貪欲なあなた
作者名:人詠
穢れた心は元には戻らない。
僕はそう自分に言い訳しながら人の心を壊し、そして、貪ってきた。誰か指図されたというわけではなく、ただ自分の意思で、ただ自分の手で際限なく貪っていた。
今日も人の心を貪って、満たされない心で満たされていると、突然、後ろから話しかけられた。
「お前の手、汚いな」
「お前、急に何を言ってんだよ。俺の手が穢いというのか?」
僕は後ろを振り返り、平静を装いながら反論した。いや、僕は動揺を隠しきれていなかっただろう。僕の反論に彼は困惑して言葉を付け足した。
「え? どう見たって汚いだろ……そんだけ汚いから俺はてっきり手を洗ってないんじゃないかって思っただけなんだが、違ったみたいだな。すまなかった」
僕は彼にそう言われてようやく自分の手を見つめた。その手は誰が見ても汚く思うくらい酷く汚れていた。
「やべぇ、こんなに汚れていたのか……」
僕はあまりの汚さに笑ってしまった。僕の笑いで彼はほっとした表情を浮かべた。
「俺の見間違いじゃなくてよかった……何も確認しないで威圧をかけるなんてお前らしくないな。お前、何か後ろめたいことでもあるのか?」
後ろめたいことなんて何一つない。だって『穢れた心は元に戻らない』のだから後ろめたく思う必要がない。
「後ろめたいことなんてあるわけないじゃないか。僕はいつでも後悔をしないように全力で生きているだけだよ。ただちょっと色々なことを考え込み過ぎていただけだよ」
僕はそう言ったが、僕の口から出てくる言葉はどこか臭く、乾いていた。
「そうか、何もないなら俺の勘違いだ。気にしないでくれ。じゃあ、俺はこれから用事があるからもう行くわ」
僕は見えない誰かに呼吸ができなくなる程、上半身を絞めつけられた。
「まだ人の心が足りないのか」
そう呟き、僕はまた黙って歩き出した。一人、また一人と、人の心を貪っては、空っぽな心を満たそうと、自らの心へ垂れ流していた。僕の心の底は骸骨のように突き抜けて、決して満たされることがないと知りながらも垂れ流さずにはいられなかった。そして、通りゆく人々は心を貪る僕の姿を見るや否や化物を見るかのように声をあげて走り逃げていくようになった。
「誰か、誰か……ん?」
乾ききった心を潤わせようと這いずり回っていると、そこに棄てられた鏡があった。鏡を覗き込むと、そこには変わり果てたというしかない僕自身の姿があった。口から涎を滝のように垂れ流し、目の周りも隈で黒く染まり上がり、髪の毛は痛みきってボロボロになっていた。
僕の心は、いつしか涎を口からダラダラと垂れ流すほど空虚に満たされてしまっていた。僕が穢れた心を貪れば、僕の心がその分だけ穢れていく。そんな簡単なことにすら気がつかないほどまで僕の心は穢れきっていたのだ。
「人の心が足りない。誰か、誰かいないのか?」
僕は自身の姿を見てもなお乞食のように這いずり回りながら人気のない路地で懇願し続けていた。
「お、お前、そんなところで何してんだ?」
振り向くと、彼が僕の苦労も知らずに無邪気な顔で話しかけてくる彼がいた。
「なぁ、お前、心あるんだろ? 一口でいいからさ、食わせてくれよ。友達だろ?」
彼は僕の必死に懇願する威圧で明らかに腰が引けていた。
「お前はいったい何を言っているんだ? 何か変な物でも食ったのか?」
彼は腰を引きながらも、逃げずに話しかけてきた。
「お前が僕を狂わせた。お前のせいだ」
「……お前、誰だ? あいつはそんなこと絶対に言わないぞ」
「うるさい、うるさい!」
僕は彼を怒鳴り声と共に押し倒した。そして彼の上に馬乗りをし、何度も、何度も罵倒を繰り返し、顔が腫れ上がろうと、何度も、何度も殴るのを止めなかった。
「やめ、くそったれ……」
彼は何度も反抗しようと試みていたが、どんな手を尽くしても状況は変化しなかった。簡単には諦めない彼もこの状況では絶望に心が満たされ、光を失い、仕舞いにはピクリとも動かなくなってしまった。それでも僕はしばらく手を止めなかった。腕が疲れ果てて、動かなくなると、彼が動かなくなっていることにようやく気付いた。僕は彼の心までも貪ってしまっていたのだ。
「穢れた心は元に戻らない、穢れた心は元に戻らない、穢れた心は元に戻らない……」
僕は慌てて自身に言い訳を言い聞かせた。いつもより多く言い聞かせたのに、嬉し涙が止まらない。震えが止まらない。どうして止まらないのかも全くわからない。今までもない程の力で全身を誰かが絞めつけてくる。
「痛い、苦しい、助けて……」
僕がどんなに叫んでも見えない誰かは手加減をするどころか先程よりも力強くしてきた。穢れた心は元に戻らない。
あぁ、そうか。最も穢れた心を持っている人はこの僕だった。穢れた人の心を貪って心を満たす僕は、穢れた僕の心を貪らずにはいられないのだろう。きっとそうだ。僕の身体を絞めつける見えない誰かはきっと僕自身なのだろう。人々が熟れたトマトを好むように卑しく育った穢れた僕の心を一番卑しいときに貪っているのだろう。
今更そんなことに気づいても、もう何もかもが手遅れだった。彼は僕の手により永遠に動かなくなった。それだけじゃない。僕の目の前にいる見えない誰かは、どう足掻いても絞めつけるのを辞める気配がない。徐々に意識が遠のく中で、薄っすらと誰かの姿が見えた。ぼやけて視界がはっきりとはしないが、確かに見覚えのある姿をしていた。彼は何度も小さく何かを呟いていた。僕は掠れきった声で尋ねた。
『あなたは一体誰だったのですか』
新しく参加させていただく、人詠と申します。
まずは指定更新日から数日遅れての更新で大変申し訳ございませんでした。
引き続き他の方たちの作品も含めて楽しんでいただけると幸いです。
私事ではございますが、私の名前はコロコロ変わる可能性が高いので、わからなくなったら「名無し」とでも呼んでください。
以上、評価や感想をお待ちしております。