雨音に耳をすまして(2)
「あのさ」
「なに?」
理久が言葉を探すように目をそらす。
「オレ、ここで美音に会うの初めてじゃない」
「雨の日のこと?」
思い当たるのは雨の日の出来事。しかし、理久が気づいていたとは思わなかった。
それに大した出来事ではない。たまたま居合わせただけだ。会話もせず、目を合わせることもなかった。
「覚えてたんだ」
「慌てて入ってきたし、あまり見かけない顔だったから」
「オレの印象薄っ」
「仕方ないんじゃない?」
「美音って結構キツイこと平気で言うよな」
そんなこと知るかと、むくれた美音を尻目に彼は棚を見つめる。
「なに?」
「覚えてないかな。えーっと……」
理久は急に、左から右へ視線をずらしながらCDを探している。
「ねえ、なんなの?」
「あ。あった」
理久は棚から一枚のCDを取り出した。
「これ、覚えてない?」
差し出されたCDを受け取り、そのジャケットを見る。桜が散る様子が描かれていて、春に発売された曲だと思った。
美音はそれを持っている。有名な歌手ではないが、とても優しい声と流れるような美しい歌詞に惹かれた。美音のお気に入りの一つだ。
ラブソングではあるが、美音はその曲が好きだ。桜が散る様子と失恋とを重ね合わせたような歌である。
「覚えてる。素敵なラブソング、歌って――」
言いかけて突然、鮮明に思い出す。
桜の描かれたCD。買った日のこと。あの日はニューシングルの棚の端に、そのCDがあった。あまり有名ではない歌手だったので、初回特典盤は数枚しか店には置いていなかった。
本当は発売日に買いたかったのだが、手持ちが少なかったために断念。買いに行ったのは、発売日から一週間が経った頃だ。
『あった!』
最後の一枚だった。
『あった!』
そのCDに同時に手を出していた。男性のすらっと長い指先が触れる。同時に手を引っ込めて赤面したのを覚えていた。
その時の彼は、
『このCD買いたい奴に初めて会ったよ』
なんて言って笑っていた。
だから美音も頷いた。
『わたしもです』
『気が合うかもね。オレたち』
『え?』
『それ、買いなよ。オレは別の店に行くからさ』
美音がお礼を言う前に、彼は店から出て行ってしまった。
最初の印象は嵐みたいな人。自分と同じ曲を好きになった人。とても気になる人だった。
『……ありがとう』
誰もいないそこに、何となくお礼を言ってCDを手に取る。譲ってくれた彼こそ、理久だった。
彼と会話を交わしたのは、今日が初めてではなかったのだ。
「やっぱり、忘れてた?」
「今、思い出した」
ほんの少し前のことなのに忘れてしまっていた。人に興味がないのだと、改めて認識する。そんな自分に少なからずショックを受ける美音。
「……ごめんなさい」
「いや。そんなに謝らなくても」
美音は嫌だった。友達にさえ冷めていると言われている。そんな性格で恋なんて出来るはずがない。
「なに、泣きそうになってんの?」
「泣いてないよ」
「そう?」
うまく会話も繋がらない。それがまた居心地悪くて俯いた美音。
「でもさ、雨の日のこと。覚えててくれたんだ?」
「……うん」
「会話してない方を覚えてるなんてね。美音は本当に不思議な子」
確かに、普通なら話した方が印象に残るはずなのだ。それなのに忘れてしまったのは、よほどあのCDが欲しかったからかもしれない。
美音は一人、過去の自分を分析する。
「でもさ」
「なに?」
「やっぱり美音が気になる」
「え?」
「そうやって素っ気ない態度を取るし。かと思ったらいきなり傷ついて泣きそうになる」
他人に勝手に分析されると恥ずかしくなる。美音は顔を赤くした。
「あまり興味を示さない美音が、唯一興味あるもの」
「……音楽」
「そう。オレ、マジで嫉妬してたんだからな」
「……ふうん」
まだ素っ気ない態度の美音に、理久は頭を抱えた。
「あなただって音楽辞めて、テニスなんかしてる。人って変わるのね」
「変わってない。テニスだって音楽だ」
「テニスが音楽?」
美音は首を傾げる。意味がわからず、彼に解答を求める。
「テニスってさ、プレーヤーそれぞれが音を持ってるんだ。リズムってやつさ。こいつを崩されたら負ける」
「へえ」
「相手にオレの音楽を聴かせてやるんだ。だから、音楽が嫌いになったわけじゃない。オレは外にある音を求めるようになっただけ」
理久は楽しそうに説明する。軽音部からテニスに至るまで、何があったかはわからない。
しかし、テニスのリズムという話は少しわかる気がする。
「外にある音」
「そう。今だって、ほら。雨が降ってきた」
音を聞いてごらんと、梅雨らしい暗い空を指さす。
なんてことは無いただの空。激しくなってきた雨音は憂鬱を運んでくる。
「世界は音楽で出来てる。そう思わない?」
これまでショップに売っている曲以外のものに興味を持つことがなかった。
対する彼は、世界は音楽だと話す。
外のものに夢中になることがなかった美音には、理久の思っている世界がよくわからない。
「恋してる時ってさ、世界の音が変わるんだよ」
「へえ」
憂鬱な雨の音もまるでコロコロと鈴を鳴らすかのように美しく、傘をさせばトントンと木琴を奏でるようにさえ感じるのだ。
恋はいいものだと、理久は力説する。
「だから、わかんない?」
「なにが?」
理久はため息をついた。しかし、次の瞬間には真面目な顔をする。美音の肩に手を置いて、じっと見つめてくる。
「な、なに?」
「卒業して諦めたんだよ。一度は」
首を傾げる美音。まだ理久の言おうとしていることがわからない。
「でも、またここで会えた。運命感じるだろ?」
「はぁ」
「だからさ!」
あまりにもわかってくれなくて、理久は手に力を入れる。
そんな彼の顔もだんだんと赤らんでいく。それを見る美音もつられて赤くなっていった。
「美音が好きなんだよ。ずっと好きだった」
真剣な目。美音は何も言えなかった。そんな風に自分の感情をぶつけられたのは初めてだ。
初めての告白だった。
「あの……わたし……」
「わかってるよ。美音が興味あるのは、音楽」
美音はぎこちなく頷いた。すると彼は肩から手を離して、にっこり笑う。
「ごめんな。いきなり」
「そんなこと……」
「でも、本当のことだから。嘘じゃない」
嘘ではないとわかっている。ヘラヘラと笑うことのある理久ではあるが、目は真剣そのもので美音を魅了する。
日に焼けた肌の向こうで赤くなる頬が、彼の一途さを証明しているようだ。
「返事を聞かせろってことじゃない。言いたかっただけだから。でも、また会えたら嬉しい」
理久は美音に手を振ってから、雨が降っているにも関わらず外に出る。地面に落ちた雨粒が跳ね返るほどの雨の中を平気で歩き出した。
何となく見つめていた美音は、背中を押されるように駆け出して彼の手を引っ張っていた。
そんな行動にびっくりしたのは理久だけではない。美音も驚いて、恥ずかしくなって、すぐに手を引っ込める。
「え、えっと……」
「美音? 濡れるよ」
「告白されたからとかじゃないから。ただ……」
美音は一度、深呼吸する。
「また会いたい」
「え?」
「あなたの好きな音楽、知りたい」
美音は興味があった。
かつて自分と同じCDを買い求めた人。同じようにCDを買う人。ラブソングに共感出来ないのは、恋をしていないからだと言い張った人。
恋をしたら、同じ場所に立てるような気がした。ただ、同じ場所に立ちたかっただけだ。理久と同じように音楽を聴いてみたかった。
ラブソングを心から共感出来るような、そんな世界にいられたらどんなに幸せだろう、と美音は思う。
「あなたの音を知りたい」
雨音に邪魔をされて聞こえなかったかもしれない。美音の言葉に理久は答えず、不安に思って彼を見上げる。
「いいよ」
やっと彼は頭を掻きながら答える。
「夢中にさせてやるよ。オレの好きな音楽に」
美音は自然と笑顔になる。単純に嬉しかった。
「あ。笑った」
「わ、笑ってなんか……」
「可愛い」
「うるさい」
美音の目に映る激しい雨はまるで宝石が降っているかのようにキラキラしている。
雨音は、グラスの中の氷を掻き混ぜる時のように優しい音を奏でている。
夏はもうすぐ。
美音は初めて、世界の音の美しさを知った。
読んでいただきありがとうございます。
こちらも前に別サイトに掲載していた作品です。
雨とラブソングがテーマになっています。




