名前のない違和感(加藤彩美)
薄暗い照明の中、グラス同士が軽く触れ合う音がした。
「じゃあ……改めて。おめでとう、尚!」
香莉の明るい声に合わせて、三人のグラスが中央に集まる。カチン、と小さく乾いた音がして、泡が静かに揺れた。
「ありがとう」
松本尚は、少し照れたように笑った。普段と変わらない柔らかい笑顔なのに、その言葉の重みだけが、どこか違って聞こえる。
結婚。
その二文字が、テーブルの上にそっと置かれたみたいだった。
「いや〜ついにだね。尚が一番早いとは思わんやった」
香莉がからかうように笑うと、尚は「やめてよ」と肩をすくめる。
「ほんとにね。まだ実感ないけど……でも、決まったら一気だったかも」
「いいな〜。どんな感じ?プロポーズとかちゃんとされたと?」
会話は自然と盛り上がっていく。
指輪の話、両家の挨拶、式はどうするか——
加藤彩美は、グラスを傾けながら、そのやり取りを静かに聞いていた。
「彩美はどう思う?」
ふいに話を振られて、顔を上げる。
「え?」
「だからさ、結婚。彩美もそろそろじゃないと?」
香莉の軽い一言に、ほんの一瞬だけ、空気が止まった気がした。
「あー……どうやろね」
笑って返す。いつもの調子で、軽く。
「仕事もまだバタバタしとるし、そんな余裕ないかも」
「またまた〜」
香莉が笑い、尚もつられて笑う。
その場はそれで終わった。
誰も深くは突っ込まない。優しさなのか、ただの気遣いなのかは分からないけど。
けれど、その言葉だけが、妙に胸の奥に残った。
——そろそろじゃないと。
店を出た瞬間、夜の空気が少しだけひんやりしていた。
「じゃあまたね〜」
「次は式の話聞かせてね」
それぞれが違う方向へ歩き出す。
何度も繰り返してきた、いつもの別れ方。
なのに、今日は少しだけ違って感じた。
ヒールの音が、やけに響く。
カツ、カツ、と一定のリズムで鳴るその音に、自分の思考が追いついてこない。
——結婚。
さっきから、その言葉だけが頭の中をぐるぐるしている。
尚が結婚する。
あの尚が。
三人で「誰が一番早いんやろね」って笑っていた頃のまま、時間が止まっていた気がしていたのに。
スマホを取り出す。
通知は一件。
——拓也
“今日どうやった?”
短い一文。いつも通り。
それだけで、少しだけ気持ちが緩む。
優しい人だな、って思う。
付き合って七年。
社会人になってからも、ずっと隣にいた人。
ケンカもしたし、うまくいかない時期もあったけど、それでも離れなかった。
それなりに、ちゃんと積み重ねてきた関係だと思う。
「……どうやった、か」
小さくつぶやく。
“尚が結婚するって”
打ちかけて、消す。
なんとなく、言えなかった。
代わりに、「今帰りよ」とだけ送る。
すぐに既読がついて、「お疲れさま」のスタンプが返ってきた。
それを見て、また少しだけ安心する。
——この人となら、大丈夫。
そう思えたことも、何度もあった。
でも。
歩きながら、ふとショーウィンドウに映った自分と目が合う。
スーツ姿。ヒール。肩から下げた営業バッグ。
「……これ、ずっとやるんかな」
広告代理店の営業。
毎日のアポイント、数字のプレッシャー、クレーム対応。
気を遣うことも多いし、しんどい日もある。
でも、やりがいがないわけじゃない。
うまくいった日はちゃんと嬉しいし、成果が出れば評価もされる。
“ちゃんとした仕事”だと思う。
——でも。
胸の奥に、ずっと引っかかっているものがある。
それが何なのか、分かっている気もするし、分かりたくない気もする。
「……本、好きやったよね」
ふいに、昔の自分の声が浮かぶ。
休みの日は本屋に行って、気づいたら何時間も立ち読みして。
気に入った本は何度も読み返して、登場人物に勝手に感情移入して。
あの時間が、好きだった。
「編集、とか……」
口に出した瞬間、自分で苦笑する。
未経験。コネもない。現実的じゃない。
それに——
ここを離れることになる。
仕事も、今の生活も、友達も。
そして、拓也も。
「そんな簡単に、動けるわけないよね」
そうやって、自分に言い聞かせる。
そのとき、スマホが震えた。
拓也からの着信。
「もしもし?」
『今どこ?』
「もうすぐ家」
『ご飯まだやろ?なんか作っとるけん、帰っておいで』
少しだけ、間が空く。
「あ、うん……ありがとう」
『待っとるけん』
電話が切れる。
優しい声。いつものやりとり。
それがちゃんと“幸せ”だってことも、分かってる。
——でも。
アパートの前に立って、二階の部屋の明かりを見上げる。
帰る場所があるのに、なぜか少しだけ遠く感じた。
ドアを開けると、ふわっと料理の匂いが広がった。
「おかえり」
キッチンから顔を出した拓也が、いつも通りの笑顔で言う。
「……ただいま」
「もうすぐできるけん、座っとって」
「手伝うよ」
「いいよいいよ」
軽く手を振られて、ソファに座る。
包丁の音が、規則的に部屋に響く。
トントン、トントン。
——尚、結婚するって言えばよかったかな。
でも、言えなかった。
何かが変わりそうで。
「できたよ」
テーブルに並べられたご飯を見て、小さく息を吐く。
「ありがとう」
「いただきます」
向かい合って座る。
「今日さ」
気づけば、口にしていた。
「尚が——結婚するって」
少しだけ間が空く。
「へえ、そうなんや。おめでたいね」
穏やかな声。
それだけ。
「……拓也はさ」
自分でも驚くくらい、自然に言葉が続く。
「結婚とか、考えたりせんと?」
拓也は少し考えてから答えた。
「まあ、いずれはって感じかな」
「……いずれ」
「今すぐじゃなくてもいいかなって思っとるけど」
その言葉に、胸の奥が少しだけチクっとする。
「彩美は?」
「……どうやろね」
また、同じ答え。
逃げているのは分かっている。
沈黙が落ちる。
食器の音だけが、小さく響く。
——このままでいいのかな。
目の前には、優しい人がいる。
大切にしてくれる人。
不満なんて、ないはずなのに。
なのに、
どこか、足りない気がする。
何が足りないのかも分からないまま。
「ごちそうさま」
立ち上がって、部屋に戻る。
ベッドに腰を下ろして、スマホを開く。
流れてくるのは、結婚報告や子どもの写真。
“おめでとう”のコメントが並ぶ投稿。
画面を閉じる。
深く息を吐く。
——私は、どうしたいんだろう。
答えは、まだ見えない。
ただ、胸の奥に残った違和感だけが、
静かにほどけ始めていた。




