1-1 葡萄月
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調教助手の朝は早い。
日の出と共に起きる竜。それより少し早く起きる調教師。調教助手は、それより更に早く起きてその日の準備を始める。
厩舎や練習場の巡回。餌の用意。昨日の復習に基づいた、今日の訓練の組み立て。包帯・毛布など緊急時のための備えも忘れず。そうこうしていると、背後から声がかかった。
「おはよう」
白い髭が特徴の、熟練調教師アヒューイルさんだ。助手として、僕が勉強させて頂いている先生でもある。
「おはようございます」
彼の下で働いて早一年。だいぶ仕事にも慣れ、朝の日課のやり忘れもなくなってきているため、物怖じする必要はない。彼の顔はそれはそれは厳めしく、竜にも引けをとらないほどだが、その実、だらしのない者は叱りこそすれ、優秀な人間にはしっかり褒める、公平な性格の人なのだ。先生は顎でついてくるように示し、厩舎に向かう。僕は慌てて、革手袋をはめると、鍵の束を取ってその後を追った。
既に今朝の巡回は済ませていて、脱走等の目に見える問題は起こっていないことは確認した。木の扉の鍵を回し、開け放つと、暗がりにすっと朝日が射し込んでいく。それを待ち侘びていたように、一頭の竜がギュウウゥゥと啼いた。
「テルビナ。おはよう」僕は厩舎の中に入って、一番近くの竜房にいる竜に声をかける。その茶褐色の鱗を持つ仔竜は、僕に頭を擦りつけ、挨拶を返すようにもう一つギュウウゥゥと啼く。
ヤチルテルビナ。
五冠を獲り、片楯をも得た名竜、ヤチルシーム号の初仔にして、僕が調教助手として最初に担当することになった竜だ。調教師が厩舎全体の竜を管理するのに対し、調教助手は、その中の一頭を任され(といっても、餌の量や訓練内容には、必ず先生の認可が要るが)集中的に調教する。
テルビナを担当することになったのは、幸運な偶然――と言いたいところだが、自分からそれとなく立候補してみたところはあった。勿論ヤチルシーム号ほどの名竜の仔を育てる機会があるというなら、我先にと手を挙げるのは調教師見習いとして当然のことだし、それゆえ実際は籤などで決めたのかも知れないが、事実として、僕は自分が担当することになったこのヤチルテルビナ号を、最強の竜へと育てるべく、この一年、奮起してきた。
最強の竜へと育て、あの方に乗って頂くために。
朝食の前に、厩舎の中を見回り、食前の軽い運動をさせる。まずテルビナの頭に、手綱が繋がっている無口を取りつけ、柵を開けてやる。既に体高(肩までの高さ)は3キュートルを超えており、首を立てれば、3キュートル9セインの僕の身長はすっかり抜かれてしまう。腕の中にすっぽり収まっていた時期が懐かしいが、それなりの大きさでないと、人を乗せて空を翔けるなど到底不可能であるため、順調に育っているのは喜ばしいことではある。
さて、この厩舎にはもう一頭、仔竜がいるのだが。
「……グィーベ」
僕が呼んだのは、その仔竜――ではなく。
仔竜を抱くように眠っている、長身の男。
僕の同僚、つまりは同じく先生の助手だ。
「おーおはようエムリス」
彼はぱちっと目を覚まして長い腕を挙げる。というか、僕が厩舎に入った時点で覚醒はしていたのかも知れない。彼の挙動に、仔竜のほうも目を覚まし、キュルルゥゥ、と啼く。
竜の名はエルダープサー。黒い鱗が特徴的で、大きさはテルビナと同じくらいである。母竜がヤチルシーム号とも競った二冠竜、エルダーカイサー号であり、更に血統を遡ると、“英雄王”や“俊英雄”と同じ世代を最後まで翔け抜けた“漆黒領主”サイネグエルダー号を先祖に持つ、生抜なのである。そしてその担当を任されたのが、このだらしない男というわけだ。
「竜は体温が高いから一緒に寝るなって言ってるだろ。というか朝の日課手伝え」
首を伸ばしてくるプサーの頭を撫でながら僕は言う。グィーベは上半身だけ起き上がってぐっと伸びをすると、「プサーの為を想ってのことだからなー」おもむろに、担当竜の頭に無口を取りつける。僕の後半の言葉は無視して。
二人で先生のところまで出ていき、改めて指示を出される。
「よし、外周一回り行ってこい」
「「はい」」
僕たちは言われて、壁の防具を取る。
競竜は二歳以上の竜同士を競わせる。よって二歳になるまで――テルビナやプサーの場合だとあと半年後までに、競争に耐え得るだけの身体づくりをする必要があるのだ。生後半年で母竜とは離され、訓練が始まる。その中には当然、飛行訓練も含まれており、その際は、いちいち騎士様をお呼び立てするわけにもいかないため、こうして調教師・調教助手が騎手を務めるのである。
「行くよテルビナ」
轡を噛ませ、鞍を着けて、僕は騎乗した。隣でグィーベも着々と準備を始める。先生に叱ってほしかったところだが、このように、彼は調教に関する手際だけはいい。そのため先生も、特に竜に危害を加えているわけでもない普段の奇行については不問としているのだ。用意ができて――僕はテルビナと飛び立った。
高度が上がるのはすぐで、あっという間に厩舎の屋根を超えた。朝の外周の主な目的は、起き抜けの翼の形を整えることと、練習場での本調教に向けた慣らしである。調教せずとも、最初からまっすぐ飛べる竜は多くいるが、最初から、曲線に沿った旋回ができる個体となるとなかなかおらず、基本的に一から教え込むしかない。こうして毎朝、競竜場の翔路を意識した飛行をすることで、自分が野生種ではなく競争用品種改良種であると竜に自覚させるのである。
競竜で一般的な竜は、アブスルグ種という、競争 《レース》用に品種改良された竜で、野生種と比べるとやや小柄だ。小柄ゆえの敏捷性がありつつも、持久力や知性も持ち、正に先人たちの試行錯誤の賜物といえよう。風を感じながら、そんなことに思いを巡らす。
アブスルグ種は、親の形質を受け継ぎやすい、という特徴もある。そのため、ヤチルシーム号やプサーの父竜のような優秀な成績を収めた雄竜は引退後すぐに種竜入りするし、雌竜もエルダーカイサー号など好成績の個体を中心に、繁殖竜入りする。そうして次の世代ではよりよい成績を、その次は更に、という循環が、競竜界の根本である。
グィーベの乗るプサーが、我々の上を颯爽と飛んでいった。プサーは長く続く名竜の血筋で、飛行は一歳竜の中ではかなり巧いほうだろう。一方のテルビナは、物憶えはいいが、良くも悪くも平均的である。父親のヤチルシーム号も、どちらかといえば大器晩成型だったため、そこまで心配することでもないとは思うが、同期のあの飛行を見せられて、焦らないといえば嘘になる。グィーベも、竜を見る目だけは確かで、竜と一緒に厩舎で寝るという行動も、竜の体調を常に気にしているからこそであるともいえる。そんな姿を見ていると、自分の、自分たちの努力が足りないのではないかという気にさせられる。
勿論、このような自由飛行が巧いからといって、実際の競争における、複数の竜との競り合いが巧いのかというと、それは必ずしも等号では結ばれない。競争は、他との戦術の兼ね合いで成り立つものだ。あちらの竜は後ろで控えているから、まだ羽を溜めておこう。そちらの竜は他の竜に近づきがちだから、間隔に気をつけよう。そうして竜同士が、騎手同士が高め合うことで、ただの追いかけっこではない、競争としての価値が生まれる。独り善がりな戦術も、あり得ることはあり得るが、そのような、それこそ自由な飛翔は、ごくごく限られた竜にしか許されない。
テルビナもプサーも、地上に降り立つ。先生は他の竜を見にいっているため、僕たちで指示されている残りの調教を始める。
「はあ……」
騎乗中の消極的な考えを引きずって、思わず溜息が出る。
すると、
テルビナが、僕の肩に顔の先を擦りつけてきた。
僕はパッとそちらを見る。
朝日に煌めく鱗の奥に見える、空を映したような深い青色の瞳。
寒くなってきた気候と反対に、身体の芯から火照っている体表。
「……何でもないよ」僕は言って、テルビナの顎を撫でる。そうだ、暗い気持ちになっていたのは僕だけだ。テルビナはいつでも、楽しんで空を翔けている。喜んで初舞台を目指している。それなら僕も、傾くのは明るいほうへ。
初舞台は半年後。それまでに、あの方に恥じない成竜に、テルビナを育て上げる。それがテルビナを担当することになった僕の、唯一にして最大の使命であり、起こってもいないことにかかずらっている暇はない。




