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刀を持たない朝 ―武士とはなにか、七百年の物語―  作者: ソリトん
第一部 武士の誕生——御恩と奉公 / 序章 武士とは何か——問いの始まり

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第1話:土の匂い

 ――治承四年(一一八〇年)八月、相模国(さがみのくに)大庭御厨(おおばのみくりや)。

 坂東(ばんどう=関東地方)の野に、稲が実っていた。その稲を守るために、刀を持つ者たちがいた。

 大庭景親(おおばかげちか)は、畦(あぜ)に膝をつき、稲の穂を手に取った。

 指で籾(もみ)を転がしてみる。固い。粒もよくそろっている。八月の陽はまだ夏のものだけれど、風にはもう、秋の最初のひと筋が混じり始めていた。あと一月もすれば、刈り入れだ。

 景親の後ろには、郎党(ろうとう=家来の武士)が五人、少し離れて付き従っている。稲の出来を見て回るのは、ふつうは「検見(けみ)」といって、帳面を持った下役(したやく)の仕事だ。当主がわざわざ自分で田を歩く必要なんて、ない。それでも景親は、夏の終わりになると、いつも御厨の田を歩いた。父もそうしていたし、祖父もそうしていた、と聞いている。

 ふと、土の匂いがした。

 水を抜く前の田の、重く湿った匂いだ。景親は、この匂いが好きだった。京の都の白粉(おしろい)の匂いよりも、寺のお香の匂いよりも、この土の匂いのほうが、ずっと信じられる気がしていた。


「殿。そこの田は、今年は出来がようございます」


 そう声をかけてきたのは、郎党の列の、いちばん後ろにいた、若い男だった。弥六(やろく)という。御厨の田で生まれ育った子で、十七に、なる。去年の春から景親の供に加えられて、まだ、槍の持ち方を覚え始めたばかり。武士とも百姓ともつかない、そんな若者だ。

 古参の郎党が、振り返ってにらんだ。当主に向かって下の者が口をきくな、という目だ。でも景親は、稲穂から目を上げないまま答えた。


「ほう。なぜ分かる」

「おれが植えた田です。春に水を引くとき、上の溝を直しました。だから今年は、水切れがありません」

「おまえが直したのか」

「父と二人で」


 景親は、短く笑った。

 弥六の言うとおり、その一枚は、まわりの田より、穂の首が深く垂れている。田は嘘をつかない。手をかけただけ実るし、手をかけなければ痩せる。人の世のごたごたよりも、よほど筋が通っていた。

 景親は立ち上がって、腰を伸ばした。四十半ばの体は、馬の上では衰えを見せないのに、かがんだ姿勢からは、すぐに戻らなくなっていた。

 大庭御厨。

 相模の海に近いこの一帯は、伊勢の神宮に寄付された土地――「神領(しんりょう)」だ。といっても、神主が耕しているわけではない。切りひらいたのは景親の先祖、耕すのは弥六の父のような百姓たち、守るのは大庭の一族。神宮の名は、いわば屋根のようなものだった。その屋根の下で、土地と人は、何代も続いてきたのだ。

 その土地の上に、このところ、いやな風が吹いている。

 京で、平家と院(いん=上皇)がぶつかった。以仁王(もちひとおう)という宮様が、「平家を討て」という命令書――令旨(りょうじ)を、諸国に飛ばしたのだ。その話は、春に聞いていた。宮様は討たれ、騒ぎはもう収まったはずだった。でも、令旨は紙だ。紙は燃やしても、写しが残る。

 屋敷に戻ったのは、昼を過ぎた頃だった。

 門の前に、見慣れぬ馬が二頭、汗にまみれて繋がれていた。

 使者だった。

 広間には、夏の西日が低く差し込んでいた。板の間に膝をついた男から、汗と埃(ほこり)と馬の匂いがした。伊豆から駆け通してきたのだろう、体がまだ小さく上下している。男は床に手をついたまま、一息に言った。


「十七日の夜、伊豆の流人(るにん)・源頼朝(みなもとのよりとも)が兵を挙げ、目代(もくだい)・山木兼隆(やまきかねたか)どのの館を襲って、これを討ち取りましてございます」


 広間が、静まった。

 流人とは、罪で島へ流された者。目代とは、国を治める役人の代官だ。景親は上座に腰を下ろし、しばらく、使者の顔を見ていた。


「頼朝。佐殿(すけどの)か」

「は。北条の館に匿われていた、あの佐殿にございます」


 源頼朝。亡き義朝(よしとも)の三男。平治(へいじ)の戦のあと、子どもだからと命だけは助けられ、伊豆へ流されて二十年。景親も名前は知っていた。坂東の武士で、知らない者はいない。知ってはいるが、ただそれだけの男のはずだった。その流人が、平家の目代を殺した。


「兵は」

「挙兵の場には、三百には届かぬかと。北条時政、土肥、岡崎、佐々木の兄弟など」

「三百」


 景親はつぶやき、それから、使者を下がらせた。

 夕方には、弟の俣野景久(またのかげひさ)が、馬を飛ばしてきた。景久は広間に入るなり、あいさつよりも先に言った。


「兄者、聞いたか」

「聞いた」

「すぐ潰す。潰すなら、早いほどいい。あれは火種だ。令旨の写しを抱えて、坂東じゅうの不平者をかき集める気だぞ」

「分かっている」


 景親は、静かに答えた。景久は昔から、戦と聞くと声が大きくなる。言っていること自体は、間違っていない。三百の流人なんて、放っておいても潰れる。でも、放っておけば、三百は五百になり、五百は千になる。坂東の武士は、勝ちそうな側の匂いを、すばやく嗅ぎ分けるからだ。

 それに、と景親は思う。

 大庭は、平家に仕える家だ。相模で平家の代わりを任されているのは、ほかでもない、この自分。目代が殺されたのに動かなければ、大庭の名が立たない。名が立たなければ、御厨も守れない。


「触れを出せ。相模、武蔵(むさし)の平家方に、残らず。三日で兵を集める」


 景久が、にやりと笑って立ち上がった。兄が潰すと決めたなら、もう確かめることは何もない――昔から、そういう笑い方をする弟だった。

 広間の隅で控えていた弥六が、固くなっているのが見えた。槍を覚えて一年半の若者にとって、これが初めての、戦の呼び集めだった。


「弥六」

「は、はい」

「おまえも来い。槍持ちでよい」


 弥六は、ごくりと喉を鳴らして、頭を下げた。下げた頭の向こう、開け放った戸の外には、夕陽を浴びた田が、金色に光っていた。

 あとひと月で刈り入れの、稲の海だった。


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