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第44節 天を仰がず、振り返りもせず

 どこまでも青く抜ける空に、濃厚な潮の香り。

 朝凪の時間も過ぎ、潮風が髪を乱して弄ぶ。

 しつこく声を掛けてくる男どもを追い払い、ようやく独りきりになれた。

 本土へと向かう甲板の上で、わたしは大海原と向かい合っている。

 船首が切る波の上げるしぶきを眺めていると、並走する海鳥たちが翼を広げたまま視界を横切った。


「おまえらはいいな、風任せで」


 返事をしたわけではないだろうが、みゃあと白い鳥が鳴いた。

 岬で世話になったのを思い出し、小石のひとつでも投げたくなる。

 今はもう、この客船の後方で小さくなっているであろう、アマシマク島。

 暮らしていたのは三年弱といったところだが、あの日々を思い返せば、初めからそこで生まれ育ったような錯覚に陥る。


 修道院での暮らしは楽しかった。

 慈善活動はわたしの価値観を磨き、愉快な修道女たちは友情とユーモアを提供してくれた。

 堕天使だったマザー・ジェニーンすらも、思い出を鮮やかに彩っている。


 シスターたちは今ごろ、午前の活動を終え、間借りしている男子修道院に戻っていることだろう。男子のほうも数が減ってしまったが、かりそめの男女同居は修道士たちに新たなドラマをもたらすんじゃないだろうか?

 からかったら絶対に面白いだろうに、少し残念だ。


 弾ける白波のあいだに、仲間たちの顔が次々と浮かび上がる。


 食い意地の張ったシスター・ドロシアは、キッチンナイフで背後から刺され、カスプが牛頭の悪魔に変じたあとはボールのように蹴飛ばされて枝を立てた林へと落とされた。


 ……のだが、彼女の傷は思いのほか浅かった。


 それでも、傷の場所が背中の贅肉だったせいで、動作を取るたびに傷がぶるんと揺れて悲鳴を上げる羽目になってしまっていた。

 可哀想といえば可哀想だが、ヤツはタフだ。

「怪我を治して使徒活動に邁進するため」と称して、いつもよりも余計に飯を食いたがるようになった。

 彼女の別の欲求の発散相手だったオブライエン牧師は小悪魔どもに殺されてしまったが、腹の音を響かせながら、新たな牧師を待ちわびつつ、生き残りの男子たちを値踏みするのにも余念がない。


 サラはクレイミーが亡くなり、マザー・ジェニーンも建前上は火災で亡くなったとされたために、院内の管理を買って出たり、使徒職にいっそう力を入れるようになった。

 今回の悪魔の件は大半の者が憶えておらず、記憶に残している者も現実ではなく悪夢だったと考えているのだが、サラはそれをときおり頭の中でこねくり回してはインクで紙に書き出しているようだ。

 いつか、本になるかもしれない。どうせなら、強くて美しいシスター・クララを主役に一本書いて欲しかったところだな。


 フローラもサラと同様に活動に力を入れている。一連の事件のあいだにビグリーフの仕立て屋のひとつが廃業したために針仕事の依頼が増え、本格的な裁縫業になりつつある。

 わたしも今、ここへ来たときと同じドレスを身に着けているのだが、彼女にその破れやほころびを直してもらった。

 普段使いのシンプルな品とはいえ、離島の限られた材料で見事にやってのけていて、はた目からは修繕痕も分からない。

 フローラに関しては、今回の件について口に出している姿を見ていない。

 悪魔たちが消えたせいなのか、天界の関与なのかは分からないが、彼女たちにとって、忘却は必要なことなのだろう。

 子ども好きなフローラにとっては、なおさらのことだ。

 クレイミーのように見習い娘たちと相思相愛とはいかなかったが、彼女もまた跳ねっ返りどもに愛のある対応をしていたからな。

 それでも、火事場から救出したクレイミーのドイツ人形を見ると何か思うところがあるのか、頬に手をやり首をかしげる姿が見られた。

 カスプはバケモノの姿を見せたときでさえクレイミーの名を口にしていたが、小悪魔どもにも人間らしい情というものがあったのだろうか?


 あとは……そうだな。アイリーンはダメだ。あいつはダメだ。

 じつは彼女には、小悪魔たちの幻術がほとんど効いていなかった。

 かといって正気だったわけではなく、火災現場で平然とハッパをキメていた。

 なんと、事件後もメルチたちのことを記憶したままで、しかも火事が連中の仕業ということまでも理解している。

 だが、そんなことには関心がないらしく、修道院の復興に興味を注いでいる。

 何? 前向きでいいことじゃないかって?

 いやいや、あいつは再建の際に庭園を造ることに執心しているんだ。

 その庭園に植える植物の種類を決めたがっている。あいつはダメだ。

 カニンガムにはふたつの意味合いで監視を託しておいた。


 ロバート・カニンガム主教は足の骨折が癒えないまま、島中を駆け回っている。女子修道院の火事の後処理に加え、首狩りの連続殺人犯が浜に打ち上がり、被疑者死亡で片が付いたためだ。

 彼は初めから、わたしが聖餐のときの記憶を失っていたのを把握し、ジェニーンが天界の敵だったことを知った上でことに挑んでいた。

「赦してくれとは言わぬ。ひとえにわしのこころの弱さが招いたことだ」

 などと言ってはいたが、堕ちた存在とはいえ本物の天の使い相手のことだったし、島を想う彼なりに様々な葛藤があってのことだったのだろう。

 わたしは赦そう。クララ・ウェブスターのこころはアメリカ大陸くらい広いんだ。

「クララよ、共犯者の関係は解消だ」

 肩の荷が下りたかのような調子で言っていたが、当分は苦労が続くだろう。


 わたしは苦笑し、乱れた髪を手櫛で整え、手早くまとめ上げた。

 首元は涼しくなったはずなのに、誰かにうしろ髪を引かれているような気持ちが拭えない。


 カニンガムにはひとつ、頼みごとをしておいた。

 ラニャ・グロッシの今後についてだ。


 堕天使はラニャのたましいを天界への手土産にするために、あるいはわたしの成長を目当てに、あまたの困難と不幸を振りかからせた。

 結果、ラニャは聖人としてのひとつの極地に達することになり、それが諸悪の根源である堕落した神気取りを滅する一因にもなった。


 もう、充分だろう。天に送った祈りと、涙の雨の数の帳尻合わせが必要だ。


 今のラニャ・グロッシは、カニンガムの島の管理者としての権力を用いて、生き方を自由に選ぶことができる。

 このまま聖者としての道を歩むもよし、生家に戻り故人たちの墓を守るもよし、また別の形で市民として生きるもよし。


 わたしは、別れを言わずに乗船していた。

 そばにいるべきではないのだ。わたしはあまりにも多くの不幸を招く。


 ラニャとアニェ、それから死んでいった者たちとのことが頭の中を駆け抜け、胸を絞めつけた。

 彼女たちとの思い出は、余生を生ぬるい温泉に浸かって過ごすことを勧めているのだろう。

 だが、死者たちはどうだろうか。善悪問わず、それはわたしの双肩にずっしりとのしかかっているはずだ。


 わたしは首を振り、ピューター製のスキットルを取り出して、天使のレリーフを見つめた。

 ケジメを着けに行かなければならない。


「もう少し付き合ってもらうぞ、ジェイコブ」


 偽りの神のほかにも、わたしたちには倒さなければならない相手がある。

 ウェブスター家の名を貶め、没落に導かんとする放蕩者にひと泡吹かせてやるのだ。

 それは、アーサーへの示しにもなるかもしれない。

 兄のアーサーは甘い男だった。

 世の不正を憎み、当主として私財を社会に還元する一方で、叔母による資産の横奪を見逃し続けたのだ。

 三年のあいだに連中がどうなったかは知らないが、糾弾するとなれば、堕落したパーティーに参加していたほかの連中も敵に回すことになるだろう。

 その中には、侯爵令嬢のわたしすらも社会的に抹殺することも容易い権力者も混ざっている。

 天誅を気取って大鎌を振れば終わりだろうか。いや、貴族ならば貴族として決着を着けねばなるまい。


 わたしは、わたしの道を歩かなければならない。

 たった独りで。

 その道が血の道でも、涙の道でも、例えゆくさきが地獄であろうとも。


 後悔はないさ。

 わたしは神に頼まない。そして、決して振り返りはしない。


「振り返りはしない、が……」


 腰のあたりを誰かが触っていた。

 さっきのスパイス貿易会社の重役とやらが、ハーブくさいにおいをさせながら腰に手を回してきたのが記憶に新しい。

 頬の傷は思いのほか綺麗に治り、虫除けとして役立たずだった。


 右足で、きゅっと甲板を鳴らして半回転。

 爪先が口髭のまんなかに来るように狙って、蹴りをかます。


 ……手応えがない。


「ビックリしたあ!」

 代わりに下のほうから声がした。聞き覚えのある声だ。


 視界を床に移すと、大きなトランクの下敷きになった少女の姿があった。


「何をしてるんだ、ラニャ」

「何をしてるんだはこっちのセリフ! クララお姉さま、黙って出て行っちゃうなんて酷い!」


 ラニャが勢いよく立ち上がると、わたしの足の小指に衝撃が走った。

 トランクがわたしの靴の端にめりこんでいる。

 抗議する間もなく抱き着かれ、背中が手すりにぶつかった。


「危ない! 落っこちるだろう!」

「もう逃がさないんだから!」

「クソッ、カニンガムのアホは何してたんだ! ラニャのことを見てくれって頼んでおいたのに!」

「主教様はちゃんと見てくれましたよ。この大きなトランクも、船のチケットも用意してくれました。それに、お姉さまがこっそり出て行く日のことも、ちゃあんと教えてくれてたんですからね!」


 クソジジイめ!


「あ、そうだ。主教様からことづけを預かってきています」

「なんだ? どこかにパシリをしろとかなら知らんぞ」


 ラニャはわたしから離れるとトランクを開け、一枚の便箋を手渡してきた。

 風で暴れる紙を押し広げてみると、そこにはこう書いてあった。


『さらばだ共犯者クララ・ウェブスター。最後におまえを出し抜いてやったぞ』


 わたしは「あの野郎!」と叫び、便箋をびりびりに破いてやった。

 風にあおられ、甲板に紙屑が散らばる。


「お姉さま……」

 顔を上げると、ラニャが上目遣いでこちらを見上げていた。

 姉貴分が目の前にいるというのに、大海原にたった独りで浮かんでいるような表情だ。


「別に、おまえがキライだとか、邪魔だとかは思ってないさ」

「それは分かっています」


 彼女は表情を変えない。わたしは耐えかねて背を向け、水平線を眺めた。


「これから、何をしに行くつもりなんですか?」


 わたしは答えなかった。

 視線を頑として青い境界に釘づけ、背中で気配を探り続ける。

 ラニャはトランクをごそごそとやっているようだ。


「これも渡しておきますね」


 紙の束を手渡された。見覚えのある封筒だった。

 これらは一通だけ封切られていて、あとはそのままにしてあったものだ。


「読んだのか?」


 ラニャは返事の代わりにくちびるを仕舞い込んだ。

 宛て先はわたし。手紙の差出人はアーサー・ウェブスターだ。

 彼からの謝罪と、屋敷に戻ってきて事業を手伝って欲しい旨が書かれている。

 読んだのは最初のみで、返事も一度も書いていない。


「火事で焼けてくれたと思っていたんだがな」


 ちょうどいいところにウミネコが並走しているのを見つけ、わたしは手紙を束のまま投げつけてやった。

 手紙は鳥には届かず、視界から消えていった。


「捨てちゃった!」

 ラニャは目を丸くして手すりにつかまり、海を覗き込んだ。

「……帰らないんですか?」


 わたしは背中を手すりに預け、空を見上げた。

 酒か煙草でもやりたい気分だ。

 ラニャはきっと、わたしが何か大ごとを起こすと気づいて追ってきたのだろう。

 つくづくいい子だと思う。マクラとマリアに感謝だな。


「お姉さま……」

 返事を貰えない娘は、風に弄ばれた長髪が鼻先を叩いているのにも構わずに、トランクの留め金をいじっている。


「帰るさ」

 口にするも胸が重く、同時にわたしは気づいた。

 さっきまで肩のほうに感じていた重みが、消えている。


「屋敷には帰るさ」

 言い直す。今度は胸も軽く、口元を笑わせて。

「それから、金目の物を持ち出して売っぱらう」


 ラニャが「お姉さま!?」と声を上げて、こちらを見た。

 いい顔だ。イタズラの計画を話してやると毎度、アニェとおそろいでこういう顔をしてくれたのを思い出すな。


「旅に出ようと思うんだ。自由気ままに、何にも囚われずにな」


 不安げな少女に向かって、笑顔を見せてやった。

 作り笑いなんかじゃない、面白い企みを得たときの、腹の底から笑えるが、ちょいと抑えておかなきゃならないあの笑いだ。


「もちろん、一緒に来てくれるよな?」


 差し出した手が握られる。

 ラニャは「やった!」といい笑顔になると、わたしの手を引いて走り出した。

 引かれるままに客船の長い甲板をゆき、海を眺める客を避け、手すりで休む鳥を追い払い、いよいよ船尾へとたどり着く。



 そこには、思いのほか大きなままのアマシマク島が、のんびりと噴煙を吐いている姿があった。



 ラニャが両手を口に当て、大きく息を吸い込む。


「いってきまーす! お土産買ってくるからねーー! ほら、お姉さまも!」

「わたしもか?」


 少し戸惑うも、ひとつ言っておくべきことを見つけ、妹分に習うことにした。


「カニンガム! わたしが戻ってくるまでに修道院を建て直しておけよーっ!」


 あと、


「おまえにはお土産はナシだーっ!」


 わたしたちは顔を見合わせ笑う。

 ラニャはもう一度、島を見つめると、「なんだか生まれ変わった気分」と髪を掻いた。


 いいじゃないか、たまにはうしろを振り返っても。

 どっちを向いていようが、それが正面かどうかを決めるのはわたしたちだ。


「げっ、しまった! トランクを置いてきちゃった!」「盗られるぞ」


 妹分が騒がしく駆け出す。

 背を優しく見守り息をつくと、空からなんとなく視線を感じた。


 見上げれば、南中を迎えようとする太陽があった。

 かざしたついでに手を振ってやり、わたしは船首に向かって歩き始めた。



***


 完


***

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