触れないままの答え(竹田香莉)
「結婚することになった」
尚の言葉に、思わず身を乗り出した。
「え、ほんとに!?おめでとう!」
自然に出た声だった。
嬉しい、と思う。
尚はちゃんと幸せそうだし、それでいいじゃん、って素直に思える。
「いや〜ついにだね」
グラスを持ち上げながら、軽く笑う。
「尚が一番早いとは思わんやったけど」
「やめてよ」
尚が照れたように笑う。
そのやり取りを見ながら、ふと横にいる彩美に目をやる。
笑っている。いつも通り。
——でも、なんかちょっと違う。
一瞬だけ、そう思った。
「彩美もそろそろじゃない?」
何気なく言った言葉だった。
深い意味なんてない。
ただの会話の流れ。
でもその瞬間、空気がほんの少しだけ変わった気がした。
「あー……どうやろね」
彩美は笑って返したけど、どこか引っかかる。
——あ、やったかな。
ほんの少しだけ後悔する。
でも、それ以上は何も言わなかった。
誰だって、触れられたくないタイミングくらいある。
「いいな〜。どんな感じ?プロポーズとか」
すぐに話題を戻す。
場の空気を軽くするのは、昔から得意だった。
仕事でも、プライベートでも。
“場を回す側”。
気づけば、ずっとそのポジションにいる。
話はそのまま盛り上がっていく。
指輪の話、式場、両家の挨拶。
現実的な話がぽんぽん出てくるのを聞きながら、内心で少しだけ思う。
——ちゃんとしてるなあ。
自分にはない感覚。
結婚って、もっと先の話だと思ってた。
というか、正直に言えば、
“しなくてもいいもの”くらいに思っていた。
仕事も楽しいし、自由だし。
今の生活に、不満はない。
ない、はずなのに。
「最近どうなん?仕事」
尚に話を振られて、グラスを傾ける。
「まあまあかな。忙しいけど」
軽く答える。
実際、忙しい。
任される仕事も増えて、責任も大きくなってきている。
上司からの評価も悪くないし、このままいけば昇進の話も出てくるかもしれない。
——悪くない。
むしろ、順調なほうだと思う。
「香莉すごいよね、ほんと」
彩美が言う。
「いやいや、全然よ」
笑って返す。
こういう会話も、慣れている。
“できる人”って思われること。
それはそれで楽だし、嫌じゃない。
でも。
「香莉はさ、結婚とか考えんと?」
尚が、少し遠慮がちに聞いてくる。
一瞬だけ、言葉に詰まる。
「んー……あんまりかな」
正直に答える。
「まだいいかなって感じ」
「そっかあ」
尚はそれ以上何も言わなかった。
でも、そのあとに続く会話の中で、ほんの少しだけ距離ができた気がした。
——気のせいかな。
店を出て、外の空気を吸い込む。
「じゃあまたね〜」
二人と別れて、一人で歩き出す。
ヒールの音が、夜の道に響く。
さっきまでの賑やかな空間が嘘みたいに、静かだった。
スマホが震える。
画面を見ると、“母”の文字。
少しだけ、ため息が出る。
「……もしもし」
『あんた今何しよると?』
「今帰りよ」
『あんたさ、この前言いよった人どうなったと?』
——やっぱりそれか。
「別に、何もないよ」
『何もないって、もう29よ?』
言葉が、少し強くなる。
『周りも結婚しよるやろ?あんたもちゃんと考えなさいよ』
無言になる。
夜の空気が、少しだけ冷たく感じる。
「……分かっとるよ」
『分かっとるなら——』
「今はいいって言いよるやん」
少しだけ、声が強くなる。
自分でも驚くくらい。
一瞬、電話の向こうが静かになる。
『……まあいいけど』
少しだけトーンが落ちる。
『でも、あとで後悔しても知らんけんね』
その言葉を最後に、通話が切れた。
スマホを下ろして、深く息を吐く。
——うるさいな。
そう思うのに、
その言葉が、頭の中に残る。
“あとで後悔しても知らんけんね”
足を止める。
街灯の下で、自分の影が伸びている。
「……後悔、とか」
小さくつぶやく。
今の生活に、不満はない。
仕事も順調。自由もある。
誰かに縛られることもない。
それなのに。
——このままでいいんかな。
さっき、ほんの一瞬だけ浮かんだ言葉。
すぐに打ち消したはずなのに、また戻ってくる。
「……いや、ないない」
首を振る。
そんなこと考える必要ない。
自分は、自分で選んでここにいるんだから。
そう思いながらも、
心のどこかが、少しだけ引っかかっている。
その正体には、まだ触れないまま、
香莉はまた歩き出した。




