第十一章 鹿の歌 1
河原の菩薩は約定を果たした。
牛養はたいそう喜び、礼にと一山の瓜を寄越した。
山荘にいる少ない家人だけでは到底食いきれない量である。
私は近しい宮人を招いて振る舞い切ることにした。
その席で、久々に顔を合わせた藤原北家の八束大夫から菖蒲の節句の宴に招かれた。
「節句といっても新たな宅の庭には未だに花が無うてな。侘しいものだが酒はある。せいぜい着飾って花鬘していらせられよ」
陽当りのよい廊に胡座し、唇と指とを瓜の汁で光らせた八束どのは以前と変わらず朗らかで気安げに見えた。
私は必ず行こうと請け合った。――六位を表す緑の袍を、その頃の私は少しばかり疎んじはじめていた。
宮での位階と一族のなかでの立場は関わりないとはいえ、五位の古慈悲や四位の牛養の存在を想うと、いまだ緑の袍をまとう己がとるに足りない若輩であるように思われて仕方がなかった。
八束大夫の宴は宮の節会より二日早い五月の三日に催された。
私は青い花弁を擦りつけて染めた狩衣をまとって鮮やかな菖蒲の花と葉を綴り合せた花鬘で冠の根元を飾った。
「氏上大人よ、美しい装いですなあ」と、鮪麻呂が褒めてくれた。
昼からの五月雨が上がった折で、板垣の庇から珠のような水の雫が滴り落ちていた。
宮のすぐ西の一町の区画に築かれたばかりの宅は未だ木の香も生々しかった。南向きの主屋と対の屋のあいだの庭――になるべき更地――で、赤銅色の裸に褌だけをつけた人足たちが池らしき窪みを掘っていた。
廊から主屋へあがって広い板間へ入ると、蔀戸の向こうの廊にもう人が集っているようだった。
「さて入られよ。皆待ちかねている」八束大夫が顧みて笑い、とばぐちに掛かる青々とした葦の簾をあげながら呼ばわった。「皇子よ、お待たせ致した。お求めの雨夜の歌びとがようやく参りましたぞ!」
「おお来たか大伴の何とやら!」
簾の内から返ったのは高く澄んだ少年の声だった。
呆気に取られて見やると、中庭に面した右手にこれも青い簾を掛けた廊に十数人の宮人が並んで坐していた。
私は愕然とした。
内々の気軽な集まりだと聞いていたのに、連なる者はみな五位の印たる緋の袍をまとって象牙の杓を手にしていたのだ。
違うのは上座にいる角髪頭の少年だけだ。これは鮮やかな白い衣をまとっていた。
「--八束どの、話が違うではないか」
怨みを籠めて耳打ちすると八束どのは悪びれずに笑った。「気にするな。そなたは若く花の如く美しいゆえ、このむさくるしい席の華やぎのためにも、鬘をしてくるのがよかろうと思ったのだ」
「なにをたわ言を――」
「おい八束、何をこそこそ話しているのだ? 早う入れというに!」
少年が焦れた声で呼ばわった。年頃は十四、五だろうか、熟れた毛桃のような頬を赤くほてらせ、子犬のような黒い眸をきらきらと輝かせていた。
「あちらの童子は――」
「安積皇子よ」
私の鬘を直しがてら八束大夫が耳元で囁いた。「行幸の折に雨の中人麻呂の挽歌を歌っていた風雅な内舎人を捜していらせられると聞いての、そなたではないかと見当をつけた。当たっていたか?」
「ああ」
私はこわばった声で応えた。「それで、私にどうせよと?」
「決まっていよう。謡われよ。皇子の求めるままに」
安積皇子は君のただ一人の男児であらせられた。
母君は県犬養の夫人で、橘の大臣とは母方の血縁で繋がっていた。
藤原広嗣の叛乱以来、藤原の大后の娘である日嗣の姫御子を厭って、この安積皇子を新たな日嗣にと望む官人の声が日増しに大きくなっていた。
八束どのは、まさにそんな時期に、私を皇子と引き合わせたのだった。
初めてまみえたとき、皇子は見目も中身も齢より幼い童子のようであられた。
一人場違いな狩衣姿で緋の衣のただなかに放り込まれた私の憮然とした顔を気にもかけず、人麻呂の挽歌を歌うようにとお命じになり、歌が終わると、まるで同母の兄弟のような気安さで話しかけてきた。
「ところでそなた名は?」
「大伴家持と申します」
「そなた、三日後の巻狩りには加わるのか? 君のご上覧なさるあの大きな狩猟だ」
「ええ。わたくしは内舎人でございますから」
告げるなり皇子は不機嫌さもあらわに叫んだ。
「なんと妬ましいことか! 私は何としても加わりたいのに、君は幕屋から見るだけにせいと仰せなのだ」
「皇子が勢子に加わるのは危のうござりますよ。弓馬の技をお好みなら、よろしければ的矢をお教えいたしましょうか?」
幼いころの同母弟をあやすような気持ちで告げると、皇子は目を輝かせ、私の肩に両手を置いて揺さぶってきた。
「是非とも教えよ。いつだ? いつ教えてくれる?」
「では、巻狩りの翌日にでも」
皇子のあまりの熱心さに、私はついそう応えてしまった。途端に皇子は破顔した。手放しに明るく嬉しそうに笑いだった。そのあまりの無邪気さ、あまりの幼い様に、私は呆れながらもほのぼのとした好ましさを覚えた。
宴が果てて皇子がお下がりになったあとで、八束どのが笑って私の肩を叩いてきた。
「のう氏上大人よ、そなたを皇子と引き合わせたのがこの八束であったこと、次の御代のはじめに参議の紫の衣を得たのちにも、ゆめゆめ忘れてくれるなよ?」
「何をたわごとを!」
私は呆れて笑おうとしたが、心のどこかで自分自身も同じ望みを抱きかけていることに気付いていないわけではなかった。
巻狩りの翌日、私は約束通り、弓の道具を携えて安積皇子の曹司を訪れた。
ただでさえ手狭な恭仁の宮の内で皇子に与えられた曹司はさして広くはなかった。
白木の廊を廻らせた坪庭は剝き出しの土のままで、ひょろひょろとした桜の若木が一隅に植えられていた。
その樹に円い的をかけ、鏃の先を潰した矢を射掛けてあてる遊びに皇子は夢中になられた。生え際に汗の粒を光らせて弓弦を引き絞る姿を見ていると、まるで幼い族人の児を教えているかのような愛おしさが湧いてきた。
「のう家持、そなたは山で狩猟をしたことがあるのか? 鹿や猪を射たことがあるのか?」
「ええ。幾度もありますとも」と、私は胸を張って応えた。「初瀬の川上の跡見の庄には、よく田を荒らす鹿が出ましたゆえ、田屋の長に呼ばれて幾度も射たものです」
「さすがに益荒男の伴であるなあ」
皇子は私が何を言っても感心するようだった。




