【忘却の章】
クーオフクから出発した船は、航海の半分くらいを終えていた。クーオフクを出発して早くも3日が過ぎている。さすがにセフィーク達も話のネタが切れたらしく、部屋で寝て過ごす事が多くなった。その中でもクライシュードだけは、毎日甲板に出ては、空を見上げていた。
“光は全てを包み──
全てを赦した。
闇はやがて消え──
世界は光の下に目覚める。
全ては幻であったかのように。
いずれは忘れ去られることでも──
世界は全てを知っている。
その光があったことを──”
その日も、朝早くから甲板に出ていたクライシュードは、ふと澄んだ詩声に振り返った。そこには長い髪を潮風に揺らしながら悲しげに詠う青の姿があった。
「…青…?」
「っ…クライシュードさん…」
誰もいないと思っていた甲板にクライシュードがいたので、青は驚いているようだった。
「早いのですね。
こんなに朝早くから起きていらっしゃるとは思いませんでした」
見慣れた笑顔を返す青に、クライシュードは失笑した。
「これくらいの時間なら、いつも起きている。
お前が部屋に篭りっきりなだけだ」
青は苦笑すると、船の進行方向を見つめた。
「…遠いですね。次の街は“ウォイクォット”でしたよね?」
「あぁ。…青、今の詩はクーオフクで俺が眠っている時も詠っていたのか…?」
「え…?お恥ずかしい…聞いていたのですか?」
頬を紅潮させ、青は照れくさそうに微笑んだ。
「やはりな…。その詩は、どこで覚えたんだ?」
青が詠うより前から、クライシュードはその詩を知っていた気がした。朧げな記憶を手繰り寄せるように、クライシュードは詩を詠み返した。
「“光は全てを包み、全てを赦した。
闇はやがて消え、世界は光の下に目覚める。
全ては幻であったかのように。
いずれは忘れ去られることでも、
世界は全てを知っている。
その光があったことを”
…俺はこの詩を知っている…。
だが…どこで聞いたのかが、ずっと解らないままだ」
クライシュードは自分を探すために、それを聞かなければならないと、青を真っ直ぐに見つめた。
「…これは…とある、女性の方が詠っていたんです。
その方は独りで旅をしていらっしゃいました。
その途中で、私にこの詩を聞かせてくれたのです。
旅の途中に、自分のことを詠ったものだとか…」
青が懐かしそうに話すと、クライシュードの脳裏に女の姿が浮かんだ。顔がどうしても思い出せないが、確かに会った事のある女性だった。
「……俺も…その女を…知っている…?」
「え…?」
二人は顔を見合わせた。
「そうだ…これから行くウォイクォットで…会ったんだ…。
その女の名は…知っているのか?青…」
「あ…いえ…、存じません…」
そうかと、クライシュードは肩を落とす。青は罪悪感に苛まれたが、それは言ってはいけない名だった。
─もしも…私の言う方と、クライシュードさんの言う方が同じだとしたら…。
やはり、私達は一度でもこの方とお会いしているということなのでしょうか…。
私は…どうすれば良いのでしょう…。…ミティー様…。
「まぁ…せっかくだ。少々長くなるが、聞いてくれ」
クライシュードが自分から何かを話そうとしたのは初めてだったので、青はそれを甘んじて受けることにした。
「…何時の頃かも、何故そこにいるかも解らないんだが…。
俺は何かの目的があってウォイクォットの街にいた。
何処へ行く予定だったのかも解らないが…。
とにかく、その街にしばらく滞在していた。
夜には毎日酒場に行き、酒を飲むのが習慣だったようだ。
ただ、荒野に行き、機械兵と戦い、戻って酒を飲む。
そんな毎日だったらしい」
クライシュードは記憶が曖昧であり、言葉の端に「ようだ」や「らしい」が多く付いていた。
「変化のない、つまらない毎日を過ごしながら…
そろそろ街を移ろうと思っていた矢先に、そいつは現れた。
…顔も、名前も思い出せないが、女の旅人だった。
そいつは酒場に入って来たかと思うと、主人と話をして、徐に小さな舞台に上がった。
一呼吸おいて、そいつは口を開いた。
“暗き道を照らす光、明るき道に落ちる影。
我が行く道に先はなく、光と影が交互に落ち行く”
そう、詠い始めた」
その詩も、青は知っていた。だが、話に水を差すことなく、青はただ聞き入っている。
「俺は吟遊詩人や詩を詠う類の人間はあまり好まなかったんだが…
その詩には何故か惹かれた。
詩声は酒場の外まで響き、あっという間に酒場は満員になった。
人を惹きつける、不思議な声をしていたな。
柄にもなく、俺はその女が詠う詩を聴き入った。
夜更けまで詠うと、さすがに疲れたのか礼をして舞台を降りてしまったが。
酒場に集まった客が不満を言うと、女は困った顔をした。
が、すぐに笑顔を返し、それならば明日もここに来ると約束をした。
次の日、約束通り女は来た。
前日は気が付かなかったが、男が二人傍にいた。
その男達の顔も思い出せないんだが…。
もちろん、その場には俺もいた。そこで、例の詩を聴いたんだ。
“光は全てを包み、全てを赦した。
闇はやがて消え、世界は光の下に目覚める。
全ては幻であったかのように。
いずれは忘れ去られることでも、
世界は全てを知っている。
その光があったことを”
初めて聴いた詩よりも、この詩は心に残ってる。何故だかは解らない。
…この詩だけは、他の詩よりも悲しく聞こえたからかもしれないな…」
自分の身の上を詠った詩だということと合わせると、彼女は悲運を背負って旅を続けているということになる。それを考えると、クライシュードはいたたまれなくなったのだろう。青は悲しげな笑みを浮かべた。
「その詩と彼女の悲しみを共感したのでしょうね…」
「…共感…?…そうかもしれないな」
クライシュードは昇り始めたばかりの太陽を仰ぎ、笑みを浮かべる。
「青、お前が会った女と、俺が会った女は同じ奴なのか?」
「…え…?さぁ…。同じ詩を他の方が詠っているとは思えませんが…」
「だよな…。でも、俺が見た奴は二人の男が一緒だった。
青が見たときは独りだったんだろう?」
ふと疑問に思い、クライシュードは首を傾げた。
「私が会った後に出会ったのかもしれませんし」
もっともらしい答えを返し、青は笑顔を浮かべる。
「まぁ…そうだな。
この詩を思い浮かべる度に、俺は何かを忘れている気がしてならないんだ。
もちろん、記憶喪失の俺が忘れているのは当たり前なんだが…。
最近の…新しい記憶の中で、何かを見落としているような…
そんな気になる。
…それも、クーオフクでお前と出会ってからの事だ。
確かに、その記憶を歩んできたはずなんだ。
だが…それが偽りに思えて…。
俺は本当に現を歩いてきたのかが、疑問に思えてならないんだ」
真っ直ぐに見詰める瞳に、青は呑まれそうになった。ミティーとの出会いがクライシュードにとってそれ程大きなものだったのかと、青は今まで以上に罪悪感を覚えた。
「それは…不思議ですね…。
しかし、今、ここにいる貴方は夢でも偽りでもない…。
そうでしょう?」
クライシュードは再び太陽を仰ぐ。
「貴方にとって、その曖昧な記憶の中に隠れているであろう物は、大切なものですか?」
「……どうだろうな。
だが、大切でなければ、これ程までに気に留まらないだろう」
「ならば、それが夢であろうと現であろうと、すぐに取り戻せるはずですよ。
…違いますか?」
視線を落とし、クライシュードは考え込んだ。闇に隠れた真実を探り出そうとしているように見え、青は目を背けた。
「無理に引き出す必要はありませんよ。
自然と、貴方の元へ戻る時が、必ず来るはずですから。
その時までは、現を精一杯進み抜きましょう。
…私も、共に行かせていただきます」
胸に手を置き、青は深く頭を下げた。
「…青…。お前は本当に不思議な奴だ。
俺は一人で旅をする方が多かったというのに…。
…お前には俺の相談役になってもらった方がいいかもな」
苦笑いを浮かべ、クライシュードは青の肩に手を置いた。その時、海から魚が跳ね、二人に水飛沫がかかる。
「っ…冷たいな…」
「魚も、貴方と共に行きたいと行っているのですよ」
二人は見詰め合うと、やがて笑い声を上げた。
ウォイクォットへ向かう船は留まることを知らず、ただ、その目的を果たすためだけに進んでいる。ウォイクォットはクライシュードにとって記憶の眠る地である可能性が高かった。青はそのことに一抹の不安を抱えながらも、船を止めることはできない。すでに、自らの記憶に疑問を感じ始めている彼を前に青は手を貸すことも、逆に離れることもできずにいた。自然の流れに全てを委ねながらも、彼が記憶を取り戻すことを密かに望んでいる自分に、青は嘲笑した。
この話で番外編も含め「荒れ鷹」は完結となります。
お付き合いいただきありがとうございました!