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一章第一話 毛と魔法の世界


剛田毛は二十九歳だった。


彼女がいたことは一度もない。


告白されたこともない。


人生で女子から話しかけられた回数を数えたことがある。


六回だった。


そのうち三回は落とし物を拾っただけ。


二回は授業の連絡。


一回は道を聞かれただけだった。


つまり実質ゼロである。


しかし剛田毛は諦めていなかった。


人は見た目ではない。


中身だ。


努力だ。


優しさだ。


そう信じていた。


だから努力を続けた。


身長は百八十五センチ。


筋肉もある。


スポーツは得意。


勉強も平均以上。


仕事も真面目。


それでもモテない。


理由は簡単だった。


毛である。


圧倒的に毛だった。


腕毛。


胸毛。


腹毛。


すね毛。


背中。


全てが規格外だった。


子供の頃はよく動物と間違われた。


小学生の頃にプールの授業で女子に悲鳴を上げられたこともある。


中学生になる頃には男子からマリモと呼ばれていた。


高校生になると今度はイエティになった。


専門学校ではビッグフットだった。


名前だけ進化している。


本人は全く嬉しくなかった。


だが彼は自分の毛を嫌ってはいなかった。


むしろ愛していた。


誰よりも。


風呂上がり。


鏡の前。


彼は胸を張る。


「今日も立派だなゴンザレス」


胸毛を撫でる。


「防御壁も絶好調だ」


腹毛を確認する。


「前進も踏ん張りも元気そうで何より」


脚を見て頷く。


そして額へ視線を向ける。


そこだけは少し表情が曇った。


前髪ラストホープ。


頭頂クラウン。


後頭部影武者。


右サイドジェット。


左サイドルーク。


分け目運命線。


彼らは年々減少していた。


特にラストホープ。


名前の通り最後の希望だった。


「頑張れラストホープ」


「お前だけは生き残れ」


そう言って育毛剤売り場の前を素通りする。


何故なら体毛が強いからだ。


体毛がこれだけ元気なのだ。


髪の毛だってきっと盛り返す。


理論は全く成立していなかった。


だが本人は本気だった。


翌朝。


工場の休憩室。


後輩がスマホを見ながら言った。


「剛田さんって彼女いないんですか」


「いない」


「意外ですね」


「だろう」


毛は頷く。


「俺も意外なんだ」


後輩は返答に困った。


毛は続ける。


「だが安心しろ」


「はい」


「俺は近いうちにモテる」


「根拠は」


「勘だ」


後輩はコーヒーを吹きそうになった。


その後。


上司に怒られ。


残業し。


仕事を終えた頃には夜だった。


帰り道。


毛は空を見上げる。


星が綺麗だった。


「異世界転生しねえかなあ」


口癖だった。


現実は退屈だ。


工場と家の往復。


毎日同じ。


もし異世界に行けたら。


剣を振り。


魔法を覚え。


ドラゴンを倒し。


姫に惚れられる。


そんな人生が待っているかもしれない。


「まあ無理か」


笑ったその時だった。


「君が剛田毛くんかな」


声がした。


振り向く。


そこには男が立っていた。


全身ツルツルだった。


髪がない。


眉毛がない。


まつ毛もない。


異様だった。


「宗教の勧誘ですか」


毛は警戒した。


「違うよ」


男は笑う。


「神だ」


「帰ります」


即答だった。


しかし次の瞬間。


世界が白く染まった。


道路も消えた。


空も消えた。


街も消えた。


気付けば二人だけだった。


毛は固まった。


「え」


「だから神だって」


「マジで」


「マジで」


毛はしばらく黙った。


そして聞いた。


「魔法ありますか」


神は吹き出した。


「あるよ」


「本当に」


「本当に」


毛の瞳が輝いた。


二十九年間で最も輝いた。


「使えるようになりますか」


「なるよ」


「ドラゴン倒せますか」


「頑張れば」


「モテますか」


「知らない」


そこだけ即答だった。


毛は少しだけ不安になった。


神は続ける。


「使い方は簡単」


「はい」


「やりたいことを思い浮かべて口に出すだけ」


「それだけ」


「それだけ」


毛は深呼吸した。


そして叫ぶ。


「飛びたい」


身体が浮いた。


景色が遠ざかる。


足が地面から離れる。


風が吹く。


空気が顔を撫でる。


毛は叫んだ。


「飛んでるうううううううう」


感動だった。


人生で初めての感動だった。


二十九年間で一番感動した。


「飛んでる」


「飛んでるぞ」


「俺飛んでる」


「うるさいな」


神が呆れる。


だが毛は止まらない。


ずっと夢だった。


魔法だった。


異世界だった。


冒険だった。


ようやく人生が始まった気がした。


「ありがとう神様」


「いいよ」


「俺頑張る」


「そうして」


「魔王倒す」


「いない」


「ドラゴン倒す」


「できるかもね」


「モテる」


「それは知らない」


神は苦笑する。


そして言った。


「じゃあ後は頑張って」


「待ってください」


「ん」


「何か説明とか」


「そのうち分かるよ」


神の姿が消える。


白い世界も消える。


気付けばいつもの帰り道だった。


夢ではない。


毛は人目のない場所へ移動する。


「飛びたい」


再び空へ浮かぶ。


成功した。


本物だった。


毛は笑う。


夜空を飛びながら帰宅した。


人生最高の日だった。


今日から全てが変わる。


そう信じていた。


風呂へ入るまでは。


浴室で足を見た瞬間。


彼は固まった。


毛は風呂場で呆然としていた。


右脚を何度も触る。


ない。


本当にない。


あれだけ誇らしかった毛が消えている。


昨日まで確かに存在していた。


いや数分前まで存在していた。


毛は鏡に向かって叫んだ。


「バリアあああああ!」


返事はない。


当然である。


毛だからだ。


しかし問題はそこではない。


何故か名前だけが思い出せなくなっている。


自分が名付けたはずなのに。


大切にしていたはずなのに。


まるで最初から存在しなかったかのように記憶が曖昧だった。


毛は急いでメモ帳を取り出した。


そして全身の毛の名前を書き始める。


ラストホープ。


クラウン。


影武者。


ジェット。


ルーク。


運命線。


ジャッジ。


バランス。


母の色。


父の色。


透明な自尊心。


ゴリラ。


スピード。


ゴンザレス。


防御壁。


見えない努力。


前進。


踏ん張り。


推進力。


秘密基地。


そこで手が止まる。


どうしても一つ足りない。


十九番目。


思い出せない。


名前を付けた理由も。


どんな毛だったのかも。


記憶が霧の向こうにあるようだった。


「嘘だろ」


毛は震えた。


そして恐る恐る呟く。


「飛びたい」


体が浮く。


成功する。


「やっぱりだ」


魔法は使える。


つまり。


魔法を使える様になった代償として毛が失われた。


その可能性が高かった。


毛は浴槽の縁に腰掛けた。


「なんで毛なんだよ」


もっと他にあっただろう。


体力とか。


寿命とか。


金とか。


なぜ毛なのか。


なぜ自分にとって一番大切なものなのか。


その時だった。


スマホが鳴った。


友人からのLINEだった。


『今度合コンあるけど来る?』


毛の目が輝いた。


「行く」


即返信した。


そして立ち上がる。


そうだ。


まだ一箇所失っただけだ。


残り二十箇所もある。


二十回も魔法が使える。


もしかしたら。


いやきっと。


モテるために使えばいい。


全て解決する。


毛はそう考えた。


十分後。


自宅のベッド。


毛は天井を見上げていた。


そして思いつく。


「そうだ」


「モテたい」


口に出した。


何も起きない。


「ん?」


もう一度言う。


「モテたい!」


何も起きない。


毛は首を傾げる。


飛ぶ時は成功した。


だがモテるは失敗した。


何が違う。


しばらく考える。


そして気付く。


「イメージできないのか」


飛ぶことはイメージできた。


鳥みたいに飛べばいい。


だがモテるが分からない。


人生でモテたことがない。


だから想像できない。


想像できないものは魔法にならない。


あまりにも悲しい事実だった。


毛は枕に顔を埋めた。


「俺ってそこからなのかよ」


数秒後。


スマホが震える。


知らない番号からだった。


恐る恐る開く。


ショートメッセージが一件。


送信者名はない。


内容は一行だけだった。


『あと二十回』


毛は飛び起きた。


その瞬間。


部屋の照明が一瞬だけ消えた。


毛は息を呑む。


震える指で返信しようとした。


だが送信先は既に存在していなかった。


窓の外を見る。


誰もいない。


静かな夜だった。


だが毛には分かっていた。


あのハゲだ。


絶対にあのハゲだ。


毛は布団を頭まで被る。


そして震えながら呟いた。


「魔法ってもっと楽しいものじゃないのか」


返事はない。


ただ一つだけ確かなことがあった。


剛田毛の人生は。


今日から大きく変わる。


剣と魔法の世界ではない。


毛と魔法の世界によって。


そしてその頃。


どこか白い空間で


あのツルツルの男が笑っていた。


「さて」


「今回はどんな結果になるかな」


男の背後には


数え切れないほどの世界が浮かんでいた。


龍が支配する世界。


機械が支配する世界。


魔法が支配する世界。


その全てを見下ろしながら。


男は次の言葉を呟く。


「楽しくなるといいなあ。」

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