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如月・弥生  作者: たむら
season2
33/41

菜虫化蝶

菜虫化蝶(なむしちょうとけす) 菜の虫が蝶になり、飛び交い始める頃(二十四節気・七十二候歳時記カレンダーより)

高校生×高校生

 幼なじみのまあくんは、小さい時はまるまるふくふくしててそりゃあもう、とーってもかわいい子だった。いつも真っかっかなほっぺたを両手で包んでもちもちさせてもらうのは、当時の私にはとびっきりのお楽しみ。だって、そうするととっても嬉しそうにニコーって笑うんだもん。

 同い年とは思えない程幼いまあくんは、いつだって『あさちゃんあさちゃん』って私のこと追いかけて来てたっけ。


 すっかり育っちゃった『まあくん』は、しなやかな筋肉を纏った、容姿端麗で、頭脳明晰、おまけに性格も温厚というカンペキな、――完璧すぎる同級生になってて、もう気安く呼べやしない。


 と思ってるのは私だけで。


「あさ」

 私じゃ絶対出せない低い声で、誰も呼ばない呼び方で、まあくんは私を呼ぶ。

室谷(むろや)く、」

「あさ」

 ほんの少し寄せられた眉。

「……まあくん」

 その呼び方で、正解、と言わんばかりに微笑んだ。

 身内以外の女性では私だけが許されたその呼び方をしないと、彼は何度だって訂正するよう促す。『あさ』とたった二文字で。


 カレシカノジョだって人前じゃあさすがに遠慮するよって距離まで、彼は私に接近してくる。そこが、互いの家だろうと駅だろうと学校の廊下だろうと。

 近い近い近い。

 離れれば、不思議そうな顔をしてその分詰めてくる。『幼なじみとしての適切な距離』と私が思うそれを簡単に突破されてしまうのもいつものことなので最近は息のかかる距離で話しかけられることを諦めながら受け入れている。

 じいっと見つめられてるのが分かる。今時恋愛映画だってそんなに無言で見つめやしないよと思う程長く私を見たあと、「……今日、うち来る?」ってようやく話しかけてきた。

「ママさんがいるなら」

「いるよ」

「なら行く」

「ん、じゃ教室迎え行く」

 そのまま頭のてっぺんにキスの一つでも落としていくんじゃないかって近さでぽそぽそと自分の伝えたいことだけ伝えると、まあくんはやっと満足して自分のクラスに帰っていく。

 その姿が完全に見えなくなって、ようやく私は息がつける。

「……ふう」

 ため息が重いのは許して欲しい。


 ふくふくしてたまあくんは、中学生に上がる頃にはシュッとした美少年になり、高校二年の今現在はさらに背が伸び逞しくおなり遊ばされた。

 中学に上がる頃から背が一ミリも伸びておらず、美少女にも美女にもなっていない私を笑うような成長っぷりにこちらは戸惑うばかりだけれど、まあくん自身は相変わらず何故か私を構い倒している。彼の成績ならどこにだって行けたのに、わざわざ私に合わせてこの高校に来る程度には執着されても、いる。

 告白の類は『あさがいるから』と付き合ってもいない私を引き合いにして断るのが常だ。もっとマシな断り方しなよと促しても、小さくて形のよい頭を少しだけ傾けて、『だってほんとだし』と一向に改めようとしない。


 小さい時から、あんまりおしゃべりが上手な子じゃなかった。二人でいる時、時間をかけて待てばエンジンが温まってから少しはしゃべるけど、今でも、助詞レス・主語レスな会話ばっかりだから、やっぱり得意じゃないんだろうな。

 そんなんだととっつきにくいってフツーは思われるんだろうけど、中学の頃は女子をしのぐ美少年っぷりから、今は眩いほどのイケメンっぷりから、まあくんは女子に絶大な人気がある。でも『まあくんはまあくんだから』と、私は彼への態度を変えなかった。愛してやまなかったふくふくほっぺが失われて、かわりにきらきらお目めが出現しても。

 周りの女の子たちに『多田(ただ)さん、彼女でもないのに室谷君とべたべたしすぎ』って言われるまで、互いの関係も距離感も疑わずに。


 私がもし、まあくんに釣り合う程のルックスの持ち主なら、そんな風には言われなかっただろう。『美女と野獣(笑)』って揶揄されることも(この場合、当然『美女』はまあくんだ)、二人でいるたび周りの人にじろじろ見られることも。

 最初に『ベタベタしすぎ』を言われた時、すごくびっくりして、それから『そうか、そうだよね』って納得して、それから恥ずかしくなって、しばらくまあくんのこと無視じゃないけどおはようとかバイバイとかの最低限の挨拶だけして逃げてた。そしたら。

『あさ』

 まだ高かった声で、彼はそれまでの中学校での呼び名を捨ててそう呼びとめた。

 渡り廊下で、すれ違う時俯いて走って逃げようとした足が、止まる。それでも振り向けずにいるとまた『あさ』と声を掛けられた。

 こっちを向いて。

 私の名を借りたその二文字は、正確にはそういう意味を込めた呪文だった。

 逆らえずに、私はゆっくりと振り向く。すると。

『!』

 すぐ近くにまあくんはいて、逃げようとする私の手を引いた。そして三度目の『あさ』。

『……何』

 答える声が上ずっていたのを、今でも覚えてる。彼は何でもないように『今日うち来る?』と続けた。


 行ける訳ないじゃん。何言ってんの。もう私、恥知らずじゃないもん。顔面偏差値が違いすぎる幼なじみといることをダメ出しされて、気にせず遊べるほどメンタル強くない。


 そう言う、つもりだったんだけどね。


 彼の目は、今にも泣き出しそうだった。

 私が『うん』って言う以外ないって、その時はっきりと分かった。

『……うん』

 望みどおり答えたら、ふわっと笑った。私も、笑った。

 それ見て回りも笑った。『やっぱりあの子、空気読めないんだね』って聞こえるようにも言われた。でもいい。

 笑われるより、まあくんを泣かさない方が私には大事なことだったから、笑われたって構わない。でもまあ、メンタルはそんなに頑丈でもないからたまにヘコんでるんだけど。


 それから私はずっと『空気読めない幼なじみちゃんの多田さん』であり続けた。誰かとお付き合いをしてみたかったけど、その忌まわしき肩書きがある以上、彼氏候補を名乗り出る猛者はとうとう中学では現れなかった。そして未だに現れてはいない。


 まあくんの見た目が私の理想像の顕現であると気付いたのはいつだろうか。


 ほっそりとしたかんばせ、のびやかな手足、薄いからだ。

 それを彼の前で『こういうのが好き』なんて言ったことはなかったのに。

 中学生に上がる頃、めきめきと男らしさ――低い声に、ひげのそりあと――を身に付けた男子に馴染めず、中性的な人の方がいいなと思った。まあくんが前者だったら悲しかったけど、後者になってくれたので心底ほっとした。


 時を経て、細マッチョと称される存在に胸ときめかせれば、気が付けば彼の外見もそのように変化していった。


 待って待って。

 どういうことだ。

 まるで、私の嗜好に合わせたかのような彼の成長っぷりに、慄く。そんなはずはない、だってそんなのあるわけない。あるわけないよ。

 ――混乱してる。一緒にい過ぎて、訳分かんなくなってるんだ。幼なじみへの情と友情と、男子への恋心、その境目も、自分が今どこに立っているのかも。


 早く彼氏を作ろう。

 そうすれば、私もまあくんも適切な距離で正しい幼なじみになれるはずだ。

 いまの、あと一つ乗せたら全部崩れてしまうジェンガ、みたいな関係じゃなく。


「あさ、今日うち来る?」

「あ、今日は行けない」

「……なんで」

「用事あんの」

「……そう」

 悲しそうに肩を落として、とぼとぼと去っていくカンペキな幼なじみ。かわいそうで、うっかりすぐに撤回したくなるけど、そういうのが駄目なんだきっと。

 私は変わるの。彼氏を作るの。


 と、気合を入れて行った合コン、というか、友達に紹介されてWデートみたいな感じで会ってみたんだけど、正直あんまり気乗りしなかった。

 いい人なんだと思う。でも、いちいち比べてしまう自分が嫌だ。誰と、なんて、双方に失礼過ぎて言えない。

 いつもは割と賑やかな心がしいんと沈黙していて、デート相手の彼の笑顔も制服の着こなしもかわいいなって思っているのに、へたな手に取られた線香花火みたいに、ぽっと灯ってすぐに落ちてしまった感情。二時間一緒にお茶しただけで、この場をセッティングしてくれた友人への義理は果たしたような気持ちになっていた。


 とぼとぼ家路につくと、うちの前に立ってるシルエット。それを見て、黙っていた心がにわかに騒がしくなる。

「……まあくん」

 まあくんはパーカーのフードを被ったまま、こちらを見ずに「おかえり」と言った。

「……ただいま。どしたの、そんなとこ立って」

 ふと触れた手の甲は、体温があると信じられないほど冷たかった。思わず、両手で包んでしまう。

「ちょっと、いつから、」

「……別に、そんな待ってない」

「うそでしょ! もう、早く入ってよ!」

 鍵を使って開けて、また手を包みつつ、「ただいま!」と声を掛ける。電気もテレビもついていないから母は買い物にでも出かけてるんだろう。いつもなら、二人きりは躊躇してた。でも今、非常事態だから。そう思って、ヒーターを付けて、彼をその前に陣取らせ、お父さんが脱いでそのままになってたはんてんを着せかけ、その上から毛布も掛けた。

「重いよ」

「文句言わないの!」

 それから、二人分のカフェオレを作った。手渡すと、両手でカップを持ち、口をすぼめてふう、ふうと息を掛ける。

 ――カンペキな幼なじみが、コントみたいにたくさん着ぶくれして、子供っぽいしぐさでカフェオレを飲んでいる。それが、何だか面白くて笑ってしまった。

「何」

「なんでもなーい」

「……久しぶりだね」

「何が」

 そう聞き返しながら、カフェオレを口に含む。

「俺の前で、そんな風に笑うの」

 ――思わず、口に含んだ液体をぶーっと吹きそうになった。

「何それ」

 何とかむせずに飲み下してから、平気を装ってとりあえずそう言ってみた。

「だって、そうだろ? いつだってあさは、居心地悪そうで、誰かに申し訳なさそうだった」

「……分かってたのに、わざと話しかけて来てたの?」

 そんな悪趣味じゃない。まあくんは。

 祈るようにそう思いながら聞き返せば、とびきりの笑顔になる。それが邪悪なものに見えるのはどうしてなんだろう。

「そうかもね。俺に『あさ』って呼ばれてちょっとイヤそうにする顔見るの、楽しかったし」

「……サイアク」

「最悪は、どっち?」

 ふたりのジェンガを支えていた一番下が、すっと抜かれたような気がした。

「俺がいるのに、どうして離れようとしたり、他の男と会ったりするの」

「そんなの私の勝手でしょ!」

 私がカッとなっても、まあくんは平然とカフェオレを飲んでいる。

「おいしいねこれ」

「ありがとでもそれ今関係ない」

「あるよ」

 ことり、と小さく音を立ててマグをテーブルに置く。その丁寧な所も、好きだなあと思うポイントのひとつだ。

「俺の好きな温度で、俺の好きな甘さで、カフェオレを入れられるのは世界であさ一人だけだ」

 その言葉は矢のようにまっすぐ飛んで来て、心のいちばん柔らかいところをすとんと上手に射止めた。

「……気のせいでしょ」

「いや? 俺も作れないし、母さんのも違う」

「……他の子でもそれくらい、」

「あさ、どうして信じない? 俺の言葉はそんなに頼りない?」

「……」

「あさがいいんだ。そう決まってる。初めてあさに会った時から、俺は分かってた。だからあさが好きなように、ぷくぷくでいただろ?」

「――――――――は?」

「でもそれだとペットみたいにかわいがってもらえても、男としては見てもらえなかったよね。あさ、小六の時なんて言ったか覚えてる?『三組の、運動会で応援団やってた森君かっこいい』って言ったんだ。だから俺、あのあと痩せて森君みたくなったでしょ」

 なんだって?


 あの頃のまあくんは、本当にふくふくで、まあくんのママさんが『今度病院で検査してもらおうと思って』と心配するほどだった。でもある日を境に暴食がぴたりとやんで、気が付いたらすらりとした美少年がいたのだ。

「そうしたらあさは喜んでくれたけど、前みたいにハグしてもらえなくなったのは残念だったな。――これで一安心て思ってたら、またあさは男の趣味が変わっちゃって、走り込みやら筋トレやら大変だったよ。慣れたけどね」

「ちょっとまって」

「ねえあさ、俺はあさの好きな男の容姿をその時に合わせて作るよ。容れ物変えただけで釣れるなら何だってするよ、だから、……俺を、好きになって」

 果実の最後の一滴を絞り出すように、彼は小さくそう言った。へんなの。だって、カンペキ幼なじみは、望めばなんだって手に入りそうなのに、どうして私を手に入れたがってるの。ほんと理解出来ない。

「まあくん趣味悪いよ」

「そうかもね」

「……ちょっと、性格も悪い」

「ちょっとじゃないよ」

「ほんとに私のこと好きなの?」

「じゃなきゃこんなめんどくさいことしてない」

 太るための努力をして、痩せるための努力をして、筋肉をつけるための努力をして。なおかつそれを維持して。

「……どうして私なんか好きなの」

「それは俺にも謎」

「ちょっと!」

 しれっと言うから憎たらしくて、頭をぽかっとするために振り上げたこぶしはやすやすととっ捕まって、おまけに中指と人差し指はキスまでされてしまった。

「好きなのに理由なんていらないけど、欲しいならいくらでもあげるよ」

 そう言うと、すらすらと私の好きなところを挙げていく。「手の甲のほくろ」「怒ってる時の声」なんて、えっそんなとこって思わずドン引いちゃうのから、「笑ってる時のほっぺ」「本の扱い方」なんて、ふうんって思うものも。

 そうやって、差し出した掌にざらんざらん金平糖をのせるように、まあくんはたくさん『好きの理由』を教えてから、じいっと私を見つめた。

「改めていうのもなんだけど、付き合おうよ」

「どうしようかな」

 気が付いたら、ヒーターの方向いてたはずのまあくんは、体ごと私の方を向いてる。じりじりと距離を詰めて、それから一息にハグしてきた。

 心臓も心もいっぱいいっぱいで、ちょっとでも身じろぎしたら自分がバラバラになっちゃいそうで動けない。

「あさは付き合わない男にこういうこと許す子なの? 違うでしょ?」

「そうなのかもよ」

 まあくんにさっきのお返しをしたら「……いじわる」としゅんとした声と額が肩口に落とされた。

「あさ、」

「保留」

「ねえ、返事くれないといつまでもこのままだよ」

 なら、このままずーっと返事なんかしてやらない。

 はらぺこあおむしみたいにモリモリ食べてふくふくだったまあくんは、誰の恋愛対象にもならなかった。だから安心して傍に居られた。でも、美少年時代も細マッチョの今も、競争率は高いよ。かわいい子も綺麗な人もまあくんめがけて集まってくる。その中で、いっくらでも選り好み出来る。 

 選びたくなかった。私には、たった一人だから。


 はんてんと毛布に包まれたまま私を包んでいたまあくんだけど、さすがに「暑い」と二つを脱いだ。

「あさ」

「何」

「キスしたい」

「は?」

「返事はもういい。付き合うって決めた。付き合う人たちはそれくらいする。だからする」

「ちょっとちょっと」

 端的に喋るな。

「やなの?」

 茶色い目でじっと見つめられたら、嘘はつけない。

「……誰かに見られたらやだ」

 部屋にかかってるレースのカーテンは中が見えない加工はしてないから、低い生垣越しの道路から丸見え、とまではいかないでも何してるかがばれてしまいそうだ。

「じゃあ、こうしよう」

 再び毛布を手にすると、自分と私の頭から掛けて包み込む。

 小さなテントが出来上がる。明かりもなくて、互いの息だけが掛かる。カフェオレの甘い匂い。

「あさ」

 囁かれたら分かった。目を瞑った。当たり前のように、キスが来た。何度も。

「好き」

 短く告げられて、涙が出そうになった。

「うん」

 涙声だったけど泣くことより告げることの方が優先事項だったので、「私も好き」ととりあえずなんとか口にして、それからえいっと肩口におでこを付けた。こうすればもうこれ以上、キス出来まい。

 そう思った私は甘かったようで。

「かわいいなあ」

 まあくんはしみじみそう言うと、首筋に口付けた。

「!」

 私が飛び上がって逃げようとすると、「見えるよ」の一言で、また毛布の下に閉じ込められる。

 結局、母が「今日はスーパーで半額祭りだったのよー!!」といつもよりも遅く帰ってくるまで、まあくんの作った暗闇の中でたくさんキスされる羽目になった。


 あら雅彦(まさひこ)くん久しぶり大きくなったわねーこんなかっこよくなっちゃって朝陽(あさひ)なんてほらちんちくりんのまんまなのにねー怒んないのいいじゃないこんなかっこいい子が彼氏だなんてねえ雅彦くんお夕飯いっしょに食べていかない?

 母がマシンガンの如くひとしきり喋ったあと、まあくんは「すいません、家で用意してるので、また今度お願いします」とちゃっかり約束をし、ちゃっかり彼氏認定もされて帰る。

「おかーさん、コンビニ行ってくる」

「あらあらっ! はーい、気をつけてね」

 明らかにそれがお見送りのアリバイだってばれつつ、二人で家を出た。そして、言いたくてたまらなかったことをようやく口にした。

「けだもの」

 でもそれを聞いて、まあくんは不服な顔をして見せた。

「どのへんが?」

「ずっと……してたじゃんっ!」

 犬の散歩や帰りの人がいる道で、キスという言葉が恥ずかしすぎてそこだけ小声で抗議すると、まあくんはふっと笑った。

「あれしきでけだもの呼ばわりされるのは心外だ」

「は?」

 ほんとうのけだものなら、と話す男の子の顔。

 幼なじみで、彼氏で、いつのまにやら好きだった子、が。

「もっとけだものじみた行為をしてたんじゃない?」

「!」

 こんなこと言う子になるとは!

「あんな据え膳な状況であれだけって、むしろ紳士だと褒めて欲しいくらいだ」

「!!」

「あさ、ほめて」

「ほめない!」

「じゃあキスして」

 自分の家の前で立ち止まると目をつむって少し屈んで、ん、と顔を傾けてくる。

 路チューする度胸はないので、幸い撫でやすい位置にある形のよい頭をポンポンして「じゃあまた明日ね」と言って離れた。

「……キスは?」

「しないよ」

「褒めるのは?」

「褒めないよ」

 何を褒めろっていうの? 『よーしよし偉かったね、キスだけで我慢出来たね』とでも言えって?

 不満げな顔してるまあくんは、とってもかわいらしかった。私の言葉一つでこんな風になるなんて。

 だから、つい、出来心ってやつだったのだ。 

 まんまと近付いて、かたちのよい耳元に「……またうちで、二人だけの時にね」と告げてしまうなんて。

 まあくんはぎらりと目を底光りさせて「言ったね」とどこか怖い声色で静かにその言葉を置いた。

「忘れちゃ駄目だよ、いいね」

「うん」

 早まったかな。でももう言葉は回収されてしまったからあと戻りは出来ない。二人の関係と同じに。


 じゃあね、と今度こそ私はコンビニへと向かう。小走りの歩を進めるたびに、言っちゃった、どうしようという思いが湧きあがる。でも、いい。

 次かその次かもっと先か、分かんないけど。


 あの二人だけの毛布の中で、きっと私はキスだけでは済まされないだろう。あの切ない眼差しを至近距離で繰り出されて『あさ、いい?』って聞かれたら、拒めないんだろう。

 私は大切なものを喪って、かわりに他の大切なものを手に入れるだろう。

 奪うのはまあくんで、与えるのもまあくんだ。


 きっと明日から学校で朝話すたびに、私の頭のてっぺんにはキスが落とされる。

 明日から私は『空気読めない幼なじみちゃんの多田さん』じゃなく、『室谷君の彼女の多田さん』に、なる。


 それはいろいろと怖いけど、同じくらい、楽しみにしている。


 


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