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68.オヌシもワルよのう

 一時あっためまいの症状は、青木や玲夢がたまにレバニラ炒め定食に付き合ってくれるお陰か、あれ以降は起きていない。

 つわりも心配していたほどきつくはならず、炊きたてのご飯の湯気に顔を突っ込むような暴挙を慎めば何とか乗り切れそうだ。それに、米ならシャルムの海老ピラフで補える。


 あれ、もしかして安定期? 

 いやそんなわけないか、早すぎる。


 まあ身の回りに起きている、嵐と落雷と地震に同時に襲われているような大波乱に比べたら、子宮も体調も平和そのものだ。

 ただ、乳房の張りと、先端の痛痒さにはまいった。でも、これは母乳を出す準備だというので、そう考えると、耐えるのもちょっと嬉しい。


 このあいだ検診のときに見た超音波映像では、おもちゃみたいな心臓がピコピコと拍動しているのが見えた。『ここにいるよ』って手を振っているみたいで、愛おしい。

 まだ何の準備もできてないけど、遠慮しないでおっきくなりなよ、チビ仁。



 仁の遺伝子を受け継いだ命。

 日々成長する命。

 これを二十二週までなら親の都合で掻き出してもいいという法律は、なぜ憲法違反にならないのだろう。

 戸田嶋は、そんなことを考えていたせいで周囲の声が耳に入っていなかった。





 「ヘタ子、聞いてる? 親方との打ち合わせ、平気? 大丈夫?」

 すんません、聞いてませんでした。

 

 そうだなのだ。グルーヴさんのコンペは一次審査を通過しているから、最終選考に向けた準備を始めないといけない。

 今日はそのためにみんなで時間を合わせて出社したのだった。


 具体的なイメージと投資金額を含めたモデルケースを提案をするには設計・施工会社の協力が不可欠で、ウチは(はな)からここにアイテック株式会社を当て込んでいる。

 そして、これから行う打ち合わせの相手が、以前、過呼吸発作の原因を作った『親方』こと中杉源蔵さんなのだ。それで玲夢が気を遣っている。


 「大丈夫、過呼吸はもう起きないから」


 「それはそうだろうけど、親方と顔合わせんの、気まずいんじゃないの?」

 

 「ぜんっぜん、むしろイジリたくてウズウズしてる」


 トラウマを上書きすることになったあのハッピーアクシデント以来、親方とはご一緒していない。でもアイテック社とはあの後も一緒に仕事をしているのだから、誰かが調整していたのだ。偶然ふたりが遭遇したりしないように。

 たぶん……、小巻主査だろう。



 「じゃあ四人で行く?」


 「うん」


     ☆


 アイテック社は、専務が、(とび)装束で首に手拭い、という出で立ちでどこにでも顔を出すせいで、つい家内工業的な会社に見えてしまうのだが、実はけっこう大きい。


 多摩に自社ビルを持っていて、本社はそこの二階に入っている。一階もそうなのだが、そっちは取引先のショールームに使っていて、定期的に展示が入れ替わるので、どこの会社なのか、ぱっと見にはわからない。


 資材置き場と作業所は、本社とは別に、奥多摩にあり、商談用には新橋に出張所を借りているのだから、工務店のなかでは中堅だ。



 打ち合わせは本社に二時、ということだったので、ワイズデザイン一行は多摩センター駅の近くで昼食を済ませて、タクシーでアイテック社に向かった。


 戸田嶋にとって本社を訪ねるのは二度目だ。

 でも一度目は入社時の取引先訪問で表面をつらっと見て回っただけだから、この日が初訪問のようなものだ。


 一階のショールームは、今は、水回りがテーマだった。

 キッチンや洗面所、そして恥ずかしいくらいに開けっぴろげなトイレの間を縫って、エレベーターで二階に上がる。


 通された応接は、スマートながら落ち着いた雰囲気だった。

 トータルのイメージは木で統一されている。

 天井は二本の太い(はり)を見せた、屋根裏風の勾配天井だ。

 梁の間に取り付けられた現代的なデザインの照明は、間接照明になるように上や横を向いている。

 壁は歴史を感じさせる板壁。広い窓は明るい色の木製ブラインドで覆われていた。

 玲夢によると、すべて古材で作られているらしい。デザイン力と技術をアピールするためのショールームなのだろう。

 

 「失礼します」と、事務服の女性が入室してきた。その後ろに親方。

 女性がワゴンに乗せたティーセットを来客の面々にサーブするあいだ、全員が無言だった。

 ときどき親方を見遣ると、親方は弾けるように目を逸らす。


 ひひひ、

 これは面白くなりそうだ。


 女性が入口で向き直り「失礼いたしました」と言って退席したその瞬間、戸田嶋は、

 「親方、今日はスーツじゃないんですね」

 とにやりと笑って先制攻撃。


 「勘弁してよ戸田嶋さん」


 「今日は久しぶりに、あのダブルのスーツが見れると思って楽しみにしてたんですけど」


 「ほんと悪かった、いきなりあんなこと」

 親方が肩をすくめて鳩のように頭を下げた。

 ワイズデザインの面々は皆、笑いをこらえて見守っている。

 「えっと何でしたっけ。結婚を前提に……」


 「わかった! わかったからもう止めて頼むから。俺さ、どうかしてたんだよ、もう小巻さんにさんざ絞られたんだから、忘れてください。お願いします」


 こんなに早く降参されるとおもしろくない。


 「あの、結婚はともかくとして、親方のことはわたし、好きですから」

 ここは力を込めた。そして、 

 「いく久しう、御願(おんねが)(たてまつり)りますぅ~」

 と声色を変え、両手を着く仕草を大袈裟にして頭を下げる。ははぁ~っという感じで。

 時代劇ごっこはふたりの持ちネタのようなものだ。


 ほどなく親方が

 「オヌシもワルよのぉ」

 と小声で返してきて皆で大笑い。


 しょうがない。

 このくらいで勘弁してあげよう。




 「さてっと、じゃあ、手打ちも済んだようですから、本題に入りますか」

 玲夢が、持ってきたトートバッグから書類を取り出した。


 本題といっても、本当の本題に入る前の契約の締結だ。

 秘密保持と業務提携に関する基本契約書。

 内容は双方確認済みなので、あとは親方が署名押印して一通ずつ取り交わしたら終了だ。



 このあと、親方が実務担当者を呼び、ワイズデザイン側は飛島先輩と青木が中心となって先方に要求事項を伝え、打ち合わせは予定通り終了した。


 やぁ無事に終わった、さて帰ろう、とタクシーを呼んでもらって一階のショールームから外を窺っていたら特徴のある車が通り過ぎて行った。


 光岡自動車のなんとかいう、でかくて押し出しが立派、というかご立派な車は御子柴社長の愛車と同じだ。

 あんな派手なのを乗り回す人が社長の他にいたとは。

 まあでも東京は広いから、とこのときは特に気にもかけなかったのだが……。


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