05 自分が捨てた真の愛と権力の大きさを思い知りながら、魔界の底で泥を啜り続けるしかない
さらに月日が流れ、マティウスに与えられた最終的な役割は妹ユーイが世話をする魔獣たちの餌やり。愛を誓い合ったと勘違いしていた二人は、魔界の最下層にある汚物まみれの檻で再会。
「マティウス様!?ああ、私を助けに来てくれたのね!嬉しい!」
「……触るなメス狐!お前のせいで私は母上から捨てられたんだ!」
二人は毎日魔獣の糞にまみれながら、互いの顔を引っ掻き回して罵り合う。空腹に耐えかねて、ティルリカの王宮の方角を眺めると、そこには夜空を美しく彩る祝祭の花火が見えた。
ティルリカとバウアー、新しい息子アリストの三人が民衆に祝福されながら幸せそうに笑っている姿が、遠く遠くに見えるの。
「……どうしてこうなったんだろう……」
マティウスが涙を流しても誰も拭ってくれる者はいない。一生、自分が捨てた真の愛と権力の大きさを思い知りながら、魔界の底で泥を啜り続けるしかない。
すべてやり切った後。嵐のような日々が過ぎ去り、魔界に穏やかな春の陽光が差し込むある日の午後。ティルリカとバウアー、幼いアリストは王宮の美しい庭園でピクニックを楽しむ。そこには魔王の威厳も怨念も存在しない、幸せな家族の風景。
「今日はサンドイッチを作ってみたの。食べてみて?」
ティルリカが差し出したのは、こんがり焼いたパンに魔界特産の新鮮な野菜と、バウアーが好きな燻製肉をたっぷり挟んだ特製サンドイッチ。
「……ティルリカが私のために?これは食べるのが惜しいな。宝物庫に永久保存すべきではないだろうか」
「バカなこと言わないで。食べ物なんだから美味しく食べてくれるのが一番嬉しいの」
バウアーは真剣な面持ちで、禁呪の封印を解くかのような慎重さでサンドイッチを手に取り、一口。
「……美味い。愛が細胞のひとつひとつに染み渡るようだ。これに比べれば今まで食べてきた宮廷料理などすべて消し炭に等しい」
「ふふ、大げさね」
ティルリカは笑いながら自分の分を小さく頬張る。シャキシャキとした野菜の食感と、じゅわりと広がる肉の旨味。前世では魔王の母として今世では虐げられた令嬢として、常に毒や飢えを気にしていた彼女にとって、愛する夫の隣で食べる一口は何よりも贅沢な味。
「ずるい!僕にも食べさせて!」
二人の間に割り込んできたのは幼いアリスト。バウアーの手にあるサンドイッチを大きな目で見つめ?。
「アリスト、ママがパパに作ってくれたものだ。お前にはお前用の少し小さめのがあるだろう?」
「えー!パパの持ってるやつの方が美味しそうなんだもん!」
バウアーは息子相手に大人気なくサンドイッチを高く掲げますが、ティルリカの「バウアー?」という優しいが、逆らうと怖い声に渋々サンドイッチをアリストの口元へ運ぶ。
「ほら、一口だけだぞ。……ったく、私のティルリカを独占しおって」
「あむっ!……おいしい!ママ、世界で一番おいしい」
アリストが満面の笑みを浮かべると、庭園に柔らかな光が溢れる。平和な光景を見ながらティルリカはふと思う。あの時、マティウスに婚約破棄されて、本当によかった。
あのまま愚かな息子を支えるだけの魔王妃になっていたら。こんなに愛し、愛される日々は来なかった。
影から覗く、絶望の味幸せな三人の姿を遠く離れた茂みの陰から、ガタガタと震えながら見つめる影。掃除のノルマを終え、ボロ雑巾のような格好で移動していたマティウス。
自分が可愛げがないと捨てたティルリカが、自分よりも強くて美しい実父の隣で、見たこともないような慈愛に満ちた笑顔を浮かべているのを見て、心臓が握り潰されるような思いをする。
(あんなに美味しそうなサンドイッチ……母上は、私には一度も作ってくれなかった……いや、作ってくれていたのに私がユーイの差し入れを優先して捨てさせたんだ……)
マティウスの口の中に広がるのは魔獣の餌の残り香と、後悔という名の苦い味だけ。自分には一生届かない温かな家庭の味を遠くに眺めながら、衛兵に首根っこを掴まれて連行されていく。
「ティルリカ、何を考えている?」
ティルリカの口元についたパン屑を指で優しく拭い、そのまま自分の口へ運んだ。
「ううん。今の生活がとっても幸せだなって」
「そうか。ならば幸せを永遠に守るのが私の義務。サンドイッチのお返しに、今夜は君が望むものを何でも用意しよう」
「じゃあ明日のピクニックの具材を一緒に買いに行ってくれる?」
「買い物か。よし、街の市場を丸ごと買い上げよう」
「もう、だから極端だって言ってるでしょ」
二人の笑い声が温かな午後の空気に溶ける。魔王の母だった記憶は重荷ではなく、今この幸せを噛みしめるためのスパイスに過ぎない。
庭園での穏やかな時間は終わり、夜の帳が下りるとバウアーの態度は一変。執務室で書類を整理していたティルリカの背後から、音もなく現れたバウアーが細い腰をガシリと腕の中に閉じ込める。
「仕事が残っているのだけれど」
「そんなものは後回しだ。今日は一日、息子に君を奪われすぎた」
バウアーはティルリカのうなじに顔を埋め、深く香りを吸い込む吐息は熱く、微かな震えを与える。
「私たちの息子でしょう?嫉妬する相手じゃない」
「いいや、私にとっては君を分かち合うライバル。たとえ自分の血を分けた子であっても、微笑みを時間を一秒たりとも渡したくない」
ティルリカを抱き上げ、そのまま巨大な天蓋付きのベッドへと運んだ彼はティルリカの両手首を優しく、逃げられない力で押さえつけ上から覆いかぶさる。
「ティルリカ……君がかつて母親としてマティウスを育てていた数十年を私は今でも呪っている」
「……え?」
バウアーの瞳が暗闇の中で獣のように赤く光る。
「私が眠りについていた間、あいつに触れ、あいつを愛しみ、あいつのために笑っていた過去すら、今すぐ愛で塗りつぶしてしまいたい」
「それは……親愛としての愛。今のあなたへの愛とは別物」
「わかっているが、独占欲は理屈ではないんだ。記憶の隅々にまで刻み込みたい。君が眠る時も起きる時も、考えることは私のことだけでいい」
鎖骨に消えない魔力印のようなキスマークを深く刻みつける。自分の所有物であると世界とマティウスに誇示するための、愛の烙印。
「明日から君を王宮の外へ出すのは控えようか」
「……また極端なことを」
「君が微笑むだけで城の男共は魂を奪われたような顔をする。ティルリカを他の男が視界に入れることさえ耐え難い」
指がティルリカの唇をなぞる。
「唇からこぼれる声も熱も、すべて私だけのもの。いいなティルリカ?」
普段は冷静沈着魔王である彼が、自分の前でだけ見せる余裕のなさに、深い愛おしさを感じる。首に手を回し、自分から引き寄せる。
「わかった。でも、そんなに独り占めしたいなら、あなたがもっと満足させてくれないと」
合図。バウアーの理性が弾ける音が聞こえたかと思うと飢えた狼のように抱きしめた。翌朝、城の廊下を掃除していたマティウスはバルコニーに姿を現した二人を見て、その場に崩れ落ちる。
ティルリカの首元には隠しきれないほどの鮮やかな独占の証がいくつも並んでおり、バウアーは勝ち誇ったような笑みをマティウスに向けていた。
(……ああ、もう母上は知っている人じゃない。あの男の、あの悪魔の愛に完全に染まってしまったんだ……)
マティウスは自分が退屈な女だと切り捨てた女性が、世界で最も激しく熱く愛されている姿を、指をくわえて見ていることしかできない。母親を愛していたのに自分から愛を捨てたのだ。
「愛している。死が二人を分かつ時まで、いや、魂が消滅するその瞬間まで、君は私のもの」
バウアーの囁きは、ティルリカにとって最高の甘い毒。魔王の母だった過去さえも今はもう、深い溺愛の中に溶けて消えていく。




