付き合いたての二人 ※2巻発売記念SS
ケトルがシュンシュンと湯気を噴き始めたのを見て火を止める。
ちょうどその時、ドアをノックする音が聞こえて思わず口元が緩んだ。
時間ピッタリ。
いかにも真面目な彼らしい。
足取りも軽やかにブラインドの下りたドアを開けに行くと、そこには私服姿のライアンが立っていた。
「いらっしゃいませ」
いつものくせでそう言ってしまうと、ライアンが片眉を上げ肩を竦めてみせた。
「残念ながら、今日はプライベートなんだ」
「ふふ、そうでした」
はにかみながら言って、誰もいない店内にライアンを招き入れる。
「ちょうどお湯が沸いたところなの。とっておきのコーヒーを淹れるから座ってて」
「ありがとう。実は少し期待してた」
笑いながらいつものカウンター席にライアンが座る。
「時間通りに来てくれたから豆も挽き立てよ。遠慮なく期待してて」
セットしたフィルターに豆を計り入れ、ケトルから細く細くお湯を注ぐ。
私の地道な布教のおかげで、紅茶よりコーヒーを頼む回数の増えたライアンが漂う香りにうっとりと目を閉じた。
そうしているとまるで彫像のようだ。
改めて美形だなと、コーヒーを淹れながら感心してしまう。
「はい、どうぞ」
ライアンの隣に腰掛けてカップを置く。
ライアンは律儀にお礼を言って、嬉しそうにカップに口をつけた。
「……やっぱりフローレスのコーヒーが一番だ。他と何が違うのだろう?」
ほう、とため息をついてからライアンが不思議そうに言う。
「それはきっと、たっぷり愛をこめているからね」
手放しで褒められるのが照れ臭くて、おどけて冗談を言うとライアンがパチパチと目を瞬いた。
それからじわりと目元を染める。
「……なるほど、そうか」
それはもう嬉しそうに幸せそうに微笑むものだから、私もつられて頬が熱くなった。
お互い照れて、変にソワソワした沈黙を誤魔化すようにコーヒーを飲むペースが上がる。
「その、実は今日はお願いがあって」
カップを空にしたライアンが唐突に口を開く。
私は反射的にシャキッと背筋を伸ばしてライアンの方を向いた。
彼は躊躇するようにぎゅっと目を閉じ、それから意を決したようにまっすぐに私を見た。
「……手を繋いで歩きたい」
「へっ」
予想外の「お願い」に、思わず間の抜けた声が出てしまう。
今日、私たちはこれから今話題のお芝居を見に行く約束をしている。そこまでの道中でのことを言っているのだろう。
私とライアンはいわゆる「お付き合い」を始めたばかりで、つまり今日のこれは「初デート」に当たる。
だけど付き合う前に何度か二人で出かけたことはあったし、その時のライアンは自然な動作で腕を組むよう促してスマートにエスコートしてくれた。
それはもう、これまでの女性遍歴を垣間見た気がして少し嫉妬してしまうくらいに。
実際、王宮勤めの友人からはそう聞いている。
ライアンのもとには美しい御令嬢方がひっきりなしに訪れると。
「……あなたって、女性からすごくモテていたんじゃないの?」
そんな彼が、手を繋ぐ程度のこと、そんなにかしこまって言うようなことだろうか。
「モテ……それについては黙秘するが、大切な女性とその他大勢の女性とでは全然違うだろう」
困ったような顔でライアンが言う。否定しないあたり、本人も自覚はあるようだ。
「フローレスは唯一無二で、他の誰とも替えられない世界で一番愛している女性だ。まず前提からして間違っている」
「そ、そうなの……でもほら、腕を組むのは平気そうだったし」
真面目な顔で熱烈なことを言われて再び顔に熱が上る。
「腕を組むのと手を繋ぐのだって大違いだ。そもそも腕を組むのだって本当はすごく緊張していた。今だって話をしているだけだというのに胸の高鳴りを抑えられないのに」
けれどそんなことには気付かないライアンがますます熱弁を重ねるから、自分の耳が赤く染まっていくのが分かった。
「ストップ、待って、もういいから」
手のひらをライアンに向けて制止の言葉をかける。
どれだけ私を特別に思っているかという主張が際限なく続きそうだ。そんなの耐えられない。
ライアンの目も見られないくらい恥ずかしくて、思わず両手で顔を覆ってしまう。
その手を、そっと掴まれた。
戸惑う間もなく、そのまま引き寄せられて指先がライアンの唇に触れる。
それから額に、こめかみに、頬に、唇に。
次々に降るキスにギュッと目を閉じてひたすら耐える。
「……どうして手を繋ぐのは躊躇うのにキスは平気なのよ」
完全に心を乱されたのが悔しくて、涙目でライアンを睨む。
対するライアンは、気まずそうに目を逸らした。
「手を繋ぐのは心の準備と手順が必要だが、キスは愛しいという衝動の発露だから……」
全然言い訳になっていないことを言って、ライアンが苦笑する。
なんとか言い返してやろうと口を開きかけたところで、時計が視界に入った。
「もうこんな時間? そろそろ片付けなくちゃ」
上演時間が近づいていることに気付いて立ち上がる。
「手伝うよ」
続いて立ち上がったライアンが、二人分のカップとソーサーをひょいと持ち上げてそそくさとカウンター内に逃げていく。
私はライアンとの距離が空いたのを幸いに、心音を落ち着けるためカウンターテーブルをいつも以上に丁寧に拭くことにした。
片付けを終え、劇場に向かうために並んで扉の前に立つ。
「ええと、じゃあ」
控えめにそう言って、ライアンがぎこちなく右手を差し出してきた。
「じゃあ、失礼します……」
恋人同士が手を繋ぐだけなのに、妙な緊迫感を漂わせながらその右手に自分の左手を重ねる。
硬い指に、厚い手のひら。
毎日剣を握っている人の手だ。
ゆっくりと指が絡み合う。
じわじわとお互いの熱が伝わり合って、何とも言えない気持ちにムズムズしてくる。
なるほど、確かにこれは緊張する。
「……これは、あまり良くないな」
「え、嫌だった?」
手に汗をかいてしまっているせいだろうか。
それとも思っていたよりピンとこなかったのだろうか。
不安になって尋ねると、ライアンがじっと私を見て申し訳なさそうに口を開いた。
「いや、往来だろうと構わず抱きしめたくなってしまう」
反省するように言いながら、ライアンが言葉の通りに私を抱きしめる。
「……これも衝動?」
「そう。フローレスが可愛すぎるのがいけない」
私を責めるように言うライアンを笑いながら抱きしめ返す。
どうやら劇場に着くのはギリギリになってしまいそうだ。




