……」
「そんなん聞いたら、余計に俺が愛を取り戻したるわ! ってなるに決まってるじゃないですか」
くそ、とジョッキの中に毒づいて、ぐっと残りを一息に飲み干す。いつもはすごくおいしそうに楽しそうに飲む人が、やけに苦々しい顔をするので、そんな顔しなくっていいよって云いたくなる。
こちらに向き直った時は、もういつもの西鍛冶さんだったので、すごくほっとした。
「話してくれてありがとう。柳井さんが傷ついた理由、本当は話すのもいやだっただろうに」
「いやだったけど、話さないと西鍛冶さんいつまでもしつこいからー」
「あー毒舌ー! かわいい顔と口調で毒舌! たまんないなあ。そこも好きです」
「懲りない人だなあー」
「懲りません。俺、絶対懲りないし諦めません。あなたがどれだけ傷ついていたとしても、その手を取ってみたい。そう思うのは、俺の自由だ。でしょう?」
「……でも、」
「ごめん、ほんとはさっき俺泣きそうだった。すっげえ傷ついた柳井さんが、今の柳井さんを作ったんだと思ったら、よくここまで頑張ったねって、目ーうるんじゃって、ほっぺの内側噛んでひたすら耐えてました」
「……変な人ー」
「変でも何でもいいです。俺、あなたを抱きしめたい。甘やかしたい。お願いします、その権利を俺にください」
なんだろう、そのときうっかり、「まあ、いいけどさー」ってぽろっと云ってしまった。云ってすぐに怯んで、あ、やっぱ今のナシ、って訂正入れる前に「や……った――!!!」って西鍛冶さんが立ち上がってガッツポーズしちゃって、私たちのやりとりを知っているお店のおやじさんも常連さんたちも、「おめでとう!!」なんて祝福してくれちゃうし、……。
うん。
やっぱりね、嬉しかった。
誰かに話せたことも。それをうけとめてくれたことも。私の頑張りを泣きそうになるくらいに思ってもらえたことも。
常連さんからごちそうされた祝杯をいくつか重ねて、おやじさんからはししとうやら鶏モモやらの串焼きが大量に乗った大皿を「俺からのご祝儀だ」って出されて、二人してかなり満たされたおなかとやや千鳥な足でお店を出た。
「改めて、これからよろしく」って云われて、付き合うに当たって大事なことを告げていなかったと気付く。「一つだけ約束してほしいんだけどー」と締まらない口調ながら硬い声で云うと、彼はにやけた顔をやめて「なに?」と向き直ってくれた。
「さっき話したことに関連するんだけどね、そんな訳で二股だけはどうしてもいやだから、もし他に好きな人や気になる人が出来たら、その時は無理したり隠したりしないで正直に云ってほしいんだー」
「そんなことには絶対にならない」
ううん、絶対なんてないんだよ。私は身に染みすぎてる。
でもまだそれを知らない西鍛冶さんに今告げるのも残酷か、と思ったので「うん」とだけ口にした。
彼は、満月みたいに優しく笑って、私を抱きしめる。
硬いとげの奥にいまいましく燻り続けている記憶が、『知っているハグと違うな』と不思議そうにしているのを感じながら、秋の夜風の中、おとなしく包まれ続けた。
「という訳なので、一応皆さんのお耳にも入れておこうかとー」
翌朝、ミーティングの最後に努めてさらっと報告するとまいちゃんは「わー! おめでとうございます!」と超高速で手を叩いてくれた。きっとまたこれも一号店にすぐに伝わるとみた。福原ちゃんからの鬼LINEが今からおそろしいなあ。
小早川店長は「そうか。業務に支障のない範疇で頼む」とごくごく普通のテンションでそう口にした。
「小早川店長、それ別に云う必要なくないですか? 無粋!」とまいちゃんがつっこむと「分かってるけど、お前や大内には云って柳井には云わないのはフェアじゃないだろう?」
「うっ、確かに」
「それより中村、今日デートだからってあまりそわそわするな」
「なんで知ってんですか! こわ!」
そんな二人の会話を聞きながら、ほっとして、でも、なんとも云えない気持ちになった。
――別にね、傷ついて欲しい訳でも、動揺して欲しい訳でもないよ。でもなんかモヤモヤしてる。そんな自分の気持ちが、ほんと謎。
私はどこかで、まだ小早川店長が私を諦めないことを、望んでいるのかな。
私が他の男とくっついたことを知って傷つけばいい、なんて思ってるのかな。
店長からは、二号店オープン前日に告白された。速攻でお断りしたしその後はただの同僚としてお互いに接していたから、そういう雰囲気になったこともない。
でも。
私だけ知っている、動揺のサイン。曲がってもいない眼鏡のポジションを何度も直すそれは、私が他の男と付き合うと知っても、見られなかった。
もう、どうでもいいのかもしれないね。
付き合いたてで幸せいっぱいのはずなのに、なんだか少しだけ悔しかった。
彼氏が出来ても、とげをまとってる私はもうふわふわしないよ、と思っていたけど、朝夕問わずやってくる他愛もない西鍛冶さんからのメッセージを見るだけで和んでいることは認める。謎なスタンプで思い出し笑いしちゃうこともしばしば。
メッセージひとつでこの有様なので、お泊まりなんかしたら、それはもうちっとも隠し切れていないらしい。実際、泊まった翌朝はまいちゃんに「あっ、また彼宅からの出勤で幸せモード振りまいてる!」なんて云われちゃうし。べつに、見えるところにキスマークついてたりとか、彼氏いますアピールはしてないつもりだけど、不思議だな。付き合い始めに贈られたリングはあるけど、これも仕事中には外しているのに。
変色したら悲しいので、朝晩とお休みの日にだけ付けるそれ。ただ眺めているだけで、どこからか力が湧いてくる。西鍛冶さんが頑張ったねって云ってくれた私で、これからもあり続けたいと思える。
ちなみにリングを業務中は付けないって教えたら、『じゃあ代わりにこれしててくれたら嬉しい。たまにでいいから』って、付き合い始めの年のクリスマスにはピアスを渡された。シンプルだけど大振りで見栄えが良く、割と何にでも合わせやすいから、仕事以外でもついついヘビーユーズしちゃう。
贈り主の西鍛冶さんは、付き合っても豹変することも『髪の毛ただで切ってよ』なんて云うこともなく、今も普通に月一でお店にやってくる。――少し、恥ずかしそうに。でも、例のピアスを付けている私を見れば、すごく嬉しそうに。
カットするのは私だったり小早川店長だったりその時々で違うけど、店長が担当になると、さすがにちょっと気持ちが落ち着かない。もちろん別に何がある訳でもない。ただ、昔の男が今の男の髪を丁寧に切っている図ってなんとも云えずシュールだ。
西鍛冶さんには、小早川店長が例の元彼だとは伝えてない。ばか正直に伝えて、敢えて気まずくなる必要もないと思って。店長も余計なことをぺらぺらしゃべる人じゃないから、っていうその一点のみ信用してる。けど、カットが終わるまでは、自分が他のお客様のお相手をしていても、休憩に入っていても、どことなく落ち着かない。
店長はいつもと同じような顔で、いつもと同じように仕事してるから、思わせぶりな言葉で動揺させられたのが嘘みたい。付き合ってたのも、なんだかもう嘘みたいって思う。――それ以上は考えるのをやめて、ロットを巻くことに集中した。
お会計を済ますと、少しさっぱりした彼が小さく私に「じゃあ」と云う。私も小さく手を振り返す。真夜中に繋がっている電話みたいな密やかさで。
それを見てまいちゃんは「いいなあきみこさん、すっごい幸せそう」ってため息吐いてたから、私は多分、すっごい幸せなんだろうなあ。なんて云うか、実感が今ひとつ伴い切れていないのだけど。
遠い北の海の硬くて分厚い永久凍土の下には頑丈な防火扉があって、さらにそのずーっと下にむき出しの心がある。そこまではなかなか熱は伝導されない。
「好きだよ」と云われるたび、同じ温度で返したいのに。
もどかしくて見上げれば、西鍛冶さんは「いーの、希実子ちゃんは無理しないの!」って気安く笑ってくれるけど、一体いつまでそう云ってくれるのかな。
その目に、さみしさが宿るのを見たくはない。でも私の熱、いつになったら心に届いてくれる?
スーパーノヴァみたいに、届いて見える光はもう過去のもの、なんていやだよ。今がいい。
あの人を大事にしたいって、そう思えるようにはなった。でもまだ、あの人の笑顔には追いついてない。
こんな罪悪感ばっかり抱くんじゃなく、ただ好きになりたい。ちゃんと。
一二月から続く怒濤の忙しさに、しばらく会えない日が続いた。西鍛冶さんは西鍛冶さんで一二月は忙しそうだったから、互いの部屋へ行き来するのも遠慮してた。一回向こうが髪を切りに来てくれて、お店のカウンターでお会計がてらに少しだけ話して以来、ひと月近く顔を見ていない。LINEも『落ち着くまで当分、回数減らすね。希実子ちゃんもあんまり無理しないで』と云っていて、やりとり自体が少なかった。――会いたいなあ。会って、ハグしたい。飽きるまでキスして、それ以上もしたい。
『希実子ちゃん、』ってベッドで切なげに呼ぶ西鍛冶さんの汗まみれの背中に腕を回して、自分もいっしょに汗まみれになりたい。
ずっと探していた時は見つからなかったくせに、クローゼットの中から不意に現れた服みたいに、その感情は思いもよらずするりと自分の中から出てきて、私を驚かせた。いったん出てきたら、それはチョコレートファウンテンよりも勢いよく、あとからあとからどんどん湧いてくる。
そうだ、今日、お休みだし、バレンタインのチョコレートを買いに行こう。去年は半分くらい義理な気持ちであげたチョコを、今年こそ本命で贈ろう。あげるのはまだ先だけど、今日そのまま会いに行ったら喜んでくれるかな。はにかんで笑ったりする?
あんまりサプライズとか好きじゃないけど、気持ちが追い付いたって分かった今日くらい、予告なしで驚かせてみようかって、珍しくそんな風にもくろんだ。なので、いそいそとチョコレートを選んでから、事前の連絡はなしで、会社の近くのカフェで待ち伏せしてみることにした。
そんなの久しぶりでどきどきする。でも、ちっともいやじゃなかった。
ああ、私はちゃんと西鍛冶さんのこと好きになったんだなあって、すごくすごく嬉しかった。
もし会えないなら会えないでいいや。勝手に来たんだし。もしかしたら急な会議や出張や残業で、遅くまでかかるかも知れないんだし。はやる心をそういなしながら、おかわりしたラテをお供にガラス越しの人の流れをぼんやり眺める。――と。
彼氏、発見。
会社からじゃなく、道の先の大通りの方から、こちらへ向かって歩いてきた。営業さんだから外回りから帰ってきたところなのかもしれない。すれ違うタイミングでガラスをコンコンしたら、気付いてもらえるかな。
そう浮かれたけど、あいにく彼は一人じゃなかった。ああ、同じ部署の人かな。パンツスーツの女性が、肩を並べてきびきびと歩いている。
それだけなら、計画通り合図していたと思う。でも、そうじゃなかった。
振ろうとしていた手は、胸の前で行き場をなくして竦んだ。グーとパーの中間みたいな形で、かたまる。私の心も。
西鍛冶さんは、私に『かわいいなー』って云う時に見せるような、あのとびきり優しい顔をその女性に向けていた。
友人や同僚に見せるには、親密すぎる甘さで、ガラス越しのこちらに気づきもせずに。
あれは、正真正銘、恋しているひとの顔だ。私にだけ見せてくれるはずの、ものだった。
なぜだか妙に喉がつっかえて、ラテはそれ以上飲めずに残してしまった。
二人が会社の入っているビルに姿を消したのを見届けて、時間をじゅうぶんおいてから、その喫茶店を出た。
気のせいかもしれない、とか、何が悪かったんだろう、とか、私がもっとはやく彼の気持ちに追いついていたら何かが変わっていたかも、とか、連絡少なかったのは後ろめたかったせいもあるかな、とか、どうでもいいことばっかりが、ぽこぽこといくつも浮かんでくる。
でももう、全部なくしてしまいたい。まっさらに忘れてしまいたい。
その前に、しなくちゃいけないことがある。
夜、今まで使ったことのないカフェを待ち合わせ場所にして、少し早めに席について彼を待った。無愛想な店員さんがガチャッと音を立てて置いていったブレンドは、煮詰まってておいしくなかったからかえって安心した。これからも通いたいお店で修羅場になっちゃったらイヤだもんね。
もう私が行くことはない、あのいつもの飲み屋さんを最後の場にしなかったのは、あんなに私たちを祝福してくれた常連さんやおやじさんまで悲しませたくはなかったからだ。――でもせめてご挨拶くらいしたかったな。
ブレンドを半分くらいまでなんとか減らしたところで、急な呼び出しにもかかわらず応じてくれた西鍛冶さんが「希実子ちゃんからって珍しいね、でも嬉しい」と予想通りはにかんだ顔で向いの席に着いた。数時間前の自分が見たかったその笑顔を目の前にしても、もう優しい気持ちは生まれてこなかった。
許したい気持ちもあった。見ないふりをしたかったなとも思った。
自分の中に生まれつつあった、心の柔らかな甘い部分を差し出して、ぞんぶんに味わって欲しかった。
思いの全てが過去形になる前に。
「……どうしたの、顔色良くないよ」
そんな風に、私のことをよく見てくれるあなたが、好きだった。好きになってたんだよ。なのに。
さっきの店員さんがまた無愛想に彼の分のコーヒーを置いて去ったのを見て、口を開く。
「あのねえ、」と云う声が、なるべく泣いていないことを祈った。
「別れてほしいんだー」
「え、」
「今日、会いたくなって会社の近くまで行った。外回りから帰ってきたあなたたちを、見ちゃったんだよー」
そう云うと、「……分かった、ごめん」と静かに答えが返ってきた。
その冷静さに、もうそれ以上は強がれなかった。
笑ってみせながら、涙が溢れた。さっきの店員さんが興味津々にこっちを見てるけど、どうしても止められない。
「私、はじめに云ったのに、二股だけはしないでねーって」
「ごめん」
「他に好きな人が出来たら云ってねーって、ちゃんとお願いしたのに」
「ごめん。――希実子ちゃんのこと大好きなまんま、あの人のことも好きになっちゃって、でも前の彼氏と同じようには傷つけたくなくて、どうしても云えなかった。バカでごめん。逆にこんなに傷つけることになるなんて思わなかった」
ああ、そっちも過去形だ。気付いていないんだね。
震える声を、何回か深呼吸して落ち着かせた。
「もうお店には来ないでください。それと、あなたの部屋に置いてある私の物は全部捨ててねー。私もそうするから」
「でも、」
「もういらないよー」
「……でも、」
「今日、いま、ここで終わりにしよーよ」
ぜんぜん止まない涙をぼろぼろこぼしながら伝えると、西鍛冶さんの方が傷ついた顔になる。ずるいなあ。どうしてそんな顔するの。
ピアスとリングを外す。いつの間にか、スペシャルな宝物になってたから手放すのが辛いけど、手元に持ち続ける方がきっともっと辛い。
「これ、捨ててください」と、まとめて西鍛冶さんの方へ押しやった。
スマホを取り出す。メールもLINEも全て消す。共有してた写真も。すっきりした、より、心がぽっかりしてしまうね。
「じゃあ」と立ち上がると、手を引かれてとめられた。
「まって、お願い希実子ちゃん、やり直させて」
「ほんとにやり直せると思ってるのー?」
そう聞くと、黙り込んでしまった。
私ってこんな時にも緊張感のない語尾だなあ、と思いながら、このお別れを噛みしめた。
やっぱり恋なんてろくでもないなあ。
「さよならー」
手を引けばするりと彼の手は力なく抜けて、二度目の引き留めもなかった。
滲む街の灯りは、歩く速度で後ろに流れていく。どうしようもない思いも、一緒に後ろへ置いて行けたらいいのに。
好きだったよ。
つむじが二つある後頭部も、柴犬みたいな髪の感触も。
私、多分もう二度と人生でフットサルをやってる人とはお近づきにならないだろうなあ。顔はかわいいのに、腹筋バキバキで、触るの楽しかったんだけどなあ。
くすぐったいって、希実子ちゃん。
そう笑って、いつまでもおなかの感触を楽しむ私の手を止めて、逆に私のおなかに触れてくる手の熱さと優しさも、はやくはやく思い出になって。




