36.中学生であっても真鈴ちゃんは……
翌朝は六時前にアパートを出て、待ち合わせの公園に向かった。
約束の七時より十分以上早く着いた。
真鈴ちゃんが『タイヤで作ったウサギさん』と表現したオブジェは、公園内の丘のてっぺんにあった。
トラックのタイヤの下三分の一が土に埋まっていて、中空の半円をベニヤ板が塞いでいる。そこに、にっこりと笑った目が描かれていた。頭の部分には耳らしきものが取り付けられていて、それでようやくウサギだとわかる。
ウサギさんというより生き埋めの化け物ウサギだ。
それが笑っている。
少しもかわいくない。
はっきり言って怖い。
この公園を、真鈴ちゃんは『ウサギの丘公園って、わかります?』と訊いてきた。おそらくご近所や友達だけで通じる俗称だろう。
まあ、そこが中学生の世界観か、などとそんなことを考えながらベンチからオブジェを見上げていたら、入り口の方から砂利を踏む靴音が聞こえてきた。
振り返ると、夏用の制服に身を包んだ中学生らしき少女がいた。
襟元の明るいブルーのリボン、あどけなさが残る愛らしい顔。
きっと真鈴ちゃんだ。
立ち上がって正対したが、少女は依然として硬い表情を崩さない。
「戸田嶋、早妃です」
先に名乗ったら、張りつめていたふっと空気が緩んだ。
「柏崎真鈴です」
なるほど。
何がなるほどかはともかく、初対面の中学生と何から話したらいいかわからない。
とりあえず、
「あれ、なかなか不気味ね」
とウサギのオブジェを指さした。
真鈴ちゃんは淡々と説明を始めた。
「そうなんです。夜になるともっと不気味で、一時YouTubeでも話題んなったんですよね、度胸試しとかで。あ、あとインスタも、今でもけっこう遠くから撮りにくる人もいて」
そうか、有名なスポットだったのか。
映えかどうかはともかくとして、『わかります?』という問いかけが成立するくらいには。
「座んない?」と誘い、隣り合ってベンチに座った。
何気なくを装って、改めて真鈴ちゃんを見た。
話した印象は、しっかりした中学生だ。でも声音から伝わってくる危うさは、まるで孵化したばかりの雛だ。
自分も通ってきた中学生という時代はこんなにも無防備だったのか。この状態で、複雑な人間関係や競争に晒されていたのか。
「その後、お兄さんから連絡きた?」
「いえ」
「お母さんのようすはどう?」
真鈴ちゃんは何も言わず、ただ、首を左右に振った。
「あたしね、あれから、真鈴ちゃんが教えてくれたファンクラブの代表の人とお話ししたんだ。
ファンクラブって、元は親衛隊だったのね。親衛隊の隊長だったんだって、半場ツムギって子。真鈴ちゃんは話したことある?」
「いえ」
「揉めてる感じとか、あった?」
「別に」
「じゃあ仁にまとわりついて困らせる、なんてことはなかったんだ」
「はい、むしろ人だかりができると警備みたいなことしてくれたり。最近はないですけど。もう大会とか出てないんで……」
真鈴ちゃんはここでことばを止めた、
言い淀んだ理由は仁が現役を退いたことへの寂しさだろうか。
考えていたら真鈴ちゃんがことばを継いだ。
「でも遠征先にまで付いてくるんで、ちょっといやがってました。他の選手にも迷惑がかかるって」
「それは大変だね」
「はい、でもお兄ちゃん、なんとかうまいことやってて、トラブルとかはなかったんですけど」
再び言い淀んだので、顔をのぞき込んでしまった。
「でも、戸田嶋さんが」
「え」
「戸田嶋さんの映像が投稿サイトに上がるようになって……、あれ、カフェでお兄ちゃんが助けてた人って戸田嶋さんですよね、あと、自転車の後ろに乗ってたのも」
知らないうちに晒されていた動画が、誰かの何かを刺激した、ということか。
「ごめんなさい」
「謝ることなんですか?」
突っ込みが鋭い。
しかも、目の前で大きくため息を吐かれてしまった。
今の世のなか、どこで撮られているかわからない。一般人ならともかく、仁はアマチュアとはいえファンがいるアスリートだ。追っかけがいるとしたら、どこでスマホを向けられるかわかったものではない。
こめかみに浮いた汗をハンカチで叩いた。
動揺したのがばれないように。
「あの」
「なあに」
「お兄ちゃんと、エッチしたんですか?」
あまりにストレートな質問が、カウンターパンチのように感情を揺さぶった。
想定していなかった。
どうしよう。なんて答えればいい。
回答を拒否することはできる。プライベートなことだし仁にとっても秘密だ。でもノーコメントだと肯定してるようなものだし、だからといって真鈴ちゃんに嘘は吐けない……。
中学生であっても、真鈴ちゃんは人としての芯をしっかりと持っている。
正直に言おうと意を決したら、今度は口が開かなかった。
仕方ないので大きく頷いて答えとした。
「遊びじゃないですよね」
「それは違う」
自分でもびっくりするくらい大きな声で答えていた。
「ならいい、ですけど」
「真剣です。それは、本当」
「何で。どこで、ですか」
どこ、の意味に思いを巡らしたが『何で?』という問いと、妹としての思いを組み合わせて、出会いのきっかけだと判断できた。
「最初はね、ほんの偶然だったの」
戸田嶋は、出会いからの経緯を掻い摘んで話した。
ひと通り聞き終えた真鈴ちゃんは、
「その、最初に山手線のなかで落としたハンカチって、なんて」
とだけ質問した。
たしかさっき、花の模様がある、とだけ説明した。
「タオル地でね、真んなかに刺繍がしてあるの。あれ、薔薇だと思うんだけど」
「あぁ、やっぱり。それあたしがお兄ちゃんにプレゼントしたやつです、十七歳の誕生日に。お母さんにも援助してもらったんですけど。そっか、使ってくれてたんだ」
「そういうことか。だから、落としたとき慌ててたんだね」
案外、真鈴ちゃんが恋のキューピッドかもしれない。
それから二十分ほど話をした。
主に仁のこと。
体操では、ニュースターの追い上げが激しくて悩んでたことや、これまでの恋愛とか進路のことなんか。
仁はいつだったか「英語をもっと頑張んないと」、て言ってた。真鈴ちゃんの話だと将来はスポーツトレーナーの道を探っているようだ。そのためには海外で経験を積む必要があるのかも。
知らないことが多かった。
最後に、何か動きがあったら教え合おう、と確認して分かれた。
心配ごとを共有できて、少しだけ心が軽くなった。