第二話 初陣 7
森に逃げ込んだアルカは、しばらく進んだところで藪の中へ入り、息を潜めて様子をうかがっていた。
野営地から聞こえる喧騒は止んでいないが、どちらが有利なのかまでは分からなかった。
ここで隠れ始めてから、長い時間が経ったようでもあり、それほどでもないような気もする。
視界の隅を羽虫が横切っていくのを、じっと動かずにアルカは見送った。
それから、数を数えれば目安にはなるだろうと数えようとして、すぐに木々の向こうに敵兵の姿を見つけた。
敵は二人。
何かを話しながら進んでいるが、内容までは分からない。
視線だけで追いかけるうち、いくつまで数えていたかは綺麗さっぱり消え去っていた。
小隊はどうなったのか、敵の目的は何なのか、ここに隠れていて大丈夫なのか。
疑問は浮かんでくるものの、答えなど分かるはずもない。
しかし、不安を解消する為に動く気など、アルカには最初から無かった。
仮に周囲の味方が全滅していたら、軍服を脱いで、避難民のふりをして逃げ出せばいい、等と。
どうやって生き残るか、そればかりを考えていた。
再び敵が、森の中を走ってくる。
今度は三人、すぐ目の前の獣道を通っていった。
敗走中にも見えなかったが、森の外からはまだ戦いの音が聞こえている。
戦闘を途中で放り出して、どこへ向かうつもりなのか。
よく分からないものの、後で伍長に報告しようとアルカは考えていた。
「くそっ!」
そんな時、背後から聞き覚えのある声が響いてきた。
後ろに首を回すと、穂先の無い槍を構えたダンが、若い赤毛の女騎士と向かい合っている。
アルカの見間違いでなければ、森に入る前に伍長と戦っていた女のはずだ。
伍長がどうなったのかも気になるが、今はダンである。
相手はダンに躙り寄っているものの、アルカに気づいた様子は無い。
このまま黙ってやり過ごせば、自分は助かるかもしれない。
そう思いながらも、アルカの口は囁くように詠唱を始めていた。
「咲き誇る生命に宿りし、火の精髄よ」
もし、さっき助けて貰っていなかったら、見捨てなかったとは彼にも言い切れなかっただろう。
だが、これでダンを見殺しにしてしまったら、もう二度とニーナの顔を真っ直ぐ見られないような気がして。
「我が心の導きに従い、その姿を現せ」
呼吸を整え、女騎士が動いた瞬間に、アルカは彼女の背後へ飛び出した。
「『炎の矢』!」
完全に不意をついた魔法は、無防備な女騎士の背中へ当たり、何ら影響を及ぼす事なく霧散した。
剣を構えて振り返った赤毛の騎士に、動揺を隠しつつアルカは短剣を構える。
そんな彼に無造作に間合いを詰め、大きく叩きつけるように騎士が剣を振り下ろしてきた。
それを短剣で捌けるような技量も筋力も無かったが、アルカにはいまだ防壁の魔法がある。
その効力も加えれば、この一撃をいなす事は出来るはずだと自分に言い聞かせ、彼は敵の長剣に短剣を合わせにいった。
しかし、女騎士はまるで何も無いかのように防壁の魔法を切り裂き、アルカを斜めに斬り伏せた。
袈裟懸けに斬られたアルカが、地面に倒れる。
慌ててダンが駆け寄ってきたが、女騎士は彼に構うより、先に行った仲間を追って走り去っていった。
「おい! しっかりしろ、ルカ!」
アルカの元にダンが辿り着いた時、地面に流れる血の量に、もう助からないというのが一目で分かった。
言葉を失くして立ち尽くすダンの前で、アルカの腕が地面をかく。
死にかけの体を引きずり、重たい腕を伸ばして、彼は何かをしようとしていた。
命の恩人の最後の願いぐらい、なんとか聞き届けたくて、ダンが顔を近づける。
耳を澄ましてみると、掠れたアルカの声が聞こえてきた。
「帰……る。
帰、るんだ」
森の出口を目指し、致命傷を負いながらも数歩分進んだところで、力なく腕が落ち、瞳が何も映さなくなる。
やるせなさそうに唇を噛んだダンが、そっとアルカの目を閉じさせてやった。
気がつくと彼は、どことも知れない場所を漂っていた。
落ちているのか、昇っているのかも分からない。
ただ、目の前を過る光が、渦を巻いてどこかへ向かっている事だけは分かった。
ぼんやりとした意識のままで、自分が何をしていたか思い出そうとする。
しかし、そもそも自分が誰だったのか、いや、何だったのかが分からない。
ひどくおぼろげな感覚でいた彼に、誰かの呼ぶ声が聞こえてきた。
「ルカさん!」
そう、彼はルカと呼ばれていた。
アルカの愛称だ。
そう認識した瞬間、急に意識がはっきりとして、彼は目を開けた。
目の前にいるカヤを見ながら、アルカの頭に疑問が浮かぶ。
さっきまでも周囲を見ていたはずなのに、自分は今、目を開けたのだ。
では一体、どうやって光の渦を見ていたというのだろうか。
「……なんです。
だからきっと、全部……」
カヤが何かを言っているが、よく聞き取れない。
聞き返そうとした時に、はっきりと言葉が伝わってきた。
「これからあなたと会う私は、ここでの事を知りません。
今の私と同じ人間でありながら、異なる時間を生きているからです」
一体、彼女は何を知っているのか。
ここはどこなのか。
アルカの疑問は言葉にならず、ただ切なそうに自分を見るカヤを悲しく思った。
何かを伝えなければいけないのに、自分が彼女にしてやれる事が絶対にあるはずなのに、それがなんだか分からない。
どうしようもない後悔を抱える予感を覚えながらも、何も出来ずにいるアルカを正面から見て、カヤは静かに告げた。
「本当の、ご自分の世界を見つけて下さい。
きっと、それまであなたは死ぬ事さえ許されないから」
どういう意味かと尋ねようとした時、不意に、アルカは自分が流されている事に気がついた。
ずっと、どこかへ向かって押し流されていたようだ。
同じように、カヤも抗えないものによって、別の場所へ流されている事に気がついた。
「もう時間みたいですね。
ルカさん、あなたが未来を迎えられる事を祈っています」
嫌な予感がしたアルカが手を伸ばしたが、腕の感触も無ければ、そもそも自分の体が見当たらなかった。
流れが一層強くなり、あっという間にカヤの姿が遠ざかる。
アルカは何かを言おうとして、まるで滝壺のような激流を浴び、思考を散り散りにさせたままどこかへ流されていった。
「え?」
急に視界が反転したように、アルカの目の前に現実味のある景色が現れた。
薄暗い場所にある鏡に、見慣れた自分の顔が映り込んでいる。
「どうかしたか?」
声をかけてきた呪術の助教授に顔を向けてから、再びアルカは鏡を見る。
いつか見た場面、覚えのある状況に、恐る恐る尋ねてみた。
「先生。
鏡を見る儀式って、一回だけですよね」
「そうだ。
しかし、改まって確認するほど大層な行事でもあるまい。
それより、終わったのならさっさと行くがよかろう」
「あ、はい」
斬られた痛みも、体が冷たく重くなっていく恐怖も、何もかもをはっきりと覚えている。
それどころか、ヒルダと知り合って故郷に向かい、引き止めるニーナを振り切ってしまった事も忘れていない。
あれが長い夢だったとはとても思えないが、ではなんだというのか。
もし仮に、自分の体験した全てが現実なら、今の自分は過去に戻っているとでもいうのだろうか。
ぐるぐるとした思いを持て余したまま、アルカが祠の外に出る。
待っていた三人が、声をかけてきてくれた。
それに応じながら、アルカは頭の中で考えを整理した。
ピートは、この頃と何かが変わった覚えはない。
彼が魔法を使えるまで頑張ったのは知っているが、入学以来これといった変化は無かった。
カヤは、会えば話したりするものの、そこまで親しい仲ではなかった。
あの空間で会った彼女は、ここにいるカヤとは違うと言っていたが。
もしかして、これから半年の間に、カヤは何かああいう不可思議な事柄に関わるのだろうか。
そして、ニーナ。
自分を見る彼女の目を見て、お互いの距離が半年で随分と縮まっていたのを思い知る事になった。
ここが過去だとしたら、今のニーナは、草原で自分を止めてくれた人ではないのだ。
会いたくてたまらない人と同一人物でありながら、彼女はあの彼女ではなくて。
その一点以外、ほとんど望みが叶ったというのに、だからこそ余計にアルカは深い絶望を味わっていた。
「どうかしたか?」
「いや。
まあちょっとな」
とはいえ、ピートとニーナが頼れる相手なのは確かだ。
一人で抱え込めるとも思えなかったアルカは、後で二人に相談する事に決めた。
もう一人については少し迷ったものの、目を合わせた時に小首を傾げる様子を見て、巻き込むのは止めておいた。
あの場所にカヤが至ってしまうのは、きっと彼女にとって悪い事に違いないと感じていたから。